第十三話:太陽のような優しさ
──結局、来ちゃった……。
喫茶店『Tea Time』から歩いて十分ほどの、七階建ての新しめのマンションの五階。
佳穂は日陰になっている玄関前で、寒そうに身を震わせつつ、困った顔を浮かべていた。
結局、佳穂は雅騎からの提案を受け入れた。
それは彼が、自身の想いを察し、そう言ってくれたのだと考えたからだ。
とはいえ、男子の家に上がるなど初めての事。
提案を受け入れるのには、強い戸惑いもあったのだが。それでも、雅騎に想いを伝えなければという気持ちが、彼女の勇気に火を付けた。
喫茶店からの移動中は雅騎がうまく会話をリードしてくれたこともあり、佳穂の緊張もそれほどではなかったのだが。
いざ彼の家の前で一人で待っていると、やはり不安と緊張が高まってくるもの。
──きっと大丈夫、だよね?
彼女は不安な心を振り払うよう、己を奮い立たせようとした。その時。
ガチャリ
彼女の不安を遮るように玄関のドアが開くと、雅騎が申し訳無さそうに顔を出す。
「待たせてごめんね。あがって」
「あ、うん。おじゃまします……」
佳穂は家の奥に戻る彼に続くように、落ち着かない様子でおずおずと入っていった。
フローリングの短い廊下を抜けると、そこは小さめのダイニングキッチン。
雅騎は先にキッチンに移動すると、ケトルに水を入れ始める。
「先に奥に行って座っててくれる?」
「うん」
周囲を見渡すと、開いた引き戸の先に、居間と思われる部屋が見える。
──あっちかな?
佳穂はゆっくりとそこに入っていく。
部屋は六畳ほどの長方形の間取り。中央には黒いカーペットの上に正方形のテーブルがあり、壁側にはテレビやパソコンデスク、本棚などが置かれている。
若い男子の部屋としては非常に綺麗で、急場しのぎで掃除をしたような感じはない。ベッドがないのは別室に寝室があるからだろう。
──やっぱり……。
正方形のテーブルの周りには、三つの薄めのクッションが並べてあった。入り口に近い側にふたつ、奥のベランダ側にひとつ。
それを見て、佳穂は改めて、雅騎がそれに気づいていると知る。
佳穂は静かに手前の左側のクッションに正座すると、ゆっくりと部屋を見渡した。
本棚には漫画、ゲームの攻略本など男子らしい本の数々が並んでいるが、中には料理の本なども置かれている。
勝手なイメージで、男子の部屋には何かしらポスターなどが貼ってあるのかと思っていた。しかし、意外にもそういった類のものは一切なく、壁はやや空間を持て余している感がある。
夕方も近づき、西陽がベランダからレースのカーテン越しに差し込む。
そのせいもあるだろう。部屋の中は心地よい温かさに包まれている。
──ここが、速水君の部屋……。
想像していた感じとは少々違う。だが、それでも初めて入った彼の部屋は、新鮮さに
「少し片付けに手間取ってさ。寒かったでしょ?」
突然掛けられた声に振り返ると、トレイを持って雅騎が笑顔で立っていた。
「ううん。そんなことないよ」
「そう? ならいいんだけど」
軽く笑みを見せると、雅騎はテーブルの脇ですっと姿勢を低くし、先程喫茶店で見せたような手慣れた手付きで、ティーカップとティースプーンが乗ったソーサーを並べ始めた。
カップには、ほんのりと香るダージリンティーが注がれている。
それを三セット、そして焼き菓子が乗った皿をテーブルに置くと、彼は再度立ち上がり、部屋の一番奥に向かう。
そして、窓の左右に掛かった厚手のカーテンを、さっと閉じた。
シャーッとカーテンが滑る音が、開演前の劇団員のように、自然と佳穂の気持ちを引き締める。
振り返った雅騎は佳穂の対面に座ると彼女を見た。
「冷める前にどうぞ」
「あ、うん。ありがとう」
