第十話:悩みし乙女の日常

 あれから数日が経ち、三人は無事退院した。


 退院して数日。彼女達はそれぞれ、クラスメイトから公園火災や入院生活について質問攻めを受け、落ち着かない生活を送っていた。


 しかし、少し経てばそんな状況も落ち着きを見せるもの。

 ここ最近の状況に食傷気味だった霧華は、やっと戻ってきた静けさの中、図書室での委員会活動と読書を堪能し。

 御影は大好きな体育と大嫌いな勉強。そしてサンディワンのミントアイスを堪能し。

 佳穂もまた、普段通りの学校生活に戻り。三者三様にそんな自由を謳歌おうかしていた──と言いたい所だが。

 残念ながら、佳穂だけは気持ちが晴れずにいた。


 その原因は何か。

 それは、。ただその一点に尽きる。


 退院直後の佳穂は、とにかく女友達に囲まれる時間が多かった。

 そこに皆の気遣いがあることを理解していたからこそ、その状況を無下にもできず、また友達の輪をを飛び出し、雅騎に声を掛ける事など出来るわけもなかった。


 状況が落ち着いてきた今なら……と思うかもしれないが、佳穂と同じく雅騎も男友達と一緒にいる事が多かった。

 内向的な彼女が、そんな状況で彼に話しかける勇気は到底無理な話。


 では放課後はどうなのか。

 これも二人の帰宅ルートが全く異なっているため、偶然一緒になることもない。

 結局、そんな環境や佳穂の性格から、身動きが取れずにいたのだ。


 六時限目の授業の最中。

 廊下側の一番後ろ、学生なら憧れるであろう席に座っている佳穂は、ふと教科書から目を逸し窓の方を見た。

 視線の先には、窓際の席で真面目に授業を受けている雅騎の後ろ姿。


  ──はぁ……。


 退院して何度目だろうか。彼の背中を見つめながら、佳穂は心の中で大きなため息をく。


  ──これが一学期だったらなぁ……。


 佳穂はという、既に戻れない過去を思い返していた。


* * * * *


 この学校では、名前で座席順を決めるのではなく、各学期の最初のホームルームで、くじびきによる席替えを行っていた。


 隣に座る相手。特に異性について、良くも悪くも非常に気にする生徒は多い。

 しかし当時の佳穂は、それにまったく関心がなかった。


 その理由は、佳穂がそもそも人見知りだからなのだが、とりわけ異性に対しては臆病だったからだ。

 お陰で幼稚園に始まり小学校、中学校、そして高校に至るまで、ほとんど異性と会話をしたことがない。そのため、恋人どころか、初恋すら未経験だった。

 そんな状況の彼女からすれば、隣に誰が座ろうと、結局距離を置くだけの存在でしかない。だからこそ、関心を持つ必要もなかったのだ。


 しかしそんな中、初めて気になる男子が現れた。

 それが、高校生活で最初に隣の席になった、速水雅騎だった。


* * * * *


 高校生活が始まって一週間ほど。


 佳穂は歴史の授業中、手が滑って、消しゴムを床に落としてしまった事がある。

 当時彼女が座っていたのは窓際一番後ろの席。

 そこから落とした消しゴムは、見事なステルス性能を発揮し、誰にも気づかれる事なく、音も立てずに跳ねながら、教室後ろの黒板付近に転がってしまったのだ。

 生憎佳穂は、予備の消しゴムなど持ち合わせていない。しかも歴史の教師もこういう状況ですら、席を立つと怒鳴ってくるような生真面目さで有名な相手。

 そのため、迂闊に消しゴムを取りに行く事もできなかった。


  ──どうしよう……。


 その時どんな顔をしていたか。佳穂はそこまではっきりと覚えてはいない。だが、きっと非常に困った表情をしていたのだろう。

 消しかけのまま進まないノートを見つめながら、佳穂は心の中で泣きそうになっていた。

 と、そんな時。


  ストン


 突然目の前に、真新しい消しゴムが静かに横から跳び込んできた。


  ──え?


