第2話「再会は春風と共に②」

「あ……」


 古びて軋む玄関の扉を押し開けて外に出ると、震える声が耳に飛び込んできた。

 声の主は玄関の扉のすぐ隣に立っていた。


「あ、どうも……おはようございます」


 虚をつかれたものの俺は咄嗟に挨拶をする。この辺りは職業柄だろうか。いついかなるときでも、挨拶の言葉は口をついてまろびでる。

 そこに立っていたのは見知らぬ女性だ。だが、アパートの廊下に立っている以上は、同じアパートの住人なのだろう。ならば、挨拶くらいはしておくべきだ。「おはようございます」と言っておいて、何も悪いことはないのだから。


「あ……えっと……その……」


 だが、俺の予想に反して、無難な挨拶の言葉は返ってこなかった。その女性は落ち着かなさげに視線を惑わせ、何かを言いたげに口をぱくぱくと開けては閉じ、開けては閉じを繰り返している。

 何か自分に不審な点があっただろうか。俺がそんなことを考え、戸惑っていると、ついに彼女の方は決意を固めたのか、彼女は目に力を込めて、口を開いた。


「あ、あの! 覚えてないですか! 私のこと……!」

「え?」


 覚えてないか、だって?

 そう言われて、俺は改めて女性を観察する。

 桜色のワンピースは春風に揺れ、長い髪は朝の陽ざしを浴び艶やかに煌めく。顔立ちには少女のあどけなさと大人の女性の美しさが入り混じる。子供とも大人ともつかない年齢だ。俺の記憶の中にこんな美しさを持った女性はいない。だが、彼女の澄んだ光をたたえた瞳を見ていると、俺の中に一つの記憶が浮かび上がってくる。

 それは、幼い少女の顔。


「まさか……ひよちゃん……なのか?」


 俺は自分で口に出しながらも、その事実が信じられない。

 だって、俺の記憶の中の「静井ひよ」は、本当に幼い子供だったから。


「そう……です! ひよです! 静井ひよです! ず、ずっと隣に住んでいた……!」

「本当にひよちゃんなのか! 大きくなったな!」


 俺は被っていた仮面を脱ぎ捨て、等身大の自分の言葉を紡ぎ出す。

 彼女の方から声をかけてくれなければ、俺は気が付かずにすれ違ってしまっていただろう。なにせ彼女の再会したのは、ほとんど六年ぶりなのだ。

 最後に会ったのは、彼女が九歳の時になる。九歳からの六年というのは非常に大きい。すぐに彼女と気が付かなかったのも無理からぬ話だろう。


「は、はい……! お、大きくなりました……えへへ……」


 彼女はふにゃりと口の端を緩めて笑った。その力の抜けた笑い方は子どもの時の彼女のまんまで、懐かしさが一気に込み上げてくる。

 彼女——静井ひよは俺が住んでいたアパートの隣室に住んでいた少女だ。彼女の母——静井花は、いわゆるシングルマザーで、家を空けていることが多かったので、彼女はよくうちに預けられていた。自分と彼女の年齢差は八歳。自分にとって、ひよちゃんは年の離れた妹のような感覚だ。弱気でよく泣く彼女の面倒を見るのは、俺の役目だった。


「ひよちゃんも、もう十五歳……いや、十六歳になるのか……?」

「そ、そうです……。ちょうど、昨日……四月二日が誕生日だったので……」


 彼女はなぜか恥ずかしそうにもじもじとしている。そして、上目遣いでこちらを見て言った。


「私——十六歳になりました」


 ――十六歳。それは中学を卒業し、社会人になっている者も居る年齢だ。成人年齢にこそ達していないものの、「大人」の階段を一歩、登り始めたところと言っても過言ではない。


「私……この日を待ってたんです……ずっと、あの日から……」


 ひよは、顔を真っ赤にして俺の顔を見ている。


(『あの日』から……?)


 その言い回しからは、俺と彼女の間にある何か特定の日付を指していることが解る。しかし、残念ながら自分の中で彼女の言う『あの日』というのが、何の日付なのかが思い出せない。

 「思い出せない」と正直に申告するべきなのだろうが、彼女の熱に浮かされたように潤んだ瞳を見ていると、そう言ってしまうのも少し躊躇ってしまう。もしかしたら、昔の自分は調子に乗って、彼女に十六歳になったら何かを買ってやる約束でもしていたのだろうか。昔の俺なら、そんな約束をしていても、おかしくはない。

 俺が正直に尋ねようと決意を固めた瞬間に、俺の視界の端にあるものが映る。

 それは、アパートの向こうの大通りで、バス停に向かって走るバスだった。


「しまった! バスが!」


 それは俺が今から乗ろうとしていたバスだった。

 そもそも、俺がこんな朝っぱらから家を出たのは、職場に出勤するためだったのだ。懐かしい顔と再会し、昔話に花を咲かせたい気持ちはあったが、出勤初日から遅刻というのはさすがに不味い。


「悪い、ひよちゃん! 俺、すぐに出なくちゃいけないんだ!」

「え……!」

「また、帰ってきたら、ゆっくり話そう!」


 彼女の返事を聞くのもそこそこに俺は彼女の横をすり抜けて、駆け出した。

 思えば、ここでの彼女との再会が俺の運命を決定づけていたことになるのだが、このときの俺は当然、知る由はないのだった。

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