佳穂は紅茶を口にした。その味と香りが、僅かに彼女の心を落ち着かせる。
そしてカップを元に戻すと、一息
「……じゃあ、聞かせてもらおうかな」
彼女の準備が整ったと感じたのだろう。雅騎が会話を促すと、佳穂が視線を重ねる。
その顔は、普段見せる自然な表情そのもの。
雅騎によって準備された環境に、心を見透かされた気持ちでいっぱいの佳穂だったが、今は不思議と、先程までの緊張はなかった。
それは紅茶のお陰もあったが、彼の穏やかな表情に助けられたのかもしれない。
「先に聞いちゃうけど……。速水君は、ここで何を話すか気づいてたよね?」
「そりゃ、『私達だけで話したい』って言われたら、ね」
佳穂が改めて確認すると、雅騎はちょっと苦笑いして見せる。
確かにその時の彼女の真剣な表情は、内容を察するには充分なものがあった。しかしそれ以上に、私達と口にされた事で、彼の推測は確信に変わったのだ。
雅騎の答えを合図としたかのように。
ふわっと佳穂を薄い光が包んだかと思うと、その光が脇のクッションの上に移り、そこに彼女と同じように正座した、白き翼を携えたエルフィが姿を現した。
彼が久々に目にしたその姿は、相変わらず凛とした天使らしさを漂わせている。
『お久しぶりですね。雅騎』
「ああ。久しぶり」
エルフィの真剣な眼差し。彼はそんな視線を受け、表情を引き締める。
「あの、私ね。思い出したの」
雅騎をじっと見つめたまま、エルフィに声もかけず、佳穂が話を始めた。
「あの日のこと、だよね?」
「うん。でもね。私は、速水君が思っている以上の事を知ったの」
「俺が思っている以上の事?」
表情を変えずに話を聞き続けるつもりの雅騎だったのだが。佳穂のその言葉に、思わず不思議そうな顔を浮かべてしまう。
彼女は小さく頷くと、そのまま静かに語り出した。
記憶を失っていた佳穂のために、エルフィが記憶を取り戻そうと決意したこと。
そして。彼が三人の記憶を消し、エルフィは雅騎と会っていた事実を口外しないと約束した事。
エルフィが記憶を取り戻そうとしたのは、雅騎の中でも想定内だったのだが。
ただ。その驚きがあってもなお、彼は表情を変えずに佳穂の話に相槌を打ち、静かに耳を傾けていた。
事実を一通り語り終えた佳穂は、一度そこで深呼吸する。
「……あのね。エルフィは何も悪くないの。私の気持ちに応えてくれただけで」
佳穂は、自身の想いを伝えるべく話を切り出す。
しかし、
『そんな事はありません』
その言葉を遮り、否定したのはエルフィだった。
思わず「え?」っと驚きの声を上げ、佳穂は彼女を見上げてしまう。
エルフィの表情は先程と変わらず、視線もしっかりと雅騎に向けられたまま。
『
佳穂が一週間、謝罪と礼を言えなかったその間。
同じだけ考える時間があったエルフィにもまた、心境の変化があった。
それは己が罪を犯したという意識の高まり。
それが、佳穂の気持ちに仇なす言葉を口にさせていた。
「そんなことないよ!」
『いいえ。これは私の犯した罪なのです』
エルフィは、例え雅騎が
佳穂は、その罪は自分が生んでしまったという責任を感じ。
だからこそ、二人は互いの罪を競いあう。
「それなら私が悪いの! 私が我儘を言ったからエルフィが気を遣っただけだもん!」
『あれは
お互い己を責め。相手に非はないと
そんな堂々巡りの二人の言い争いは、永遠に続くかと思われた。
突然。二人に割って入るかのように、
「まったく……」
と、ちょっと呆れたような、しかしどこか笑いを含んだ声が届く。
それを聞き、二人ははっとすると、思わず雅騎に顔を向ける。
そこにあったもの。それは……。
「二人って、なんか似てるよね」
彼の、優しい笑みだった。
「え!? そ、そう、かな……」
