お風呂、だい好き。

小鳥 薊

メケ子の悲劇、それは喜劇

 私はお風呂をこよなく愛するOL、メケ子。二十六歳、独身です。

 勤めている会社の業務のほとんどがデスクワークで、たまに歩数を稼げる仕事は上司へのお茶配りとトイレの往復。うん、万歩計はトイレの回数に比例していると思います。


 真面目に働くメケ子の楽しみは、帰宅後の入浴です。この一時間ほど至福を味わえるときなど、きっとこの世に存在しません。私にとっては、ですけれど。

 私がお風呂大好き女になったのは、たぶん生まれた瞬間からだったんだと思うんです。お母さんによく言われました。

「あなたはよく泣く赤ちゃんだったけれど、沐浴でお湯につけると途端に泣き止む子だったの」と。それから、

「あなたは、どんなに熱いお湯に入っても決して泣かなかったのよ」とも。

 私は生後一ヶ月の時点で温泉デビューを果たし、同じくお風呂好きの両親が連れていくどんな源泉のどんな温度のお湯にだって、大人と同じく浸かっていたそうです。他の子どもが見ていて引くくらい……。相撲取りみたいな風貌だった当時の私は、貫禄ある赤ちゃんだったと想像できます。

 生後一ヶ月で大衆湯に連れていく親もどうかと思いますが、赤ちゃんは温泉ではお年寄りのアイドルなんです。幼心に、可愛がられる喜びに味をしめた私には、もしかしたら「入浴イコール幸せ」の方程式がもはや脳裏に刻み込まれたのかもしれません。


 蛇口をひねり、湯船にお湯がゴオゴオとたまっていく様――しぶきからふわりと香るお湯の匂い。見ていて飽きません。それから、何と言っても最も至福の瞬間は、たまったお湯に首まで浸かったときです。指先もお尻も、少し浸したうなじの毛穴も、熱いお湯ではぴりぴりと、ちょうど良いお湯ではまるで繭の中にいるみたいに、私は幸福な感覚にうっとりとしてしまいます。

 入浴以外に、私が「気持ちいいな」と感じる瞬間がもう一つあって、寒い日に美容院でシャンプーしてもらうことです。入浴と同じカテゴリーじゃんって思いましたかね。でも、誰かに髪を洗ってもらう体験って、すごく平和で気持ちも良いですよね。だから、私は美容院を選ぶ基準としてカットの技術よりも洗髪技術を重視します。


 なんだか、ここまで語っていくと、メケ子、変態みたいです。まあ良いのですが。

 あ、あと、私の名前、おかしいと思います? おかしいですよね。母いわく「メケメケ」からとったんだそうです。大昔に流行ったシャンソン曲、「Méqué méqué」はフランス語の「Mais, qu'est-ce que c'est?(メケスクセ)」の訛りで、意味は「だけどそれがどうしたの?」。だから、私の座右の銘は「だからなんだ?」なのだ。


 そんなメケ子の幸せを脅かす大悲劇が、ついさっき起きました。

 湯船にお湯が張れません。給湯器が不具体を起こしたようです。私は機械にめっぽう弱いので、取扱説明書を読んでも、点検の仕方なんてさっぱりです。とにかく私は軽めのパニックを起こしていたため、文章が頭に入ってこないんです。

 どうしたもんか。このままでは明日は仕事に行けない!

 困り果てた私は、その日は仕方なく歩いて二十分のところにある一番近い銭湯で入浴することにしました。銭湯は、幸せな時間でした。湯船に浸かっているときに、子連れの母子が入ってきて、その女の子――三歳くらいでしょうか――が何を思ったのか私にずっとちょっかいをかけてくるのです。たまりません。私が変顔で返すと、ケタケタと笑って、

「オネチャン、オモチー!」

 と外国人みたいな発音で叫びます。お母さんは、

「すみません」

 と会釈して必死に女の子を私から引き剥がそうとするのですが、今度は私と同じように変顔を披露しようと必死です。なんて変な子。なんて可愛らしいのかしら。

 しばらくして静寂が訪れました。天井から落ちてくる湯気が、ぴと、ぴと、と音を立ててお湯の中に落ちてきます。「ババンババンバンバン」を口ずさみたい気分でした。

 しかし、お風呂から上がり、寒空を二十分間歩くうちに、幸せはどんどん小さくなり、私が自宅のマンションに到着した頃には、すっかり平常モードのテンションもしくはそれよりも低めの状態で、床に就かなければなりませんでした。

 早く、給湯器問題を何とかしなければ――私は、翌日の仕事中、そればかり考えていて上の空状態だったと思います。仕事を早めに切り上げて、家に着いた瞬間に管理会社へ電話しました。すると、ガス会社に直接連絡をしてほしいと言われ、そちらの番号に掛けると営業時間はすでに過ぎていました。

 私は、今夜も銭湯での入浴を余儀なくされました。


 帰り道に見た星空がきれいでした。私は、美輪さまの「メケメケ」を口ずさみながら歩きました。

 玄関の前に到着し、鍵を開けようとポケットに手を入れると、鍵がありません。何と言うことでしょう。これはさすがに「メケメケ」ではすまされません。どうしよう。体が冷える毎に幸せが萎んでいく――。携帯電話! そう思ったのに、そうだった、この日に限って携帯を充電器に差したまま出掛けていました。つまり唯一の解決手段は家の中です。

 私は五分くらい、ドアのあたりとただただうろついていましたが、五分後に涙が出てきました。二十六歳の女が玄関前でしくしく泣いているのです。おかしいですよね。でも私は泣きました。そうして涙が収まったら大人しく警察に相談しよう……そう思っていました。

