第72話 宮廷の夜(1) 宰相の特技

 天井までの高さのある本棚がびっしりと壁を覆う、全体的にこげ茶色の部屋。

 トラエスト帝国の宰相の部屋である。


 この部屋の中央の執務机に、ジールが腰掛け、本日サインすべき書類に目を通していた。

 もう夜は更けていたが、残務は大量だった。


 何しろ今日は忙しい日だった。セラフィムの死霊傀儡が王宮に襲来し、撃退されたがその後、緊急会議に追われた。


 会議にて第四騎士団長のキュディアスが、エスペルに全権を委任し、大使かつ戦闘員としてカブリア王国に派遣しましょう、と提案した。

 この提案により会議は荒れに荒れた。

 そのほとんどが貴族で構成される大臣たちは、完全に怯えてパニックに陥っていた。彼らはエスペルとライラを救世主のように感じているようで、エスペルの敵地突入など、とても認めそうにはなかった。


 頼むから近くにいて我々を守ってくれ、と。


「死霊傀儡の狙いはエスペルとライラなのだから彼らを帝都から遠ざけるべきだ」


 と近衛騎士団長のブラーディンは兼ねてからの主張を繰り返したが、大臣たちはそれにも耳を貸さなかった。


「そんなこと分からないではないか!用心棒を失ったら我らはおしまいだ、そばにいてもらわにゃならん!」


 と。


 全権委任には、大臣達の半数以上の賛成票が必要だったが、現状では難しそうだった。


 あるいは、セラフィムが人類を滅ぼそうとしているかもしれぬ、という情報を開示すれば賛成票は集まるかもしれない。だがその情報によって引き起こされるだろう人民の恐慌のほうを、ジールは懸念した。

 この情報だけは、隠し通さねば。


 ジールは宰相として、難しい判断に迫られていた。


 とは言え日常業務も投げ出すわけにはいかない。帝国宰相の仕事は膨大なのだ。


 ジールはすごい速さで書類をペラペラめくってはサインした。

 まるで中身を読んでいないかのようにも見えるが、たまにペンを走らせ「却下箱」の方に入れるので、しっかり目を通しているらしい。

 超のつきそうな速読術、宰相のすご技である。


 さて実はジールはこの他にもう一つ、宰相らしい特技を保持している。


「!」


 ジールは突然、何かに気づいた顔をした。

 書類をめくっていた手が、ピタと止まった。

 片眼鏡をつけた灰色の瞳が、すっと細められる。

 

 ジールはいきなり右腕をあげると、手をくるりと翻し、ぎゅっと宙を握った。

 まるで、飛ぶハエを捕らえるかのごとく。


 ジールは彫像のような無表情で右手を握りしめたまま、左手で机の引き出しを開けた。

 引き出しの中には楕円形の鏡……通信用の魔具が入っている。

 ジールはその鏡面に、左手の人差し指を、文字を書くようになぞった。その文字はある人物の名前であった。


 しばらくすると、部屋の天井を映し出していた鏡像がぐにゃりと歪み、人の顔になる。

 鏡像の中の人物が、声を発した。


「お呼びですか?宰相」


 ヒルデであった。

 宰相は無表情の頬をピクピクと引きつらせ、切羽詰まった感じで言った。


「い、今すぐ来てくださいませんか?アレですよ、アレ!私これ苦手なんです、今すぐお願いしますよ!」


「あー……。はい、ただ今」


 また鏡像はぐにゃりと歪み、歪みが凪ぐと天井を映し出した。

 ジールは自分の右手をなるべく身から離すように突っ張ると、強張った顔で固まった。そして助けを待った。


 しばらくすると、ドアにノックの音がした。


「ヒルデです」


「は、早く入って!」


 宰相は入室したヒルデの元に駆け寄り、右手を突き出す。


「何をしてたんですか、遅いですよ、もう!なんとかして下さい、はいこれ!」


 ヒルデはイラっとした様子で、


「いや、仕事を放り出して直ぐに駆けつけてきましたが?私だって宰相程とは申しませんが忙しくてですね……」


「早く!早く!」


 宰相が急かす。ヒルデは毒気を抜かれてため息をつく。

 

「捕まえられるのに処理は出来ないってのも、困り物ですな」


「仕方ないでしょう私は魔術師じゃないんですから!」


「……そうでしたね、前言撤回します。魔術師じゃないのに密偵虫バグを捕まえられるのが、異常なんでした」


 ヒルデは両手を広げて、ジールの右手を包み込むようにかざした。ジジッと音を立てて青い火花が散る。

 ジールは痛みを感じたようで、少し顔をしかめる。


「はい、拘束しました。手を開いて構いませんよ」


 ジールは身震いしながら手をそっと開いた。

 手のひらの中で、ガラス細工の人形のような、小さな使い魔が伸びていた。

 曇りガラスのごとき半透明の、裸体の少女。その背中には二枚、蝶のような羽が生えていた。


 ヒルデはそれを摘まみ上げた。


「しかし随分と久しぶりですね、密偵虫バグに侵入されるなんて」


 と眺めて、首をかしげる。


「これは……?確かに密偵虫バグだが……」


 密偵虫バグとはその名の通り、敵対する相手を探るために密偵として使役される小さな使い魔のことである。敵国の偵察から妻や夫の浮気調査まで、幅広く使われている。

 帝国宰相は立場上、やたらと密偵虫バグを送りつけられるので、ジールはすっかり捕獲名人になってしまっていた。本来なら魔力を持つ者にしか見えない、透明な密偵虫バグを、気配で察知して捕獲できるのである。


 ようやく手の平から密偵虫バグがいなくなったジールは、ハンカチを取り出して右手をゴシゴシ拭いた。満足いくまで拭くと、白い布ベールの中の前髪をかきあげ、大きく深呼吸をする。

 その表情に余裕が戻ると、腕組みをした。


「魔術師長殿、密偵虫バグ避けの結界は一体どうなりましたか?お忙しいのは分かりますが、ちゃんと結界のメンテナンスもしておいて下さらないと、困りますよ」


 ヒルデはローブの内ポケットから小瓶を出すと、中に伸びてる密偵虫バグを入れてふたを閉めた。


「いえ、結界に綻びはありません。これは結界に引っかからない、我々と別種の魔術系統によって作成された使い魔ですね」


「別種の……?まさか、」


 ジールの顔色が変わる。ヒルデは頷いた。


「ええ、セラフィムの使い魔でしょう」

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