 彼女が思わず、それが跳んできた方に顔を向けると、そこには隣の席の雅騎が、笑顔でこちらを見ていた。

 隣といっても、二人の席の間は人が通れるよう、机一つ分ほど空いている。彼の消しゴムは、そんな谷超えのジャンプを見事成功させた、ということになる。

 佳穂がこちらに気づいたのを見て、雅騎は口の前で人差し指を立て、しーっと沈黙を促すと、ノートを机に立てその一ページを指差す。


 『それ使っていいよ』


 その箇所には、達筆とは言い難いが、読みやすいそんな文字が書かれていた。

 佳穂はどう反応してよいか戸惑う。しかし、断りを入れるため彼に消しゴムを返す為、同じ芸当をするのは到底無理な話。


  ──ごめんなさい……。


 佳穂は申し訳なさそうに、ペコっと小さくお辞儀を返した。

 雅騎はそれに笑みで答えると、視線を黒板に戻し、文字をノートに書き写す作業に戻っていった。


 これが、佳穂が初めて雅騎に優しくしてもらった出来事だった。

 これだけなら、学校生活でもよくある話かもしれない。

 しかし。その後も彼が隣の席の間、彼女は同じような優しさを幾度となく経験した。


 夢にあったような状況ではないものの、掃除や日直の当番で何かと気を遣って率先して行動くれたり。

 時には、佳穂が教科書を忘れた日に彼女に教科書を貸し、結果雅騎が忘れ物をした罪を被ってくれた事もあった。


 佳穂はその度に、雅騎に謝った。

 しかし、そこは相変わらず彼らしいというべきなのか。やれ「自分が勝手にやった」だの「気にしなくて良い」だのと返すばかりで、彼女を責め、とがめることは一切せず。しかも、それを笑顔で口にするのだ。


