衣替え

きたぐち

衣替え

吹き抜ける風が、冷たさを帯びてきた。カレンダーが10の数字を指し示してから、もう1週間が経つ。先月まで猛威を振るっていた暑さも、すっかりとなりを潜めてしまった。

 ぼくは、この時期があまり好きではない。ついこの間まで必要だったものが不要になり、逆もまた然りで、不要だったものが必要になる。ぼくが先月のアルバイト代で買ったラルフ・ローレンのポロシャツも、来年の夏までお蔵入りになってしまった。その代わりに、クローゼットの奥底にしまわれた長袖のシャツを引っ張りだし、クリーニングに出さなければいけなかった。もうひと月もしたら、厚手のコートにも同じ事をしなければな、なんて事を考えていると、最寄りの駅はもう目と鼻の先にあった。

 ふと、金木犀の香りが漂ってきた。駅前の街路樹からだろうか。ある種の懐かしさと、そして、何か焦燥のような感覚を呼び覚ます香り。昔から、この時期になるといつも嗅いでいた香り。なんとも言えぬ感情を抱きながら、ぼくは改札をくぐった。

 定刻より3分ほど遅れて到着した電車に乗ると、僕はドアのそばに立ち、何を探すでもなく、ただ外に目をやっていた。先ほどの金木犀のせいだろうか、やけに故郷が思い出される。大学進学を機に上京して2年半が経つが、ホームシックになったことは無いというのに。むしろ、授業があることも忘れて昼過ぎまで寝ていようが、居酒屋で酔いつぶれて朝帰りになろうが、何も言われないのをいい事に自由な放蕩生活を謳歌している。大学は人生の夏休み、とはよく言ったものだ。高校時代にこんな生活をしていたら、間違いなく親の張り手が飛んできただろうに。

「いい匂いだよね、金木犀」

「知らないの?金木犀って言うんだよ、キンモクセイ」

物思いにふけっていると、ふと、脳裏に声が響いた。懐かしい声。

――そういえば、彼女に教わったんだっけ。

もう暫く顔も見ていない、彼女の声。西田真里。ぼくが高校3年間、ずっと思いを寄せていた女性だ。同じ部活で、僕とはやけに気があった。彼女は成績が良かったし、何よりも博識だった。定期試験があると、毎回成績優秀者として名前が掲示されていた気がする。ぼくはといえば、常に下から数えた方が早い順位だったので、いつも小ばかにされていた。けれども、彼女との会話は楽しくて、他愛もないことで会話が弾んだ。部活を引退してからもぼくたちの交流は続き、放課後に受験勉強をするために教室に居残り、どちらかが切り上げるときに声をかけ、一緒に帰る、という生活を送っていた。

金木犀の会話も、そんな放課後に――それこそ今からちょうど3年くらい前のこの時期に――出た会話だった。ぼくが

「もうすっかり秋だよね。なんというか、この秋の匂い。少し寂しげなさ」

なんてつぶやいたときに、金木犀のことを教えてくれたのだ。それ以来、僕はこの匂いを嗅ぐたびに懐かしいような、せつないような、何とも言えない気持ちになるのだ。

 西田とは、大学に進学してから疎遠になってしまった。別に、西田が地元に残ったわけではない。現に、1年生のころに2回デートをしている。かといって喧嘩をしたとか、のっぴきならない事情があったとか、そういった話でもない。ただただ、お互いがお互いの新しい生活になじんでしまっただけなのだ。進学してすぐは頻繁に取り合っていた連絡も、気づけばその頻度は少なくなっていき、最後に連絡を取ったのはもう1年以上前になるだろうか。今でもぼくは西田の連絡先を持っているし、以前のように他愛もないことを送ることもできる。デートにだって誘える。けれども、そうしない。そうしないのだ。だというのに、西田がほかの男と街を歩いている想像を勝手にして、勝手に落ち込むことがあるのは何と滑稽なのだろうかとは我ながら思う。

