第五話 かどわかされたかもしれない

 その夜。ミハルは、両親のことも思い出せないことに、足元の床が突然なくなるような恐怖に震えた。しかし、病院に行こうという気にはなれない。病院に行っても、事態は好転しない。日常生活の舞台が寮と学校から病院になるだけのように思えた。

 ミハルは、携帯端末にある母親らしき名前に電話をかけてみることにした。七浦七海ななみ。それがミハルの母親らしかった。ミハルの携帯端末にあった、唯一同じ姓の連絡先。父親らしき名前はない。父親とは没交渉だったのだろうか。あるいは七海は男性かもしれない。

 呼び出し音が鳴る。ミハルは自分の心臓の鼓動も同時に聞いていた。

 三十秒ほど鳴ると、誰かが電話に出た。

「か……母さん? 母さんなのか?」

「なに? ミハル? どしたの、なんだか暗いけど」

 電話越しの声は、聞き覚えのない女性の声だった。

「い、いや……元気かな、と思って」

「バカね。らしくない」

 そう言って、七海らしき女性は笑った。

「父さんは……」

「……あー、そろそろ命日よね。夏休みには島には戻ってくるわよね」

 父親は死んでいた。そのことすら、ミハルの記憶にはなかった。

「あ、ああ。もちろんだよ。母さん」

 ミハルはそう言うと、逃げるように電話を切った。

 唐突に切られた電話だが、かけ直されては来なかった。

 その夜、ミハルは眠れなかった。

 腹はなんともなかった。


 次の日の朝。学校に行く気にはならなかった。惰性でミハルは制服に着替えた。

 寮を出てしばらく歩くと、いつものように、いつのまにかホタルが横に並んでいた。

 カラオケボックス燈火での一件以来、学校に近づいても離れようとしない。他の生徒は、一緒に登下校する二人をすっかりカップルとして認定していた。

「ミハル。昨日の夜は、なんの夢を見ました?」

 突然、ホタルは妙なことを聞いてきた。

「昨日は何の夢もみてない」

 寝ていないのだから、当然だ。白昼夢のようなフラッシュバックのことは言わなかった。

「そうですか。でも大丈夫です。きっと」

 そう言うと、ホタルはまた、お弁当箱をカバンから取り出してきた。

「まだあります」

 ミハルは、お弁当箱を覗き込んだ。例によって例のごとしの赤黒い肉塊だ。今までは、見た目が怖かった。だが、今は、何かを思い出してしまうのが怖い。

「今はいい」

 ミハルがそう言うと、ホタルは急にお弁当箱の蓋を閉じ、ミハルの手に押し付けてきた。

「あとで食べてください」

 ミハルが押し返す間もないうちに、誰かが横から声をかけてきた。ミハルは、お弁当箱を反射的に自分のカバンに入れた。

「冬妻ホタルさん、七浦ミハルさんですか?」

 その声の主は、スーツ姿の妙齢の女性だった。大きなメガネがポイントだった。


 ホタルたちが黙っていると、その女性はえへん、と咳ばらいをしてから言った。

「カラオケボックス燈火で何があったか、教えてもらえないでしょうか」

 ミハルは、直感的に警察ではない、と思った。警察が登校時間に声をかけてくるのはおかしい。あとで学校や保護者からクレームをつけられる可能性が高いからだ。警察でないとしたら。

「どうしてぼくたちに聞くんですか?」

 ミハルは当然の疑問を口にした。ホタルは黙って様子を見ている。ホタルがしゃべるのはなんとなくマズい、ミハルは直感した。

「有地信哉さんと一緒にいた、という話を聞きました」

 不幸通りで目撃されていたのかもしれない。そうすると、フードの男たちとも一緒だったことも知られているはずだ。

 ミハルは、慣れない敬語をひねり出すのに苦労した。

「冬妻さんや有地くんたちと一緒にいたところを、ヘンな男たちに絡まれて、そのカラオケボックスに入ったんです。そのあとはわかりません。それじゃ、ぼくたちは学校があるので」

 ミハルは軽く会釈をして立ち去ろうとした。ホタルもそれに続く。

「有地さんだけじゃないんですよ、行方不明なのは。その、ヘンな男たちというのは不幸通りを根城にしていた半グレグループの一つ、『闘犬クラブ』です。メンバー六人、全員行方不明です」

 ミハルは振り返った。

「お話してもらえれば、少ないですけど謝礼も出せます。川辺さんと伊藤さんにも、来てもらっていますよ。お友達ですよね? 学校には、実はもう話をつけているので、今日行かなくても大丈夫です」

 その女性はにっこりと笑いを浮かべた。明らかに作り笑いだった。

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る