透白。
「セアラ、どうしてお前は」
──いつも泣いているんだ。
いつも、声にならない言葉が胸の中に消えていく。
少女はいつも沈んでいた。私を見て、困ったように笑う、銀の娘は。心の中で泣いていた。緑青の霧雨の中にしゃがみこみ、方位も何もかも分からなくなって、途方に暮れていた。
ざあざあと雨が降りしきり、少女の精神世界をぼんやりと緑青色に覆っていた。その美しい翡翠色は酷く寂しい。彼女を独りぼっちにして、霧の檻に入れてしまっていた。
なにゆえか、自分を偽りながらでも信じている希望の光があって、それへの忠誠と決意のために、彼女はその場所にいた。
精神世界を覗きこめば、いつだって曖昧な世界が見えた。感情の波や精神の状態の他は知れず、涙に沈む少女の原因を推し量ることもできない。
彼女の名はセアラ。他ならぬ、私の生体人形だった。
いやに艶やかに鮮やかな赤が映えた。掌から零れ落ちてゆく、真っ赤な果実。
硝子色の瞳が迫ってくる。無機質な透き通る水晶の双眸。
少女の虚空が僕の身体を見下ろしていた。
現実のセアラの双眸は冬の湖のような凍てつく青灰色だが、いずれ予見は成就し、彼女に看取られるだろうという予感がいつも傍らにあった。
※
透明な水晶で形づくった布地を、曇り空の薄く煙るような灰色で、薄らと染め抜いたかのような色彩だった。
高い位置で二つに結った少女の銀髪は、光煌めき、無色透明であるかのようにも見えた。
それは、空中にか細い糸となって散らばった。鮮血とともに一瞬落ちて行き、ふわりと浮き上がった。
伸びやかな肢体が、空中を縦横無尽に駆け巡っていた。
ほっそりと優美でしなやかな背中の曲線をきららかな銀髪が彩っていた。その様子は、繊細な紗のように儚く、夢幻のように甘かった。
少女の表情の消え失せた相貌は人形めいていた。
双眸は、透明な石英に灰色の煙を閉じ込めたかのような薄い色に染まっていた。目があった瞬間、虚空に連れて行かれそうな風情があった。
その虚無めいた佇まいの少女はしかれども、薄氷のように儚い美しさをふりまいていた。淡泊な色調の装飾的な衣装と相俟って、すらりとした肢体はまるで妖精めいて見えた。
白い肌はすりガラスのように透きとおり、みずみずしい朱色の唇が咲きそめの花のように色づいている。
ふと、人形めいた少女の頬がほんのりと染まった。
うっそうと、笑う、少女の双眸はあやうい狂気を孕み、爛々と煌めいていた。まるで別人のように生命の光輝を放っている。
烟る石英の少女がわらう。幼げですらあった面立ちに妖美な色香を滲ませていた。その瞳の先には敵の巨体があって、その醜怪な姿だけをまっすぐに見ていた。
何かしらの予兆を孕んだ緊迫とともに、生々しい感情が心奥から込み上げてきた。その感覚は快感にも似通ったところがあった。
深い井戸の底で、眠っていた不定形のわだかまった闇が熱量をおびて、なめくじのように這い上がってきたとも思った。
得体の知れない渇望に襲われて、脳裏が冴えていた。或いは興奮状態にあった。
私を見なさい、生体人形。
円形闘技場は多くの観客で埋まっている。しかしながら、生体人形の目には魔獣しか映っていないようだった。今この瞬間、少女は魔獣と二人きりの世界にいた。そして、たった一人で闘っていた。
三日月形の刃から生えた何本もの鮮血の鞭が、空中で乱舞していた。少女は魔獣から流れ出る血液を操っている。
少女は、血液を釣り糸に敵の体内から臓器を引きずり出していった。
ついに血塗れの巨獣が、大地に倒れ伏した。
歓声が巻き起こる直前の空気に、円形闘技場全体が包まれたとき、私はついに立ち上がり、職杖をついた。
異様な熱を帯びつつあった空気が急速に冷え込み、静まりかえった。
舞台の上で歓声を待っていたであろう少女が、戸惑ったようすで視線を彷徨わせている。
高揚と緊迫が綯い交ぜになった、不思議な心境だった。
私の意思がほんの少し現実の有り様をずらしていった。意思の指向性に誘導されて、旧来の枠組みが崩れ落ち、瞬時に再構築が始まった。
そうなると知ってはいたが、自ら干渉したわけではなかった。
円形闘技場の観客一人一人の心像の集合体が一点に向かっていった。
心像は指標に向かい急速に集う。嵩を増すように集まり、焦点で収束して心像が結ばれた。
心像にわずかに含まれた[私そのもの]を通じて、少女を[視る]と、曇ったガラスの向こうに今にも消え入るような灯火が揺れていた。
誘蛾灯に誘い込まれる蝶のように、少女の視線がこちらに吸い寄せられた。感情の抜けた無機質な表情で、私を仰ぎ見ていた。
時間の間隔が引き伸ばされていた。周囲の音が遠ざかり、どこからか雨音が聞こえる。
共有領域の位相に築かれた幻に支えられた砦は脆くも、虚空にかき消えた。
意識が冴えていた。瞼が開く。水晶体が透徹した空気と触れ合った。世界が色鮮やかに迫ってきた。
ついで、身体の感覚が蘇り、ずっとソファに腰掛けた状態だったことを再認識した。
胸が高鳴っていた。夢中にいるかのように気分が高揚していた。
火照りを冷ますようにクッションへ頬桁を押しあてた。
鼓動の脈打つ音がうるさい。
女官の手から、冷たいお茶が注がれる静かな音が心象に美しい波紋を立てた。それが気分を少し落ち着けてくれた。
早く生身で相対したい。
薄らと灰色がかった白雲色の幻像が、目蓋の裏で幾度となく蘇り、闘う少女の姿が再映されていた。
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