『そ、それは……』
二人はお互い顔を見合わせると、ちょっと恥ずかしそうに
「うん。勿論、良い意味でね」
雅騎はそんな二人に、諭すような口調で静かに語りだした。
「記憶が失われていたんだから、綾摩さんが知りたいって気持ちを持つのは普通だよ。だからそれを責める必要なんてないさ」
「それは、そうかもしれないけど……」
『雅騎の言う通りです。だから佳穂に罪はないのです。ですが
「守ってるさ。だって、記憶の封印を解いたわけでも、封じた記憶の中身を話して聞かせたわけでもないんだろ?」
『それは
雅騎の言葉に、
「あれ? 俺は『俺と会った事を口にするな』としか言った覚えはないけど?」
彼は
「二人は何も悪くないんだよ。もし二人が悪いって言うなら、それこそ俺が悪人って事でさ」
『そんなことはありません! 貴方は
「そうだよ! 速水君が悪い人のはずないよ!」
二人にとって、雅騎の存在がなければ今ここに生きてはいない。その事実を知るからこそ、彼の言葉を認める事などできるはずもない。
彼女達はほぼ同時に、
それを見て、雅騎は思わずくすっと笑ってしまう。
「やっぱり二人は似てるよ。すごく優しいし」
「そ、そういう話じゃなくて……」
『そんな事は……』
相変わらず、歯に衣着せぬ雅騎の言葉。その破壊力は、二人の一気に真っ赤になった顔がよく表している。
恐縮したように身体を小さくする二人に、彼は柔らかな笑みのままこう続けた。
「俺はそう言ってもらえるだけで充分だよ。ありがとう」
お礼の言葉に、二人は何も言えなくなる。
それは、どうして彼が自分達を責めず、
──速水君は、私やエルフィを
──貴方は最初から、
沈黙がこの場の空気を凍らせることは、もうなかった。
そこには。秋の肌寒さを感じさせない、二人を照らす、太陽のような温かさがあるだけ。
二人の中の罪悪感と緊張が、ゆっくりと溶け。同時に、新たな想いが静かに湧き上がる。
──貴方は話してくださいましたね。感謝の気持ちがあるのならば……。
──ごめんなさいより、ありがとうって……。
佳穂とエルフィは改めてお互いの顔を見ると、静かに頷き合い、改めて雅騎に向き直る。
雰囲気の変化に、雅騎は見せていた笑顔を一度心に仕舞う。
改めて三人の視線が
『「ありがとう」』
彼女達は同時に、ただ一言そう告げると、共に頭を下げた。
「こっちこそ。正直に話してくれてありがとう」
雅騎はそんな二人の言葉を受け、改めて
せめぎ合っていた佳穂とエルフィの緊張が解けたのを感じ、彼はふぅっと安堵の息を
「それで、皆には話したの?」
会話の中で語られていなかった、唯一気になった点を尋ねてみた。その問い掛けに、彼女達は改めて顔を上げる。
「ううん。皆には話さないことにしたの」
「……隠すのは、辛くない?」
佳穂の回答に、雅騎は少し心配そうな顔をする。だが二人は、そんな彼に向け、先程とは違う笑顔を見せた。
『大丈夫ですよ。これは
「そうそう。折角速水君が私達のためを思ってしてくれたことだもん。それに私は助けてくれた人にお礼が言いたかっただけ。だから、大丈夫」
「……そっか。わかった」
その力強い言葉に彼は頷くと、安心した顔で、目の前の紅茶を口にする。
「じゃあ、この話はここまでかな」
「うん」
釣られて佳穂もまだ温かさが残る紅茶に手を伸ばす。
しかしその時。
『いえ。まだ終わりではありません』
エルフィが、そう言葉で制した。
雅騎と佳穂はお互いの顔を見合わせた後、それぞれ彼女を見る。
そんな二人に対し、何かを決意した瞳で、エルフィはこう告げた。
『雅騎。貴方はまだ、
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