第一章 食われるわけにはいかない
第一話 ありえない
初夏の下校時。まだまだ日は高い。高校の三年間は帰宅部と決めているミハルは、ふとゲーセンに行ってみようと思い立った。
島にはゲーセンなどなかった。さいわい、今の高校からは歩いて二十分もすれば、ちょっとしたゲーセンもある繁華街に着く。それまでアーケードゲームに接したことのなかったミハルは、すでに何度か楽しんでいた。
部活なんてやる連中の気が知れない。毎日、貴重な放課後を決まったことに費やして、何が楽しいのか。ゲーセンに行きたければ行く。帰りたければ帰る。本当なら、海に行きたいところだが、残念なことに、ミハルは本島の出身ではなく、漁業権とやらを気にしなくてはならず、面白くない。潜ってみてもいいかもしれないが、まだ気乗りしない。本島には本当の、楽しいことがきっとあるはずだ。
ミハルがそんなことを考えながら歩いていると、気が付けば、ホタルが隣を歩いていた。
ホタルはまさに神出鬼没だ。忍者ばりに気配を消せるとでもいうのだろうか。
なぜか登下校時の人のいないときだけ、隣を歩いている。そのくせ、学校が近づいて生徒が周りに多くなってくると他人のふり。当然、校内でも他人のふり。ミハルには意味が分からない。
「今日こそ、食べてください」
ホタルはカバンからお弁当箱を取り出した。
いそいそと蓋を開けると、なかには赤黒い四面体が鎮座マシマシしていた。もっとも、この前のようなウェッティなかんじはもうなかった。とはいえ、乾いたかんじもしない。
「だから、何なの、それ」
「ですから、わ・た・し、です」
「じゃあ聞くけど、冬妻さんのどの部位なわけ?」
聞いた後で、ミハルは後悔した。とんでもなくグロい回答が返ってくるかもしれない。そうしたら、この不思議なあいまいな関係も終わりを告げるかもしれない。ミハルは、ホタルのこの奇行にもかかわらず、一緒にいることに居心地の良さを感じ始めていた。自分でも不思議だった。
ホタルは、ミハルの問いを聞くと頬を赤らめた。
「それは……わたしの大腿部です」
ミハルは思わず視線を下げた。
「スカートのなかですけど、見ます?」
赤黒い四面体は、手のひらサイズとはいえかなりの大きさだ。その部分がそっくり臀部から切り出されているというのか。
「いや、見ねーよ。さすがに」
「じゃ、触ります?」
そう言って、ホタルは赤黒い四面体を左手にもちかえると、並んで歩いていたミハルの左手を右手でとり、自分のお尻にあてた。ミハルは不意をつかれ、ホタルの手を振りほどくことはできなかった。
「ここです」
ミハルには、感触を冷静に判断する余裕はなかった。なんとなく、冷たい感じがした。もっとも、あの赤黒い四面体の大きさの穴が空いているようには感じなかった。
「全然わかんねー」
ミハルはホタルの手を振り払った。「自分の肉」とホタルが言っているだけで、ほかの何かの可能性はある。パンを教祖の「肉」だという宗教だってある。
ホタルはため息をつくと、赤黒い四面体をかわいらしいお弁当箱に入れ直し、カバンにしまった。それは、ミハルには、ホタルの可憐な外見と奇妙にアンバランスに見えた。
カバンの蓋を閉じると、ホタルが突然ミハルの顔を見据えたので、ミハルは戸惑った。
「わかりました。ミハルがホタルのことを忘れてしまってるから、約束のことも忘れてしまってるから、食べてくれないんですね」
そう言って、ホタルはむくれ顔をした。
「いいです。思い出させます!」
ホタルはカバンを両手で持つと、肩をミハルに寄せてきた。といっても、背の高さが違うので、肩とよりも胸がミハルの顔に近づく。
「ふっふー。どうですか? 匂いで思い出しますか?」
ミハルは母親以外の女子に親密圏内に入られるのに慣れていなかった。ふんわりとした甘く、心の奥をくすぐられるような匂いがミハルの鼻腔をくすぐる。何か思い出せそうな気もするが、何も思い出せない。
「ごめん、わかんねー」
ミハルはひとしきり匂いを嗅いだあと、顔を離した。
見ると、ホタルは悲しそうな顔をしていた。
ミハルがそんなホタルの顔に気を取られていると、どん、と何かにぶつかった。
気が付けば、ミハルたちは繁華街に向かう裏路地にいた。いかにもたちの悪そうな男とミハルは正面衝突していた。
「こらぁ!?」
男がミハルを睨む。ミハルは、どうすればいいかわからず、凍ってしまった。
「黙ってたらわからないよ?」
男はそう言うと、突然、平手でミハルの顔をはたこうとした。
ミハルが暴力を予期した瞬間。
男は大きく空振りをし、そのまま地面に転んだ。赤い液体が周辺に飛び散る。
次の瞬間、男はミハルの聞いたこともない声で叫んだ。男の声とは思えない、甲高い叫び。次第に声は小さく、野太い呻き声になる。周りから人が集まってきて、惨状を見た誰かが叫び出す。
男の手首から先がなくなっていた。
ミハルは駆け出した。ホタルの手を握って。
ミハルは無我夢中で走って、気が付くと、海辺でホタルと並んで座っていた。
繁華街から海辺までは走っても三十分はかかる。それだけ走っていた記憶がミハルにはまったくない。
遠く水平線では、太陽が沈みこもうとしていた。もしかしたら、海辺に来てから、一時間以上、経っているかもしれなかった。
ミハルは、ずっとホタルの手を握っていたことに気づいた。あのとき、駆け出したときからずっと、握りしめていた。
隣では、ホタルが微笑んでいた。
「うれしいです、ミハル。やっぱりミハルはミハルです」
そして、ホタルはミハルとつないだ右手はそのままに、左手に持っていた何かを地面に投げ捨てた。そして、左手をミハルとつないだ手に重ね、うっとりとミハルの顔に顔を寄せた。
ミハルは、ふと、ホタルが投げ捨てたモノを見た。
それは、人間の手首だった。
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