第十四話:癒やしが生む歪み

 夜のとばりが下りた午後六時。

 人通りの多い下社駅しもやしろえき南口の一角にある、駅周辺案内図。

 待ち合わせにも利用されるその場所に、一人の少女が寒そうに立っていた。


 黒を基調としたつば付きのキャップに、顔を隠すようなやや大きめのサングラス。

 パデットパーカーにジーンズを着込んだその少女は、震えながら手に取った携帯を眺めていた。

 画面に映っているのはMINEでのやりとり。

 彼女が『どうだった?』とメッセージを送ってから、既に一時間。それは未だ、既読にはならない。


「一体どうなってるのよ。まったく……」


 嘆くように、そう口にしたのは恵里菜だった。

 彼女は駅前で三時間ほど、こうやって張り込んでいる。その目的は、佳穂と雅騎の進展を確認するためだ。勿論、と。


 とはいえ、人気ひとけの少ない喫茶店内や住宅街では、どうしても目立つしバレてしまう。そこで選んだのが、佳穂が帰宅の際、絶対に利用するはずの電車の駅。

 恵里菜はここで張っていれば、もっと早くに状況を確認できると踏んでいたのだ。

 ただ誤算だったのは、思った以上に佳穂が姿を現さなかったこと。そして、未だMINEに動きがないこと。


「まさか……。私に限って駅に入ったのを見逃した、なんてことないわよね?」


 自問自答する恵里菜。本人は心でそう思ったつもりなのだが、冷えた身体と待ちくたびれたせいだろうか。無意識にそう口に出てしまっていた。

 と、そんな彼女の目に、今日何本目となるだろうか。停留所に止まるバスが映る。

 ドアが開くとゾロゾロと人が下りてくる。そんな人々に目を向けていた恵里奈だったが、


「嘘!?」


 その瞬間、信じられないといった顔をした。

 何故なら、雅騎と佳穂が一緒にバスを下りてきたからだ。しかも、二人はまるで仲の良い友達のように、軽く談笑しながらこちらに向かってくるではないか。


  ──やばっ!


 恵里菜は慌てて二人に気付かれぬよう、待ちぼうけをくらう赤の他人を装うと。目ざとく視線だけで彼らを追い、耳ざとくその一言一句に耳を傾けた。

 恵里菜の存在に気づかぬまま、二人は偶然にも彼女の側で立ち止まり、向かい合った。


「今日は色々ありがとう。ごめんね。無理にMINEまで交換してもらっちゃって……」

「いいよ。ただ、俺ほんと無精ぶしょうなとこあるからさ。そこだけは勘弁ね」

「大丈夫! 速水君のタイミングで返事くれればいいし、それこそ返事も無理しなくて大丈夫だからね!」


  ──お! いい感じじゃない!


 笑顔を交わす二人に、思わず恵里菜はにんまりと笑みを浮かべそうになる。

 彼女は予想外、と言っては失礼なのだが、思った以上に進展があったと手応えを感じていた。

 とはいえ変なリアクションをして、気づかれては元も子もない。

 恵里菜は、にやけそうになるのを必死に堪え、二人のやり取りを見守る事に専念した。


 そんな自分達を監視する存在などつゆ知らず。二人は会話を続ける。


「でも、本当に大丈夫?」


 ふと。佳穂がやや心配そうな顔で、雅騎を覗き込んだ。

 恵里菜も横目で彼を見る。そして、その違和感をすぐに感じ取った。


 彼はどこか夢心地の、まどろんでいるかのような、とろんとした表情をしているのだ。しかも、どことなく顔色も赤いように見える。


「いや、本当に大丈夫だよ。初めてだったけど、思ったより気持ちよかったからさ」


 心配そうな佳穂に、彼はちょっと恥ずかしそうに頬を掻き、そう口にする。

 そんな雅騎の態度と言葉を聞いた瞬間、恵里菜は思わずぎょっとした。


  ──初めて!? 気持ちよかった!?


 いやまさか……。

 あらぬ考えが頭をよぎる。

 しかし、続く彼等の会話は、更に恵里奈の混乱に拍車をかけた。


「それより、綾摩さんこそ大丈夫? 疲れたりしてない?」

「ちょっと大変だったけど、大丈夫」


  ──疲れてるぅ!? ちょっと大変!?


「でもそんなに気持ちよかったんだ……。じゃあ、またしてあげちゃおっかな」

「まあ、もしもの時は、お世話になるかも……」

「うん」


  ──またぁぁぁ!? してあげるぅぅ!?


 二人はお互い照れくさそうに言葉を交わす。が、一番顔を真っ赤にしているのは間違いなく恵里菜だった。


  ──ひょっとして、ひょっとしちゃったわけぇぇぇっ!?


