第10話「日常の一コマ①」

「ごはんできましたー」


 自室で明日の授業の準備をしていた俺に、ひよちゃんが声をかける。彼女が食卓の中心に置いた鍋からは食欲をそそるいい匂いが漂っていた。

 俺は作業を切り上げて食卓に着いた。


「今日は、おでんを作ってみました。お口に合うといいんですけど」


 食卓に並んでいたのは、豚肉がたっぷり入ったおでんとほうれん草のお浸し、そして、卵焼きだった。


「お、これはうまそうだな」

「えへへ、ありがとうございます」


 俺の言葉に彼女は嬉しそうにふにゃりと笑った。

 食卓につき、俺は手を合わせる。


「いただきます」

「いただきますです」


 俺はおでんを自分の器によそう。まずは、大根から箸をつけることにする。大根は俺が箸の先で触れただけでほろりと崩れた。


「この大根、すごい柔らかいな」

「今日はお休みだったので、昼間の内に煮ておいたんです。時間さえあれば、大根は軟らかくできるんです。あとは隠し包丁ですかね」


 俺は大根を口に運ぶ。


「これは――」


 柔らかい大根は口の中で優しく溶ける。そして、しみ込んだ出汁の味がじんわりと染み出してくる。


「すごくうまい。こんなおでんは初めてだ」

「気に入ってもらえたなら嬉しいです」


 ひよちゃんは嬉しそうに微笑んでいた。


「なんでこんな濃厚な味がするんだ?」


 俺が疑問を呈すると、


「お肉から染み出した出汁を吸い込んでいるからですね。あとは、隠し味に入れたオイスターソースでしょうか。実はオイスターソースはおでんに合うんですよ」

「へえ、知らなかったな」


 それだけでこれほど濃厚な味が出るものなのか。

 ひよちゃんは、本当に料理上手になっていた。俺と会わなくなった六年間に勉強したようだ。


「お母さんも滅多に料理してくれないですから、料理の本を読んで勉強しました」

「大したもんだよ」


 俺は心から彼女に感心していた。俺も一人暮らしが長かったので料理ができないわけではないが、彼女には到底敵いそうにない。

 俺は素直な感想を漏らす。


「ひよちゃんと『結婚』したことでこんな料理が食べられるんだから役得だな」


 俺が何気ない調子でそう言うと、


「ひぇっ!」


 ひよちゃんは顔を真っ赤にして甲高い声を上げた。


「そ、そ、そう言ってもらえるのは、す、す、すごく、たいへん嬉しくて! だから、その、私がこれからもずっと――」

「冗談だよ。からかい過ぎたな」


 俺は苦笑いしながら謝る。


「そんなに焦らなくても、ちゃんと婚姻は無効にできるようにするから」

「え……いや……はい……」


 なぜか彼女は消沈しているようだった。


「私は別に構わないのに……」


 ひよちゃんは口をとんがらせて、こちらを見ていた。




 食事を作るという申し出をしてきたのはひよちゃんの方だった。


「私は置いてもらっている身ですので……」


 彼女は俺の家に住み、俺に生活費を出してもらうことを後ろめたく感じているようだった。だから、せめて家事くらいは自分がやりたいのだと言う。

 俺は最初、無理しないように言った。家事と学生生活の両立は大変だろうと思ったからだ。だが、彼女は中学時代も家で家事をこなしながら受験勉強をしていたのだと言う。事実、それで特待生として二見学園に入学できているのだから、彼女にはそれだけの力があったということだろう。俺は彼女が学業をおろそかにしないことを条件に、家事をすることを許可した。

 正直なことを言えば、彼女が家事をしてくれるのは、とても助かった。新学期、慣れない職場でやらなければならない仕事は山積みだ。その中で家事をこなすことは、なかなかに厳しい。


「本当に助かるよ」


 俺は心から彼女に感謝する。


「お役に立てて嬉しいです!」


 彼女は太陽に向かうひまわりのような笑顔で応えた。


 はっきり言って、俺は油断していた。何もかもがうまくいっているような気になっていた。そんな気の緩みがあんな事件を引き起こすことになるとは――

 このときの俺はまだ気が付いていないのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る