 そんな彼の事を、佳穂が意識してしまうのに、大して時間は掛からなかった。


* * * * *


 何かと雅騎と接する機会も多かった一学期。

 あの頃であれば、今回のように想いを伝えたい時にも、話しかけやすかったに違いない。しかし、席も離れ、接する機会も減った今では、それも叶わぬ夢。


  ──何とかあの時のお礼、言いたいな……。


 つのる気持ちは日に日に強くなる。しかし何も出来ていない現状を、佳穂はとても歯痒く感じていた。


  キーンコーンカーンコーン


「それじゃ、今日はここまで」


 教師の声で、佳穂ははっと我に返る。

 瞬間、教室内は本日最後の授業が終わった喜びと、帰宅、部活それぞれの時間にシフトしようと行動を取る生徒達により、一気に騒がしくなった。

 佳穂もまたカバンを手に取ると、机の中の教科書やノートを仕舞い始める。

 と、そんな中。


「雅騎! 昨日のリベンジ戦しようぜ!」

「悪い。今日はこの後すぐバイト行かないと」

「マジかぁ。じゃあまた今度勝負だからな!」

「わかったわかった。じゃあな!」


 帰宅の準備を終え、友達との会話を早々に切り上げる雅騎の声を聞き、思わず佳穂は顔を彼に向ける。

 そこで見たのは、彼女の脇を足早に通り過ぎ、後方のドアから教室を出ていこうとする彼の姿。

 佳穂は無意識にその一部始終を目で追ってしまう。


「……はぁ」


 教室を出ていった彼を見送った後。佳穂はまたも大きなため息をいた。

 それは近づいて来た者が、聞きとるのも容易なほどの大きさで。


「随分と大きなため息をいてますねぇ」


 突然背後から掛けられた聞き覚えのある声に、慌てて佳穂は振り返る。

 そこには、にんまりとした顔で立つ、茶の短髪が似合う恵里菜の姿があった。


「え? 聞こえてたの!?」

「そりゃあもう」


 恵里菜の表情に、思わず佳穂は俯いてほんのり顔を赤らめた。


  ──本っ当に分かりやすいんだから。


 彼女の反応に、恵里菜は癖のある前髪をいじりながら、少し考える。

 そして。机の上の佳穂のカバンを手に取ると、彼女に手渡して、こう言った。


「折角だし、マクドゥでも行こっか?」


 佳穂は知っている。

 恵里菜はこちらの不安や悩みを察すると、すぐにこうやってファーストフードに誘って話を聞いてくれることを。


「うん……」


 親友だからこその優しさを嬉しく思うと同時に、一抹の不安も感じながら、佳穂は頷いてみせた。


* * * * *


 上社駅かみやしろえき南口の駅前通りにあるファーストフード店『マックドゥナート』。

 夕方ともなると、学生達で賑わうスポットのひとつである。

 そんな店の二階。飲食スペースの一番奥の席で、二人は向かいあい座っていた。


「つまり、病院に宿題を届けてくれたお礼を言いそびれてる、ってこと?」

「うん……」


 恵里菜はストローを咥え、オレンジジュースを口にする。

 対する佳穂は、視線を合わさずうつむきながら、苦悩の表情を見せている。


「まあ佳穂の性格じゃ、最近の速水君に話しかけるのは難しいか」

「そりゃあ、友達に囲まれてる所に私がいきなり話しかけて、変に勘ぐらせても速水くんに悪いし……」

「別に勘ぐらせてやってもいいと思うけどなぁ」

「な、何言ってるのよ!」


 顔を紅潮させて焦ったように恵里菜を見る佳穂だが、という雰囲気は微塵みじんも感じられない。

 恵里菜はそんな彼女を見ながら、


  ──素直になっちゃえばいいのに。


 口にしてしまいたい一言を、オレンジジュースと共に飲みこんだ。


「で、どうするつもり?」

「いい考えがあったらこんなに悩んでないよ……」


 佳穂の困ったような返事は、恵里菜の想像の範疇はんちゅう


「速水君だったら、別にお礼言われなくても気にしないと思うよ?」


 彼女は鎌を掛けるようにそう言ってみた。

 それに対し、


「私はそれじゃ嫌なの」


 ちょっと不貞腐れながら否定する佳穂を見て、、と彼女なりに理解をした。


「じゃあもし私がふたりっきりにできる状況を作ったら、お礼言えたりする?」

「え?」


 別に悪気はないのだが、恵里菜はこれで佳穂の恋が進展するなら、とやる気を出しはじめていた。

 彼女には、既にが頭にある。それがどのような流れを生み、どのような結末に向かうのか。それを想像し、思わず悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべてしまう。


  ──多分これで乗ってくるはず!


 恵里菜は今までの佳穂との付き合いの中で、自分が背中を押せば、迷いながらも前進する答えを出す、と踏んでいたのだ。


 しかし。今回の佳穂は、そうすんなりとその判断には至れずにいた。

 そう。それこそが恵里菜に誘われた時に感じた一抹の不安。病院で見たあの夢が現実になることだった。


  ──あんなの速水君に迷惑だよ……。


 もし佳穂があの夢を見ていなければ、恵里菜の思い描く流れが現実になっていただろう。

 しかし佳穂はどうしても、あの時の夢のように掃除を二人でさせる行為は申し訳ないと強く感じていた。ただそれ以上に、あの展開通りになるのはかなり恥ずかしい、と思っていたのも事実なのだが。


「……なんか強引なのは嫌」


 珍しく不快感を隠そうともせず、はっきり否定する佳穂。

 予想外の答えに、恵里菜は思わず拍子抜けしてしまう。


  ──調子狂うなぁ。もしかして私が思っているのと違う理由がある?


