第三話 大変なことになるかもしれない
歌い始めたホタルの声は、ガラスのように透明で、真綿のように柔らかく、雪のように輝き、夏の風のように心地よかった。ミハルは耳から流れ込む至福を感じた。
聞き覚えがある気がする。突然、ミハルは子どものころ島で過ごした日々のことを思い出した。素潜りで魚や貝を採る。地元民にのみ許されるぜいたく。ほんの小さい頃から海に入っていた。磯から見た夕日。海から帰ってきたら、家には……自分と同じくらいの女の子。逆光ではっきり見えないが、髪はおそらく黒。ホタルに似ている。ホタルに聞けば何かわかるのだろうか。
何かが腕に触るので、ミハルは我に返った。
歌いながら、ホタルはもう一本のマイクをミハルに押し付けていた。
「デュエットです」
自分のパートを歌い終えると、ホタルはミハルに有無を言わさない口調で言った。
ホタルは、確かに島にいた。それも自分の家に。遊びに来ていた? お泊りに来ていた? そんな仲なら、どうして忘れている?
混乱する頭を抱えつつも、ミハルは画面に流れる歌詞を見た。歌詞に見覚えはある。だが、歌えるかどうか。
不安に思ったのも束の間、ミハルがマイクを口の前にもってくると、もう何年も歌っていないのは確かなのに、するするとメロディが頭に浮かんでくる。
二人の歌が終わると、ルリが心底驚いた顔をして言った。
「ホタルの歌、やばいね」
ルリはため息を漏らしつつそういうと、ミハルにも顔を向けた。
「七浦はまあまあね」
上から目線にミハルはことばもない。
「地球の歌をここまで歌いこなすとは。見事なものじゃ」
遥子はしきりにうなづいている。
「もしかして歌手?」
伊藤も興奮している。
ミハルがホタルのほうを見ると、ホタルは顔を伏せていた。ミハルが、どうしたのかと思った瞬間。ホタルはミハルの顔に口を寄せた。
ルリが顔を赤らめる。伊藤が見ないフリをする。遥子は、次の曲を選ぼうとしている。
「帰りに、わたしを食べてください」
ホタルはほかの誰にも聞こえないよう耳元で囁いた。ミハルは、ドキリとした。そして、すぐに気付いた。それはあの赤黒い四面体のことだと。
ルリのワザとらしい咳払いの音がした。
「えへん。ところで、さっきの話なんだけど。その、本がわたしらにどう関係するのかって話」
ホタルも、その話をしたかったらしく、素直に応じた。
「力ある魔術師であれば、本を使いこなせます。ですが、力なき人間が本を入手し、中途半端な知識で実験してまわっているとしたら危険です」
「と言うと?」
ルリがさらなる説明を促す。
「子どもがジェット機を操縦するようなものじゃ。操縦桿に手も届かんのに操縦できんじゃろ。ジェット機が墜落すれば目的地に着かんどころか何百人も死ぬ。この場合は目的の存在に呼びかけられんどころか墜落事故を見に外宇宙から野次馬が来る。この前の事件は操縦桿に触っただけじゃったが、野次馬が来とったじゃろ」
遥子が補足した。
「野次馬?」
伊藤が話に入ろうとした。
「黄色い空間と、誰もいない街。おぬしらにはそう見えとったはずじゃ。仲介者に引かれてやってきとった」
「あー、あれな」
と、言いつつ、伊藤は、首を傾げている。
ホタルが話を戻した。
「巻き込まれると大変です。ルリさんや伊藤の場合、わたしがそばにいるとは限りません。せめてこの島からは離れておくべきです」
「無理でしょ。そんな理由で引っ越しできないよ」
ルリが青ざめる。
ホタルは少し困った声で言った。
「わたしたちがみなさんとずっと一緒にいるわけにはいきませんし」
わたしたち、というところでホタルがミハルをちらと見た。ミハルに何か期待しているのだろうか。
ホタルはルリの不安そうな顔を見てため息をつくと、自分のカバンを引き寄せた。
「ルリさんはこれをおもちください」
ホタルがカバンから取り出したのは、銀色の金属片だった。複雑な紋様が刻み込まれている。ミハルは、見ていると目眩がしてきた。ペンダントトップだろうか。遥子の目が一瞬、その金属片に留まった。
「いざというとき、これを噛んでください」
「いざってどういうときよ」
と、突っ込みつつ、ルリは金属片を手に取った。眉をしかめている。やはり目眩がするのだろう。照明にかざしたりしながら、うーん、と唸る。
「いざというときが来ればわかります」
ホタルは、それで説明は終わった、と言わんばかりだ。
「おれにはなんもないの?」
伊藤が厚かましい。
「ありません」
と、ホタルはピシャリ。
「あなたが使えそうなものもありませんし。ルリさんと一緒にいればどうです」
そう言って、ホタルは首を傾げた。
「あのさ、ホタル。わたしと伊藤ってどういう関係と思ってんの?」
ルリがあからさまに怒気を込めて言った。
ホタルがそれには答えないで澄ました顔で自分のドリンクに手を伸ばしていると。
遥子が口を開いた。
「わしが本を回収すれば済む話じゃ。協力してくれんかの?」
ホタルがドリンクをテーブルにおいて遥子に向き直った。
「あなたからそんな申し出があるとは意外です。わたしには、そもそもなぜあなたがここまでついてきているかもわかりません」
ミハルは、その態度がミハル以外の人間に対するのとは微妙に違うことに気付いた。遥子には、関心がないというより、信用ができない、といった感じだ。
「そう邪険にせんでくれ。わしはこの星に興味を持った。本を回収して終わりではつまらん。こんなに魂の転写がうまくいくのは実に珍しい」
「ようするに、少し遊びたい、と」
ホタルは決めつけた。
「まあ、そう言うな。おぬしらにもいいことじゃ。なんでこうなっとるのか、知りたかろう」
ルリはうなづいた。
「まあね。もう片足突っ込んでるし」
ルリはそう言って、先週フードの男に蹴られた方の脚に目を落とした。骨が折れていてもおかしくなかったのに、跡形もなく治癒しきっている。
「そこでじゃ。おぬしらには、『王国』について調べてほしい。わしも調べるが、この星の土地勘がない」
星の土地勘。よく意味がわからない。それにしても、「王国」とは。ミハルはどこで出てきたことばか思い出そうとした。
「確か、あのひょろっとした男は『王国の術師』と言ってました」
ホタルが口を出した。
「そこじゃよ。わしには、ふつうの王国とそうでない王国の違いもよくわからんし、術師とそうでない者の違いも実はよくわからん。みんな術師で、力の強弱だけがあるようにも見える。魂をもつ人間がこんなに多い星はなかなか珍しい。実に珍しい」
遥子はそう言うと顎に手を当てた。どこか楽しそうなのは、ミハルにもわかった。
「わかりました。それでは、わたしも協力しましょう」
「本当か! それは助かる」
遥子は手を叩いて喜んだ。その瞬間の仕草だけみればただの少し健康的な女子高生だ。
「これで、心置きなく歌えるというものじゃ」
遥子はそういうと、一時停止を解いて、また歌謡曲を歌い始めた。
「また中村かよ」
と、伊藤が呟いたのがミハルの耳に入った。
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