第8話 ホタルと女褌

パラレルワールドの江戸の町は人口200万の大都市だった。住民の4割は武士と神官に僧侶、残りの6割が町人で占められるが、江戸に参勤交代で出て来る大名300諸侯に付き従う単身赴任の勤番きんばん侍がいるため、男性が6割といびつな男女構成比になっている。女性は貴重であり、この町ではなにかにつけ高い需要があるのもべなるかな、である。


そして江戸は水の都でもある。天正18年(西暦1590年)に徳川家康が入府してから400年余り、この都市人口を収容するため利根川をはじめとする河川の掘削に付け替え、台地を切り崩した広大な中州や遠浅の浜辺の埋め立てを行い、城割りを整備し街並みの中を縦横に水路を巡らした。水上都市として水運が発達した様はまさに東洋のベニス。どこの町でもすぐ近くに水面みなもがあった。


そんな堀割から朝靄あさもやが漂い出てくる早朝。幕府御用能楽師 吉祥流きっしょうりゅう家元の屋敷から朝稽古の音曲が聞こえてきた。


≪スポポン ポン ポン スポポン ポン≫


「よし、そこまで」


家元の一声で、稽古舞台にいた住み込みの弟子たちが舞台から下がった。


「さてと、さくら。皆に例のを舞ってみせておやり」

「うん、いいよ」


と言うと、サクラは見事なひのき板でかれた舞台の中央にぴょんぴょんとステップを踏むように駆け上がった。筒袖つつそで単衣ひとえに先細の軽衫袴かるさんばかまという動きやすい格好だ。


「じゃあいくよぉ! ほいっ」


バックスライドからサイドウォークへ流れるように体を動かしながらハンドウェーブをしてみせる。


「な、なんと! 前に歩いておるのに後ろに下がったぞ」

「ちゅ、宙に浮いておるぞ! なんと言う身のこなしじゃ」

「まさに神がかりのわざじゃ」


そして両足を大きく広げて勢いよく回転させたウィンドミルから飛び上がりざまにバク転、見事に着地を決めた。


≪おおおっ!≫






その日の午後、水戸徳川家の家老 朝比奈左近あさびなさこんが家元の吉祥きっしょう勘解由かげゆのもとを訪ねて来た。


「お家元の娘御むすめごは仙才鬼才、人間の技とは思えぬ舞いをするそうじゃな?」


時候の挨拶もそこそこ、そう切りだした


「どこでそれを・・・」

「お家元のお弟子の中に当家に関わりの者がおるでな。実はの、娘御の評判が殿のお耳にも届いての。一度ご覧になりたいと仰せじゃ」

「殿・・・水戸の黄門さまが!」


そう言うと勘解由は絶句した。もちろん18代将軍の治世であるパラレルワールドの時代だから時代劇でお馴染みのジジイ、あの黄門さまのことではない。水戸徳川家の官職は代々『権中納言ごんちゅうなごん』と定められていて、古代中国朝廷では中納言の別名を『黄門』と呼んでいたことから今の殿様のことを黄門さまと呼んだのだ。


「そうじゃ。殿のお召しゆえ、次に当家へ出稽古のときには娘御を同道されたい」

「・・・されど・・・娘は従三位じゅさんみ権中納言さまにお目通りできるような身分ではござりませぬ」

「いや、いっこう構わぬ。御簾中ごれんじゅうさま、若君さま、姫君さまがたにもお見せになりたいとのおぼし召しでな、いたって内々奥向きの話なのじゃよ」

「とは申せ、娘は神隠しにってからというもの礼儀作法がなっておりませず、粗相そそうがあっては・・・」

「いやいや、それも一向に構わんとの仰せじゃ。娘御が神隠しに遭ったことも殿のお耳に届いておる。むしろその話を当人の口から直にお聞きになりたいとのご所望しょもうなのじゃ」

「は、はあ・・・て、てまえは構いませぬが・・・当の娘の気持ち次第かと」






「うん。いいよ」


水戸徳川家の家老が引き上げた後、勘解由がサクラの意思を確かめてみたら速攻でOKが返ってきた。


「いいのか?」

「うん。ぜ~ん然かまわないよ、サクラは」

「・・・う、ううむ」


勘解由は、ためらいも見せない娘の即答に二の句が継げなかった。


「パパはなにか心配なわけ?」

「うむ・・・その、お前の言葉づかいがな。その、パパという呼び方もな・・・どうも馴染んでこんのだよ。父上様とは言わぬ、父上ではだめか?」

「ちちうえぇ? 舌かんじゃいそうだよ。パパの方が可愛いじゃん」

「か、かわいい」

「そうだよ? パパはサクラが世界中でいちばん好きな男のひとなんだもん、可愛いいって思うの当たり前じゃん」

「あ? あは、あはは。嬉しいことを言ってくれるわい」


愛娘まなむすめのひと言ですっかり相好そうこうを崩し破顔してしまう勘解由なのであった。






一方その頃、市村座の楽屋の一室ではうら若い娘が下半身まる出しの裸になっていた。

娘らしい明るい桃色の襦袢じゅばんを羽織っただけのあられもない姿だが、若々しく艶やかな肌と美しいかんばせで肉欲の猥褻わいせつさよりは年頃の娘らしいほのかな色気が漂い出ている。しかし、どこか違和感が・・・それは多分、股間こかんから肉棒と肉袋が垂れ下がっているせいかもしれない。