 そう考えるも、その理由が分からない以上答えは出ない。何より恵里菜自身、佳穂が嫌なことを無理矢理させたいとは思っていなかった。

 仕方なく、元々考えていた『』はなかっとことにして、新たな質問を続ける。


「じゃあもし、自然に二人が話せる機会が少しでもあれば、佳穂は頑張れる?」


 ちょっと変わった言い回しだが、少し真面目な雰囲気で佳穂を見つめる恵里菜。

 その空気の違いを彼女も敏感に感じ取ったのだろう。


「そういう機会があれば、だけど……」


 そんな事あるわけない、と暗に否定しつつ、先程に比べるとまだ前向きな返事を佳穂は返す。それを聞いて恵里菜は自身に改めてゴーサインを出した。


「佳穂って、速水君がどんなバイトしてるか知ってる?」

「ううん。バイトをしてるっていうのは聞いたことあるけど、それだけ」


 佳穂は、突然の恵里菜の質問に首を振った。


「彼、喫茶店でウェイターしてるんだって」

「え? 恵里菜は何でそんな事知ってるの?」

「そりゃあ、私の情報網でね」


 驚きつつ理由を尋ねた佳穂に、恵里菜はニッコリとそう返した。

 彼女のという言い方は、誤ってはいないが語弊ごへいがある。何しろ、誰から聞いたかといえば、恵里菜が自分で雅騎に尋ねているからだ。

 何故そんな事をしたかといえば、「こういう時、役立つかもしれないから」と、恵里菜が佳穂のために行っていたからなのだが。


「で、私も友達と行ったことあるんだけど、下社駅しもやしろきから少し離れた住宅街の中にあって、あんまりお客さんも多くないんだよね」

「へ~」

「だ、か、ら!」


 突然佳穂に対し、恵里菜が身を乗り出し顔を近づけた。その威圧感に、思わず彼女は背もたれにしがみつくように後ずさりした。


「バイトのある日にその喫茶店に行ったら、速水君と話せるんじゃない?」

「えっ? でも、家が遠いのに行く理由って……」

「簡単簡単。あの喫茶店のケーキはどれも本当に美味しいから、そんな話を私から聞いたってことにすれば。ね?」


 戸惑いながら、多少否定的なことを口にする佳穂だったが、そんな駆け引きは社交的な恵里菜のほうが一枚上手。

 断りようがないごく自然な理由を提示し、笑顔でウィンクしてみせた。

 佳穂は動揺を隠すように目の前の紙コップを手にすると、ストローでミルクティをごくごくと飲みだす。


  ──夢よりは自然かもしれないけど……。


 自分にそれができるのか。そんな疑問が頭を駆け巡る。


「佳穂、今『私に出来るかな?』とか考えてるでしょ?」


 再びソファにもたれかかると、自信満々に恵里菜はそう口にした。

 佳穂は彼女の察しの良さを知っている。だからこそ、無理な否定は意味がない事も分かっている。


「う、うん……」


 佳穂は弱々しい返事を返しながらもじもじとしてしまう。


「大丈夫大丈夫。だいたいバイト中の相手を捕まえて長話なんてできないし、今回はきっかけを掴めればいいの」

「きっかけ?」

「そそ。私だって、ちゃ~んと佳穂の性格考えて作戦考えてるのよ」


 上目遣いに恵里菜を見つめる佳穂に、彼女はまたウィンクし、堂々とこう続けた。


「題して、!」

「……私、別に告白するわけじゃないんだけど」


 自信満々で恵里菜から作戦名を告げられると、佳穂はやっぱり、と大きく落胆し、失望のため息を漏らす。

 思わずの作戦名を口にしてしまった事に気づいた恵里菜は、瞬間しまった! と言わんばかりの冷や汗を掻きながら、


「じょ、冗談冗談。でも流れは同じようなもんだし。ね? ね? で、作戦はね──」


 自分のミスを隠すように、まくし立てながら作戦の概要を佳穂に伝え始めた。

 こうして、ファーストフードでの作戦会議は続くのであった。

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