 既に恵里菜の脳内では、二人があんなことやそんなことをしたのではないかという、ここでは表現できない、あらぬ妄想が駆け巡り出していた。


「あ。そろそろ、電車が来る時間だよ」

「そうだね。今日は、ありがとう」


 雅騎が佳穂を促すと、彼女は少し名残惜しそうな表情を浮かべる。


「こちらこそ。気をつけて帰ってね」

「うん。それじゃまたね」


 佳穂は今日一番の笑みと共に小さく手を振ると、踵を返して駅に向かって歩きだした。

 後ろ姿をじっと見つめていた雅騎は、途中一度だけ振り返った彼女に軽く手を振り返す。そして、佳穂が改札に入り見えなくなったのを見届けると、彼もまた踵を返し、バスの停留所に向かって歩き出した。


 その場に一人残された恵里菜は……身勝手な妄想が凄すぎたのか。それとも二人を警戒する緊張から解放されたのか。ヘナヘナとその場にへたりこんでしまった。


  ──まさか、速水君ってすっごい肉食系だったの!? それとも佳穂が積極的だった!?


 妄想に囚われ、困惑する恵里奈。

 彼女はまだ知らない。その妄想から解き放たれるのは、まだまだ先であるという事を。


* * * * *


 帰りのバスの中。

 座席に座っている雅騎の顔は、先程まで佳穂に見せていたものとはまったく違っていた。

 とても疲れ、覇気のない表情。そして、やや荒い呼吸。

 まるで体調を崩したかのように苦しげな彼は、ぼんやり先の自宅での出来事を振り返っていた。


* * * * *


 時は、少しさかのぼる。


『雅騎。貴方はまだ、私達わたくしたちに隠していることがありますね?』


 姿勢を正したまま向けられる、エルフィの真剣な眼差し。

 雅騎も佳穂も、そこからどのような言葉が発せられるのか分からず。困惑した面持ちで彼女を見つめるしかない。

 緩んでいた空気がまた緊張する。そんな中、エルフィが静かに口を開いた。


『あの時、貴方が戦いで負った傷は、まだ癒えておりませんね』

「え?」


 その言葉に、佳穂は驚きの表情を見せた。

 

 彼女が驚くのも無理はない。

 雅騎の顔にあった傷は既に消えかかっており、ここ数日の彼の様子を思い返してみても、怪我で苦しむ素振りなど一切見受けられなかったのだ。

 だが。佳穂はそれが事実だということを、彼の困ったような表情で察してしまう。


「……何でそうだって分かるの?」

『貴方の生命いのちの揺らぎです』

「俺の、生命いのち?」

『はい』


 生命いのちが可視化できるのは、天使が持つ独特の力だ。

 天使とは意識体に近い存在であるが故に、同じような意識体に近しいものの一部を、視認することができるのだが。生命いのちはその一部に該当し、人間がよく口にするのような形で視ることができる。