 ――次は、新宿、新宿。

 電車のアナウンスが、目的地への到着を告げ、ふと我に返る。最寄りから新宿までは20分以上あるというのに、そのほとんどを物思いに、しかも昔好きだった女性のことに割いてしまうとは。

 自嘲気味になりながら、人の波を抜けて新宿駅の南口に出る。当初は人の多さに気圧されていた田舎者も、今では顔色1つ変えずに歩いて行ける。東京の人間は周囲の人間に対して無関心だ、と言うが、これほどまでに人が多ければそれも仕方ないのだろう。現に、ぼくもいちいち通行人の顔などは覚えていない、というより気にも留めていない。そのはずだった。

 刹那、周囲の時が止まった。ロールプレイング・ゲームの村人でしかない通行人の1人から、目がそらせなくなった。

――西田だ。

髪の色は栗色になり、化粧を覚えてあか抜けてはいるが、間違いない。昔、ずっと好きだったひとを見間違えるわけがない。

「西田」

呼びかけとも、問いかけともとれる声が、意識する前に口をついていた。きっと、なんとも情けない声を、情けない顔をして出していたに違いない。

 『西田真里』は、驚いたような、訝しむような、そんな視線をこちらに向けた。それだけだった。『西田』はその呼びかけに応えることも、足を止めることもなく通り過ぎて行った。

「西田」

今度ははっきりと、自分の意志で先ほどと同じ言葉を、彼女の背中に投げかけた。でも、彼女は振り返らなかった。ぼくは少し距離をあけて、『西田』の背を追いかけていた。その歩みを、村人たちが遮る。こんなに人の多さを煩わしく思ったのは、上京したての時以来だ。

 気がつけばその距離は開いていて、彼女はもう道路を渡ってしまっていた。ぼくも渡ろうとするのだが、こういう時に限ってタクシーが途切れない。あまりのもどかしさに、足踏みすらしていたと思う。目の前が開けるまで、実際には1分もかかっていないのだろうが、ぼくにはそれが何分にも感じた。そして、そこに広がっていたのは、ぼくが皮肉にも何度も思い描いていた光景だった。

 彼女は、ぼくの知らない男と、楽しそうに談笑していた。その笑顔はいつもぼくが見ていた顔で。ぼくに向けられていた顔で。ぼくが、大好きだった顔で。その光景は、ぼくが何度も思い描いた光景で。ぼくが一番起こり得てほしくないと願った光景で。

 その場にぼくは立ち尽くしていたのだろう。周りの音も、においも、全てが意識の外にあった。そもそも、彼女が本当に西田だった保証すらない。他人の空似かもしれない。いや、でも、こんなに似ている他人がいるのか? いや、ドッペルゲンガーという言葉だってあるのだ。ありえない話ではない。そんな問答を頭の中で無限に繰り返す。そんなぼくを現実に引き戻したのは、スマートフォンが着信を告げる音だった。

「ねえ、まだこないの?15分前に着いたって言ってたじゃん」

ほとんど反射的に通話ボタンを押したぼくの耳に、待ち合わせ相手からの催促が飛び込んできた。

「ごめんごめん。ちょっと改札で手間取っちゃってさ」

「ホント、これだから田舎者はさ。この前も横浜駅で引っかかってたよね?」

「ぼくは優子と違って都会生まれの都会育ちじゃないからね。もう南口には出たから、すぐそっちに行くよ」

返事を待たずに、ぼくは電話を切った。ふと、なんの気なしに横に視線をやると、ブティックのショーウィンドウが目に入った。マネキンはすっかり秋服で着飾っていて、もうコートを羽織っている者すらいる。

――衣替えはもう済ませたのにな。

そんなことを思いながら、ぼくは踵を返し、彼女とは逆方向に急ぎ足で進んでいった。

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衣替え きたぐち @kitaguchi222

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