第15話「日常の一コマ①」
「ただいま」
玄関のカギを開け、俺は古びてきしむ扉を開く。
そんな俺の目に飛び込んできたのは――
「ひゃ!」
「うわ!」
静井ひよの着替え姿だった。
ひよちゃんは、ちょうど制服から部屋着に着替えようとしているところだった。ブレザーと白のワイシャツを脱ぎ、肌着を脱いだところであったので、俺は彼女の下着姿をばっちり目撃してしまう。
俺は慌てて目を逸らしたが、彼女のブラジャーの下に隠れた豊かな胸はしっかり記憶に焼き付いて離れない。
「ちゃんと、奥の部屋で着替えるように言ってるだろ」
「ご、ごめんなさい!」
うちの家は狭い。玄関はキッチンとリビングダイニングに直結しているため、家の入口からリビングまでは丸見えなのだ。
彼女は基本的にリビングで寝起きしている。奥の部屋を使うように言ったのだが「そこは奏多さんの部屋ですので」と言って譲らなかった。真面目な彼女は俺の家に寝泊まりしていることを負い目に感じているようで、様々なところで遠慮することがある。
「まだ帰ってくる時間だと思ってなくて……油断してました」
「まあ、確かにいつも遅いからな。今日はたまたま早く帰れたんだ」
教員の仕事は多忙だ。放課後なんかも職員会議や居残り指導などで時間外労働を強いられることも多い。俺なんか初年度ということで、今の時点では部活の顧問を当てられていない分、まだ余裕がある方だが、それでも早く帰れることは稀だ。
そんな会話をしている内に彼女はラフなルームウェアに着替え終わっていた。
彼女は何かと隙が多すぎる。口うるさいかもしれないが、もう一度重ねて注意することにする。
「ひよちゃん、本当に気をつけてよ。君もいい年なんだから、男に対しては警戒心を持ってくれ。君は抜けているところがあるから心配なんだ」
彼女は美人だし、家庭的で、人当たりもいいからきっとモテるだろう。彼女を狙う不埒な輩がいつ何時現れるか解らない。
俺がそう言うと、彼女は口先を尖がらせる。
「わ、私だっていっぱしの警戒心くらいあります。いつも油断しているわけではありません」
「本当か? 俺には君が隙だらけに見えるが」
「そ、そんなことはないですよ!」
彼女は拳を握りしめながら言う。
「もし私が隙だらけに見えるんだとしたら、それは奏多さんの前だからです!」
「俺の前だから?」
「そ、そうですよ! だって――」
彼女は前のめりになりながら叫ぶ。
「私たちは夫婦です! お、夫の前でずっと気を張りつめている方が変です!」
「………………」
彼女の言葉に俺は思わず絶句する。
俺は嘆息しながら言う。
「何度も言っているが、あんな勝手に出された婚姻届なんて無効なんだ。君が気に病む必要なんてないんだぞ」
彼女は「婚姻届が受理された以上は夫婦として生活しなければならない」と思い込んでいるのだ。何度言い聞かせても彼女は納得してくれない。
「気に病んでなんかないです! むしろ! むしろ……」
「……?」
「な、なんでもないです!」
彼女は顔をゆでだこみたいに真っ赤にしていた。
よく解らないがいつまでも俺も玄関に突っ立ているわけにはいかない。俺は家の中に上がり、自室に向かおうとする。
「ともかく、君を子供のときから知っている俺だから変な気持ちは起こさないけど、他の男には気をつけろよ」
俺がそう言って、この話を終えようとすると、
「待ってください……」
彼女は顔を真っ赤にしたまま、すれ違おうとした俺の手を掴んでいた。彼女の柔らかな手から温もりが伝わってくる。
俺はその不意打ちに思わずドキリとしてしまう。
俺は普段、彼女に対して偉そうに保護者面しているが、何も聖人君子というわけではない。俺も一人の男だ。女性に対して思うところは十分にある。
ひよちゃんは俺の手を握ったまま、俺に向かって顔を寄せてくる。鼻先数センチの先にひよちゃんの顔がある。彼女の睫毛の長さがよく解った。
「ちょっと、ひよちゃん――?」
俺が慌ててそう言うと、彼女は俺の手を強く握りながら言う。
「私、魅力ないですか……?」
握りしめられた手に込められた力とは裏腹の弱々しい声。
「私なんかじゃ、奏多さんに見合いませんか……?」
彼女の瞳に細波が立つ。
「私は奏多さんのお嫁さんとしてふさわしくないですか……?」
「………………」
きっと、彼女は自信がないのだと思う。それは昔からそうだった。
運動が苦手で運動会の前の日はいつも不安げな顔をしていた。
クラスで作文の発表会がある前の日は一晩中、原稿を読み返していた。
彼女はどんな些細なことでも心配し、悩んでしまう。
だから、今、彼女は俺の「お嫁さん」として、きちんと振る舞えているかが気になってしまうのだろう。
俺は言う。
「ひよちゃんが作る料理はおいしいし、洗濯や掃除をしてくれるのも助かってる。これは本当だ」
俺は彼女の不安に揺れる瞳から目を逸らさない。
「それだけで俺には十二分だよ。それ以上のことなんて、無理に考えなくていい」
「でも……」
まだ、彼女の暗い表情は晴れない。
だから、俺は言ってやる。
「おいおい、君にとって俺はいったいなんなんだ?」
「え?」
「君が『お嫁さん』なんだとしたら、俺は『旦那さん』だ。『お嫁さん』っていうのは、『旦那さん』にそんな遠慮するものなのか?」
「あ……」
昭和の時代ならいざ知らず、今の時代、亭主関白なんて流行りはしない。少なくとも、俺は願い下げだ。
「俺は俺の可愛い『お嫁さん』が悲しそうな顔をしている方がよっぽど辛いよ」
「……奏多さん」
「だから、変なことなんて考えず、笑っていてくれ。それが俺に一番ふさわしい『お嫁さん』だよ」
ひよちゃんの瞳に光が差す。こわばっていた表情が緩んでいく。そうだ、それでいい。そんな悲しそうな顔をされるよりも、そっちの表情の方がよっぽど似合う。
俺は彼女が握る手をそっと外しながら言った。
「ま、無理に『お嫁さん』なんかにならなくて大丈夫だよ。そんなものにならなくたって、君は大事な『妹』だよ」
俺が笑いながらそう言うと――
「むう……」
ひよちゃんは口を尖らせて、俺をにらむ。
「せっかく、嬉しかったのに……」
「はいはい。俺も着替えてくるよ」
俺は彼女をあしらいながら、奥の自室へと向かった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「えへへ、『お嫁さん』って言ってもらっちゃった……」
ひよは、まるでおもちゃを買ってもらった子どものような笑顔で微笑むのだった。
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