森下は少年の前に行って腰をかがめた。少年はようやく森下と視線を交えた。穏やかな表情だ。

「ミチル君、こんにちは」

 少年は話さない。老婦人は眉間にしわを寄せて様子を見守っている。客間の柱時計が、重く鈍い音で三時を知らせた。その音が、空間を漂い、満たし、やがて消えていった。

 不意に少年は声を発した。「こんばんは」

「え?」戸惑った森下は、老婦人を見た。

「久しぶりに声が聞けました。この子の挨拶はいつも『こんばんは』だったんです。気にしないでください」

 森下は少年に向き直った。しかし言葉が出なかった。自分が話せなくなっていることに、森下は動揺した。そんな森下を少年は穏やかに見つめていたが、再び話し始めた。

「定めし未来には逆らえぬ。時は流れ闇へ去る」

 森下の頭の中に疑問符が浮かんだ。学校で習った詩の一部だろうか? 好きなマンガかアニメの台詞だろうか? それとも――。

「星の輝きは今亡きもの。陽の光とて同様なり」少年は続けた。「未来を定めよ。死者は戻らぬ。花の香りに形無し」


 森下は訳が分からないまま少年を見つめて頷き、椅子に戻った。するとつい先ほど聴いたはずの柱時計の音がした――また三時。なぜだ? 

「お孫さんの言葉は――」

 老婦人は視線をカップの紅茶から森下に移した。

「あれはどういう意味ですか? 本に書いてあったんですかね? なんだか呪文のようでしたが……、あの言葉だけは話すんですか?」

「話す?」

「はい、今お孫さんが――」

「あの子は話せません」

「たった今話したじゃ――」

「生まれた時から泣き声しか発していません。一切言葉は話せないんです」

「え? ああ、そうですか……」

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