 ただ、天使の力を宿していても、この世界で肉体を持つ佳穂では視ることができないと、彼女は以前エルフィに聞いたことがあった。


『貴方の事は先日の戦いより以前から、佳穂のそばで見ておりました。今の貴方の生命いのちは、そんな普段とは違い、力もなく非常に不安定に視えるのです』


 雅騎はその言葉を聞くと、エルフィから視線を逸す。

 佳穂もまた、そんな彼を心配そうに見つめることしかできない。


「それも、天使の力……だよね?」


 彼は困ったような表情で頭を掻くと、視線をエルフィに戻す。


『ええ。申し訳ありません』

「謝る事なんてないよ」


 落ち込むエルフィに対し、雅騎は小さく微笑ほほえんだ。


 初めて出会ったあの日。彼はエルフィの天使としての力の一部を垣間見た。

 自分が掛けた眠りの霞スフォル・ディアの効果を受けなかった事からも、天使の力が非常に特異で、かつ強力なものだと感じるには十分なもの。


 彼は大きく溜息をくと、観念したように語りだす。


「エルフィの言う通り。細かな傷は随分良くなったけど、大きな傷が思った以上に治りが悪くてさ。今でも時々痛むんだよ」

「全然気づかなかった……」

「痛み止め飲んでるからね。最近のは中々優秀だから、普段の生活くらいは問題ないんだよ。に使えるってのも凄いよね」


 雅騎は佳穂に向け、軽く冗談交じりに事実を語り、その空気を変えようと努力する。

 だが、それが彼の強がりに見えてしまったのだろう。彼女の表情はより曇ってしまう。

 そんな二人の反応に、エルフィは表情を引き締めた。


『お願いです。その傷をわたくしに癒やさせてはいただけませんか?』

「傷を?」

『はい。あの時のわたくしは力も限界に近く、貴方を癒やすことができませんでした。ですが今は力も戻っております』

「……無理は、してないよね?」


 エルフィの言葉に、雅騎は静かにそう問いかけると、


『はい』


 彼女は静かにそう返した。だが、その後二人から言葉が続かない。

 その沈黙に耐えられなくなったのか。


「大丈夫だよ。私や霧華達もエルフィに治してもらってるし。お陰でこんなに元気だもん!」


 咄嗟に佳穂が、笑顔でそう口を挟む。


「それに私だって力を貸せるから、ちゃんと速水君を一緒に治してあげられるし。ね? エルフィ?」

『はい』


 内気なのは変わらないはずなのだが。雅騎の力になれると思った途端、俄然やる気を出すあたりは佳穂らしい。

 実際彼は、こんなに積極的な彼女を見たことがなかったため、内心ちょっと驚いていた。


 本音を言うなら、自分の為に力を使ってもらいたくはない。だが、それは二人の厚意を無にす事になる。

 少しの間、沈黙する雅騎。それは彼なりに決断するためだったが、二人は断れるのでは、と内心気が気でなかった。


「……じゃあ、お願いできる?」


 雅騎がふっと笑みを浮かべ、静かにそう口にする。その答えに、


「うん!」

『分かりました』


 佳穂とエルフィはお互いを見て、嬉しそうな顔をした。


 雅騎の力になれる。


 その気持ちを表情から読み取った彼は、あまりに素直な厚意を向ける二人を見ながら、照れた表情を浮かべていた。


* * * * *


 突然ジャケットに入れていたスマートフォンが振動する。

 雅騎は我に返ると、それを手に取った。


『無事電車に乗れたよ。今日は本当にありがとう』


 それはMINEに届いた佳穂からのメッセージ。

 そして、可愛いペンギンがお礼を言っているスタンプが後に続く。

 雅騎はふっと笑みを浮かべ『こちらこそ。気をつけて帰ってね』と送り返した。


 その瞬間。

 意識がふっと闇に落ちかける。だがそれを、雅騎は必死にこらえた。


 ──それから数分後。


 玄関を開け、キッチンの明かりを点けた彼は、居間のテーブルの上に残った物をそのままに、ドアを開けるとふらついた足取りで寝室に入っていった。


 その表情は、先程以上に青ざめている。冷や汗を流し、足を引きずるようにゆっくり歩く様は、まるで船酔いになった病人のよう。

 雅騎は寝室の電気も点けず、最後の力を振り絞ると、ベッドになだれ込むように倒れ込んだ。

 ハァハァと荒い呼吸を繰り返しながら、彼の意識が徐々にかすんでいく。


「参った、な……」


 誰に言うわけでもなくそう呟くと。彼はそのまま意識を失った。


* * * * *


 雅騎は佳穂との別れ際に「気持ちよかった」と言っていたが、あれは嘘だ。


 エルフィの申し出の後、彼女達は天使の力、治癒の光マグスルファを使い、雅騎の手当を始めた。

 以前のドラゴン戦でエルフィが咄嗟に佳穂を治癒しようとした時のように、光が彼を覆うと、ゆっくりと怪我が治り始め、少しずつ生命いのちを安定させていく。


 人間の傷は、急いで治すと痛みだけが残ってしまい、それが慢性的になってしまうこともある。だからこそ、時間を掛け、慌てずゆっくりと治癒を進めていった。


 その手順には、何ら問題はなかった。


 実際。治癒が終わった後、雅騎の背中や脚にあった大きな傷は癒え、そこから生まれていた強い痛みも感じなくなっていたのだから。

 実際エルフィの目から視ても、彼の生命いのちは多少の乱れはあれど、充分な力を取り戻しているように視えていた。


 佳穂とエルフィは、無事に雅騎を治癒できたと安心しきっていた。

 しかし。と天使の間であれば起こり得ない事が、彼には起こってしまったのだ。


 雅騎と彼女達を比べた時、大きな違いがひとつある。


 それは、普通の人間でも。それこそ天使であるエルフィであっても、検知する機械がなければ感じ取れない程の微量な粒子、磁流グラフォル──雅騎の言葉を借りるなら魔流シストを、あの戦いでし、と断言していた事。


 では、何故その存在を感知できたのか。

 それは、雅騎の力の本質が、魔流シストであるからだ。


 彼は、常に体内に魔流シストを持ち、それを消費する事で力を駆使することができる。だからこそ、あの時ドラゴンと戦う事ができたのだ。


 一方。

 佳穂とエルフィが使った治癒の光マグスルファ

 彼を癒やしたその力は、天使達の力の源である、霊光ジュザルファを相手の体内に送り込み、治癒力を高めるものなのだが。


 このという行為が問題だった。


 魔流シスト霊光ジュザルファは、全く別物でありながら、人の体内に存在できるという点で、非常に似た力でもあった。


 より近い力同士が体内に入り込む。

 これにより、双方の力が混じり合い、より強い力を持つ可能性もある。

 だが同時に、それが強い副作用を起こす事もある。


 雅騎は治癒を受けるにつれ、火照ほてりや気分の悪さといった症状が少しずつ高まっていくのを感じていた。

 それはまるで、のような症状。


 決して楽な症状ではない。

 しかし彼は、その苦しみを二人の前で出来る限り見せず、最後まで己の精神力でねじ伏せたのだ。

 その理由はただひとつ。彼女達の厚意を無にさないため。


 そう。

 雅騎は誰かの笑顔を守れるのなら、迷わずに嘘をつく。

 それこそが、彼の信念なのだから。

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