第四話 思い出せないということを思い出したかもしれない
「今日は久しぶりにあの歌が歌えてよかったです」
夕暮れの帰り道。そろそろ門限の時刻。ルリや伊藤、遥子と別れて、ホタルとミハルは歩いていた。いつものように、ホタルはミハルの寮の前までついてくるようだ。
あの歌。ミハルは、確かに覚えていた。
「ミハルとわたし、あのお話に出てくる美女と野獣みたいだって、よく話してました」
そういうこともあったのだろうか。
「……今日は、食べてくれますね」
ホタルはカバンからお弁当箱を取り出した。ホタルは、ミハルがホタルのことを少し思い出したことに気づいているのだろうか。
「ほんとにこれ、食べれんの?」
ミハルは、つい、そのお弁当箱を手に取った。これまで散々見せられてきたが、手に取るのは初めてだった。ホタルの表情が明るくなる。
「もちろんです! やっぱり思い出してくれたんですね、わたしのこと」
「一緒にいたことがあるのは思い出したんだけどさ」
ミハルは、それ以上は言ってはいけない気がした。
「あまり思い出せていないのですね。残念です。食べてくれれば思い出すかもしれません」
お弁当箱からは、なんだか食欲を誘う香りがしてきた。
「食べなきゃいけないわけ?」
ミハルは、手に取ったお弁当箱を目の近くで凝視しながら言った。赤グロい。
「食べてくれれば、うれしいです。それだけです」
食べれば、どうなってしまうのだろうか。ミハルはなお逡巡した。
「今、ここで?」
ミハルはホタルの表情を窺った。いつもの妙な熱心さが、いつになくウェット感をおびている。
「わたしはミハルがわたしを食べるところを見たいです」
ホタルはそう言って、顔を赤らめた。やはり、この謎の物体はわたしなのか。ミハルは戸惑った。
「あのさ。その前に、おれと七浦さんって、家、近所だったっけ? 幼馴染っつってもさ。いろいろあるよな」
カラオケであの歌を歌ったときにフラッシュバックした光景。
帰宅すると、小学校高学年か中学生くらいだろうか、ホタルに似た少女が待っている。髪は長いが黒い。
「ミハルに思い出してほしいです。それでわたしが嫌われることになったとしても」
そう言って、ホタルはひどく寂しそうな顔をした。嫌われる? 嫌われるようなことを、幼馴染のホタルは過去にしたのだろうか。
すでに、妙なことは起こりすぎている。それでも、ホタルが自分を害するようなことは、するはずがない。そうミハルは思った。あの奇妙な夢の世界から抜け出るときも、手をつないでいた。食べれば思い出すなら、食べてみるしかない。いくらホタルから話を聞き出したところで、自分が思い出さなければ、意味はない。誰かから聞いた話が、そのまま記憶になるわけではないのだから。
ミハルは、意を決して、その物体を口に放り込んだ。
その物体は、噛み応えがあった。噛むうちに崩れてきて、意外にもすんなりとミハルの胃袋に収まった。
口を動かしながらホタルを見ると、ホタルは目を潤ませていた。
それにしても、こんな謎の物体を食って、はたして大丈夫なのだろうか。
「……なんともねえ」
「ミハル。そういうときは嘘でもおいしいというものです」
ホタルはそうは言いつつも、とてもうれしそうだった。ホタルのそんな明るい笑顔を、ミハルは久しぶりに見た気がした。久しぶり? その前は、いつ見たのだろうか。
ホタルはなかなか歩き出そうとしなかった。ホタルと別れたのは、門限ぎりぎりだった。
寮の玄関そばにある管理人室から、管理人がミハルを睨みつけた。
「七浦くん、部活でも始めたのかね?」
管理人は、六十歳を少し越えたくらいのじいさんで、島出身だが本島で安定した生活を営んでおり、寮の管理人を無給で買って出ている。
「いえ」
ミハルは靴を脱ぎ、寮の自室にさっさと引き上げようとした。だが。
「あのー。ヘンなこと言うようですが、おれの親ってちゃんと学費払ってますよね」
ミハルは、急に気になった。記憶の中で、ホタルみたいな少女のいる、奇妙な家。自分の家のはずなのに。
「バイトでもするつもりか? 七浦くんの親御さんは、きちんと費用を払ってくれとるよ。しっかり勉強することだ」
管理人は、そう言ってため息をついた。遊ぶ金欲しさにバイトしたがっているように思われたのだろう。
突然、ミハルは、血の気が引くのを感じた。頭の中に父親の顔も母親の顔も浮かんでこないことに気が付いたのだ。
その代わりに思い出したことがあった。
「ミハルは本当におさかなを獲るのが上手ね」
「あんまり遅くならないようにね」
「あら。さざえがこんなに」
「今日はお肉だって言わなかったかしら」
ホタルに似た少女が待つ自分の家に帰ったことは、一度ではなかった。
ミハルは自室に駆け込んだ。
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