「ああっ・・・押えていた手を放したら途端に外に飛び出てしまいました」


愛らしい声でホタルが叫ぶ。


「そりゃあそうだろう、そのままじゃまろび出てしまうさ。だから玉を体の中に押し込んだままで済むよう、これを使って上から押えつけるのさ」


と言うと市村座の看板役者、橘屋たちばなや周五郎しゅうごろうは一枚の布を取り出した。縦の長さが50センチ横幅20センチほどの四角い布で短い方の一辺に長い細紐ほそひもが縫いつけてある。


「こいつあ畚褌もっこふんどしってえ奴だ。こうして布の両端をあわせ端の筒状に縫い合わせた穴ん中にこうやって紐を通すんだ」


布が紐に支えられてループ状になった。


「そこに片足を差し込んで布を当てがいしっかり股の間にくくり上げて、腰の横でしばればできあがりだ。こいつには前垂まえだれがないだろ? そこが越中褌えっちゅうふんどし六尺褌ろくしゃくふんどしと違うところだ。どおれ、ホタルちゃん。やってみな」


ホタルは片方の手で体内に押し込んだ睾丸こうがんを押えながら、言われたように身に着けてみた。腰紐をきつめに縛るとぴったりフィットした。でも尻が丸出しだ。なんだかビキニパンツ、それもTバックみたいに見える。


「ほら、まだ前に筋ばった男の膨らみが出てるよ。竿さおは前に垂らすんじゃなく、股の間にしっかり折り畳んでおくのさ」


褌の隙間から指を入れ、言われた通り尻の穴の方に向けて折り込むと膨らみが消えてすっきりした。


「女の子みたい・・・」

「それでよし。こいつぁ女が月のもののとき血を吸わせる木綿を当てがう『御馬おうま』に用いるものなんだ。いわば女褌おんなふんどしってわけさ。だから歌舞伎の女形おやまもこいつをはくってえわけだ。女になろうってえんだ、ホタルちゃんも常日頃から腰巻の下にはこいつをはいてればいいのさ」

「よかった。腰巻だけだと下がスースーして、なんか心もとない感じだったんですよ」

「ふふん。犬猫みたいに陽物ようぶつを外に出しっぱなしにしているのは、野郎には耐えられないからな」

「だけど・・・これを外したら・・・やっぱり男だとバレちゃいますよね?」

「だから稽古するんだ。そうして体ん中に玉を押し込め竿を畳み込み内股で閉じているのが当たり前になることだ。馴れてくれば褌を外したって竿も玉も飛び出してこなくなる。そうすりゃ裸にかれても見た目で男だとばれやしないよ。女風呂に入ったって誰も怪しんだりはしなくなる」


その後、ホタルは周五郎に文字どおり手取り足取り教えてもらいながら、ひとりで出来るようになるまで“玉入れ”“竿畳さおだたみ”を繰り返し練習した。


「ホタルちゃん。お前さんは女として生きるんだろ? だったら自分で帯くらい結べるようにならなきゃな」

「はい。女帯の結び方も教えてもらえますか?」

「こん次にな。今日のところはあたしが着付けてやろう。そろそろお前さんのおっ母さんが来る頃だろうから」


と言うことで周五郎の手で元通りお太鼓たいこに結び、しっかり身支度が済んだところに付き添いで来ていた母ふじが顔を出した。なんだかすっかり上気して瞳がうるんでいる。


「ほたるや、お前のお相伴しょうばんで市村座の中を案内されたんだけど、すぐ目の前に錦絵にしきえで馴染みの人気役者がいるんだもの、こんな眼福がんぷくはありませんでしたよ。いやあいっしょに来れてよかった。それで、お前。橘屋さまとのお話は済んだのかい?」

「はい。母さん」

「じゃあホタルちゃん。稽古の出来を見せにまた二三日のうちに顔を出しなさいよ」

「はい。師匠」

「当代一の立女形たておやまから女として仕込んでいただけるなんて、このは大変な幸せもんでござんすね」

「いや、こちらも美しい娘さんにさらに磨きをかけてもと六十余州で一番の美人に仕込めると思うと楽しいんですよ」

「ひ、日の本一!」

「そう。ホタルちゃんには他にはない色気がありますのさ」

「い、色気?」


ホタルは思わず声をあげた。


「そんなに驚くことはないだろ、ホタルちゃん。お前さんには他の娘には絶対に出せない独特の、そう、男の子の色気があるのだよ」

「男の子の色気・・・」

「なかなか娘の色気と両方兼ね備えた美人はいませんよ。そういうわけでこの周五郎が特に目を掛けてお嬢さんに稽古をつけていますのさ、お母さん」


ホタルは周五郎からのアドバイスで母には、女としての礼儀作法や所作しょさの稽古をつけてもらうのだと告げていた。まあ、男子高校生が江戸娘として怪しまれないように訓練するのだからまんざら嘘でもない。


「十二代目、くれぐれも娘をよろしゅうお頼み申します」


ホタルの母ふじは、当代一の女形の誠意のこもった言葉に感激して深々と頭を下げるのであった。こうしてホタルはパラレルワールドの心強い味方、橘屋周五郎の指導で日々女性になるための修行に励むこととなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る