Ⅵ
森下は少年の前に行って腰をかがめた。少年はようやく森下と視線を交えた。穏やかな表情だ。
「ミチル君、こんにちは」
少年は話さない。老婦人は眉間にしわを寄せて様子を見守っている。客間の柱時計が、重く鈍い音で三時を知らせた。その音が、空間を漂い、満たし、やがて消えていった。
不意に少年は声を発した。「こんばんは」
「え?」戸惑った森下は、老婦人を見た。
「久しぶりに声が聞けました。この子の挨拶はいつも『こんばんは』だったんです。気にしないでください」
森下は少年に向き直った。しかし言葉が出なかった。自分が話せなくなっていることに、森下は動揺した。そんな森下を少年は穏やかに見つめていたが、再び話し始めた。
「定めし未来には逆らえぬ。時は流れ闇へ去る」
森下の頭の中に疑問符が浮かんだ。学校で習った詩の一部だろうか? 好きなマンガかアニメの台詞だろうか? それとも――。
「星の輝きは今亡きもの。陽の光とて同様なり」少年は続けた。「未来を定めよ。死者は戻らぬ。花の香りに形無し」
森下は訳が分からないまま少年を見つめて頷き、椅子に戻った。するとつい先ほど聴いたはずの柱時計の音がした――また三時。なぜだ?
「お孫さんの言葉は――」
老婦人は視線をカップの紅茶から森下に移した。
「あれはどういう意味ですか? 本に書いてあったんですかね? なんだか呪文のようでしたが……、あの言葉だけは話すんですか?」
「話す?」
「はい、今お孫さんが――」
「あの子は話せません」
「たった今話したじゃ――」
「生まれた時から泣き声しか発していません。一切言葉は話せないんです」
「え? ああ、そうですか……」
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