 悲しいです。私には今、携帯で繋がれるだけの人間関係しかありません。頼れる人の一人も近くにいないんです。悲しい。


「おねえちゃん、どうした?」


 ふいの声に、私は涙と同時に心臓が止まるくらい驚きました。とっさに、頬の涙を両手で拭い、声のする方へ振り返りました。

 そこには、私の父親より少し若いくらいのおじさんが立っていました。ここに越してきて初めて見ましたが隣の住人のようです。


「あの、給湯器が壊れて銭湯に行っていたんです。それで帰ってきたら鍵をなくしてしまって……」

「え、そりゃあ大変だな。寒いだろ、どれくらいここにいたんだい?」

「ほんの十分くらいです」

「湯冷めしちまったんじゃないのか、管理会社とか鍵屋に連絡は?」

「それが、携帯電話は家の中でして、」

「あちゃちゃ」

 あちゃちゃ、なんです。おじさん。スッピンで恥ずかしいです。

「それなら、電話貸してやるよ。嫌じゃなければ、女房と子どももいるんだが、うちで温まっていくといい」

「え、ご迷惑じゃ、」

「迷惑も迷惑じゃないも、こんな姿見て放っておけないよ。うちにも君くらいの子がいるからね」

「……すみません、ではお言葉に甘えて、お電話をお借りしたらすぐに退散しますので」


 なんと優しいおじさんでしょう。私は、お風呂のお湯に浸かった瞬間に匹敵するであろう、このおじさんの心の温かさを身にしみて感じていました。

 ここのマンションは、いろんな間取りがありまして、私みたいな一人暮らしの他にファミリーが住めるような部屋もあるんです。最近越してきたばかりの私は知りませんでしたが、お邪魔させていただいたお家は私の部屋とはずいぶん印象が違いました。

「ただいま」

 というおじさんの声に、おじさんの奥さんが玄関で迎えてくれました。靴を揃えて顔を上げると、驚いた表情の奥さんと目が合いました。そらそうでしょうね。本当に夜分申し訳ありません。

 おじさんがすぐにわけを話してくれ、奥さんは快く私を中に通してくれました。優しいおじさんの妻は優しいんですね。きっと、お子さんもお優しいのでしょう。


「大変だったわね、でも大家さんが鍵を持ってきてくれるって言っていたからもう少しここで待っていてちょうだい」

 と、奥さんは言いました。私は奥さんが入れてくれた温かい珈琲を飲みながら、おじさんのもぐもぐタイムを向かいでほのぼの眺めていました。私も将来、こんな家庭を築きたい、と生まれて初めて思いました。私、どちらかというと一生独身でもいいやって思って生きてきたんです。温かい部屋と温かいお風呂さえあれば私の毎日は充実していました。これ以上の幸せを望むなんて、おこがましい。

 もしも、私のことを好いてくれる人が現れて、その人もお風呂が大好きな人ならば、一緒になってもいいかもしれない。あわよくば、その人の職業が美容師さんだったら、決まりです。けれど、今は自分からハンティングする気にはなれません。そういう機会が、いつか自然とやってきたらそれはそれでいいな、と思う今日この頃です。

 妻の料理をおいしそうに食べてくれる人もいいなあ、と私はおじさんを眺めながらのんびりと思っていました。そのときです。

「ただいまー」

 誰かが帰ってきました。若い男の人の声です。

「おかえり、今日は遅かったわね。ごはん食べる?」

「いや、今日は食べてきたから……って、この人は?」

 私と同じくらい……いいえ、もう少し若いでしょうか。今流行りの髪型のなかなかのイケメンが私を見つめています。クマさんみたいなおじさんには似ていません。

「ああ、お隣さんよ。鍵を落として家に入れないんですって、大家さんが鍵を持ってきてくれるまでうちで温まってもらっているの。銭湯帰りなんですって、湯冷めして可哀想でしょ」

「ふーん、どうも、こんばんは」

「こんばんは、お邪魔させていただいてます」

 イケメンは上着と鞄を降ろすと、私の隣の席に座りました。そのあまりの自然さに、きっとここが彼の席なんだろうと思いました。私は、すこし距離が近い、と感じてしまいます。スッピンに一つまとめの団子ヘアも、この距離には対応しておりません。

「おねえさんは何している人?」

「普通に、OLです」

「そうなんだ。最近、髪の毛切りました?」

「へ、髪の毛、ですか?」

 美容院には、仕事が忙しかったので最近行けていません。でもそれが何か?

 すると奥さんが付け足すように言いました。

「この子ね、美容師なのよ」

 え?

「枝毛、切ってあげたいなって」

 イケメンはそういうと、なんとも天使のような微笑みを私に向けてきました。やめて、眩しい。たとえコレが営業トークだったとしても、今の私には神々しい存在にしか見えません。


 その後すぐに大家さんが尋ねてきました。私は鍵をゲットして中に入ることができました。なくしてしまった鍵は出てきませんでしたが、それでも私はこの夜、別の大切なものを見つけたのでした。

 おじさんの家からお暇する前に、私はイケメンに確認したいことがありました。もしかするともう会うこともないかもしれないこの人に、一つ確認できたなら、今後はイケメンの美容室に乗り換えてもいいわという気持ちで。


「あの、つかぬ事をお聞きしますが、」

「はい?」

「お風呂はお好きですか?」


「……好きっすよ。」



 メケメケ。

 

 

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お風呂、だい好き。 小鳥 薊 @k_azami

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