漆紅。


 饐えた血の臭いが立ちこめていました。


 人体の部品がばらけて大地に転がり、臓物が砂のうえにばらまかれていました。


 澄んだ蒼穹は残酷なほどに美しく、まるでこの戦場だけ、世界から切り取られて鉄格子のなかに閉じこめられてしまったかのようでした。

 視界の端に白い御衣がひらめきました。滑らかな絹布でした。

 浮世離れした美しさ。触れたら雪のように消えるでしょうか。

 銀嶺のようにきらめく白い裾をひきながらも砂塵にまみれず、大地に転がる首、鮮やかな臓物の上を通りながらも、触れていないかのようにうるわしいままの姿でした。

 ひどく惨めな感情が沸きおこり、どろっとした生暖かいタールのような憎悪が奥底から這いあがってきました。

 ぬめった手を伸ばす怨嗟に諦観と無力がよって集っておそいかかってきます。

 悔しく、妬ましく、わたしの足元にひざまずかせたい。


《やがて我らも、そして我らの現実が。呪歌に飲み干され……遍く『偉大なる主人たち』の道具と成り果てる。》 


 記憶がフラッシュバックします。

 セアラの生まれた都市で流行った詩篇を、謳う童の声が聞こえてきました。美しい『呪歌』が聞こえてきました。綺麗な女性の声です。淡く消えるように歌い上げられます。全ては夢の事象でしょう。主人達は精神にしか干渉できないので、彼らの攻撃を受けた都市は集団で悪夢を見ているのです。ほんの小さな頃にセアラは旧世界教に引き取られました。

 セアラの生まれ育った都市は滅びました。のです。だから、セアラは此処に居ます。


 悪夢の内容は覚えていません。見ようとすると、薄らぼんやりとした悍ましい怪物の『目』が、こちらを覗いています。


《邦土が滅ぼされようとしている。『偉大なる主人たち』の悪意がわれらの精神を浸食する。》


 歌声が蟲のように脳裏でのたうまわり、頭のなかに反響します。


《楔からの解放を!》


 アゼスさまの声です。悪夢の歌唱を切り裂く、力強い言葉でした。現実の視覚に引き戻されます。


 柔らかい手袋に包まれた手、まっ白い絹の精緻な織紋様、雪のように白い刺繍の精巧さ。


 

《神世の定めを、この手に。今再び取り戻そう。正しき世界を》 


 主人達は言いました。 


『私たちの代わりに働き、全ての労働を担え。私たちを養い、私達たちの幸せのために奉仕するのだ。』

 


 青い虹彩がこちらを見すえていました。

 吸いこまれそうな神秘的な色合いでした。湖上に建つヴェルセニアの青く輝く水平を見つめているかのようでもありました。

 あらゆる言葉がグルグルと脳裏を巡っていました。

 優美な白手袋が頬をさすってくれた。日の入り後の蒼闇に染められたかのような髪色の少年が心配そうな表情になりました。

 胸が締めつけられるような感傷的な気分になりました。

「アルエリヤさま、だいじょうぶです。しんぱいしないで」

 いつだって、主人の優しさはセアラを哀しみに追いやった。

「セアラ……」

 彼は少女の肢体を抱きしめようとしました。セアラはアルエリヤをしゃがみこむように抱きしめます。

 小さな男の子と少し年長の少女が抱きあいました。


 白玉の杖が淡い燐光をまき散らしていました。

 いつの間にか太陽が沈み、蒼闇の髪が空に融解しつつあったのでした。

 頬をなぞると乾いた涙の跡がありました。わたしに出来る精一杯の笑顔を浮かべます。

「ありがとうございます」

 少年は小さくうなずきました。

「かえるぞ」

「はい。いかがでしたか」

 少年は笑顔で返します。

「わるくはない」

『悪夢』の中の人の心を『観測』するなんて悪趣味です。アルエリヤさまの趣味は観測データの収集でした。何が面白いのか。セアラも何度か幻覚の世界に送られ『観測』されました。

 杖がわずかに掲げられると凄惨な戦地から視界が一変しました。優雅な緑の園が広がり、奥には御殿が佇でいました。

 ふたりは大樹の下にいました。

 透明な石畳の道が淡く光り、その先は典雅な御殿へとつづいていました。




 


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