第九話:彼との二人きりの時間

 六時限目の授業が終わり、皆が部活や委員会、そして学校を離れ自由な時間を謳歌おうかしようとする、そんな生徒達を阻む最後の壁。それが教室掃除である。


「しっかし。どういうことなんだ? 新手のイジメじゃなきゃいいけど。よっと」

「ごめんなさい……」

「綾摩さんは別に悪くないよ。気にしないで」


 雅騎と佳穂は、二人で学び舎とする神城高校かみしろこうこう一年E組の掃除を進めていた。

 雅騎が椅子を机に逆さに載せ、教室の後ろ側に運び、できたスペースを佳穂がほうき掛けしていく。

 普段であればこういう作業をクラスメイト六、七人で行う所だが、彼らは何故か、二人だけでそれを行なっていた。


 こんな状況を作ったのは、佳穂の中学時代からの親友である片谷かたや恵里菜えりな

 彼女が本人達に相談もなく「今日は日直である二人が教室掃除をしてくれるって!」という話を、二人以外の掃除担当に伝えたことがきっかけだった。


 勿論二人は突然のことに戸惑いを見せた。

 何も言えない佳穂に代わり、雅騎が恵里菜に抗議の声を上げるも。既に他の当番は帰ってしまった者もいる。結果として、二人は提案を受け入れるしかなかった。


「ちなみに、綾摩さんに心当たりはある?」

「え!? い、いえ……」


 佳穂を見ずに机を運びながら質問する雅騎に、彼女は短い言葉で否定する。

 が、それは嘘だ。

 恵里菜が去り際に


「ニッシッシッ。後は頑張ってね!」


 と、悪意のない笑みを浮かべ、耳元でそう囁き、去っていったことを、佳穂は知っているのだから。


  ──こんな無理やり二人っきりにされても……。


 佳穂は心の中で頭を抱え、無意識に大きなため息をいた。

 静かな教室内にいる者なら、充分耳に届く程の大きさで。


「……綾摩さん、大丈夫?」


 と、突然。雅騎が佳穂の俯いた顔を、ちょっと心配そうな表情で覗き込んでいたことに気づく。

 間近に彼の顔を見ることになった佳穂は、顔を一気に紅潮こうちょうさせ、同時にほうきを手放し驚いてしまった。

 自由となったほうきは、カツーンと心地よい音を立て、床に落ち、倒れる。


「もし疲れてたら、無理せず休んでいいからさ」


 そんな彼女の心情を知ってか知らずか。

 雅騎はそんな優しさを見せると、屈んでほうきを拾い、そのまま教室窓際の隅からほうき掛けを始めた。


  ──ど、どうしよう……。


 佳穂の心臓の鼓動が高鳴る。

 それは他の男子生徒には見せない反応だった。


 夕焼けに照らされながら、黙々とほうきを掛けている雅騎の後ろ姿。

 外では部活動が行われている──はずなのだが、その喧騒けんそうも、今の彼女の耳には入らない。


  ──今話せなかったらもうチャンスはないかも……。でも急にそんな話をしたら、速水君を困らせちゃうかな……。


 佳穂の心で勇気と恥ずかしさが葛藤する。

 それは時間としてはたった数秒の事。しかし彼女の中では本当に長い時間に感じられた。

 悩みに悩みぬいた末、佳穂はギュッと目をつぶると、


「速水君!」


 両手を胸の前で祈るように握り、力強く彼を呼んだ。


「え?」


 雅騎は突然の呼びかけに、思わず顔だけ佳穂に向ける。


「あの、私ね。速水君に聞いてほしい事があるの……」


 佳穂の決意を込めた言葉は、台詞が進むにつれ少しずつ声がか細くなっていく。

 しかし、その言葉に必死の訴えがあることは伝わったのだろう。雅騎はゆっくりと彼女の方に向き直った。


 二人を包む静寂。


「あのね。私……実は、速水君のこと……」


 その沈黙を破るように、勇気を振り絞り佳穂が静かにそう語り始めた、その瞬間。


  ガラガラ!


「佳穂、いるか~?」


 勢いよくドアが開き、自分を呼ぶ少女の声が部屋の中に響いた。


* * * * *


 突然の来訪者に、思わずベッドから飛び起きる佳穂。


「御影。もう少し静かに入りなさい」

「良いではないか。別に大声を出しているわけでもなし」


 ドアの向こうから現れたのは御影と霧華。

 そう。今いる場所は教室ではなく病室。勿論、雅騎の姿などない。


  ──夢、かぁ……。


 佳穂は安心したような、しかし残念なような複雑な気持ちで、夢同様に無意識に大きなため息をいた。

 これまた、彼女達の耳に届くに充分過ぎる程の大きさで。


「ん? どうしたのだ? ため息などいて」

「う、ううん。なんでもないの」

「その割に少し顔が赤いようだけど……熱でもあるのかしら?」

「え!?」


 霧華の指摘にふと、先程見ていた夢が脳裏をよぎる。

 雅騎と二人っきりでいた教室。目の前で見た彼の顔。

 そして何を間違ったのか。まるで告白を連想させるような台詞を口にした自分。

 思い返して恥ずかしさがぶり返した佳穂は、


「そう……かも……」


 と呟くと、ベッドに勢いよく寝転がり布団を頭から被ってしまう。

 そんな佳穂の不可思議な行動に、御影と霧華はきょとんとして顔を見合わせた。


* * * * *


「はい」

「ありがとう」


 霧華が買ってきてくれたお茶のペットボトルを手に取ると、佳穂はベッドの上でまた上半身を起こし、それをゆっくり口にした。

 二人が買い物に行っている間に少し頭が冷えた佳穂は、既に普段の顔色に戻っていた。

 霧華はベッドの脇に用意されたパイプ椅子に、御影は佳穂のいるベッドの足元側にそれぞれ腰を下ろす。


「少しは落ち着いたか?」

「うん。お陰様で」


 御影の心配そうな顔に、佳穂は笑顔で返す。


「しかし、佳穂が学校の授業の事で知恵熱というのも珍しいな」

「そ、そんな事ないよ。こういう妙に時間を持て余しちゃってる時って、結構勉強の事も考えてるし……」

「折角勉強から解放されているのだ。そんなこと考えずともよいのに」


 先程の夢の事など、当然二人に話せるものではない。

 結局佳穂は二人に嘘を付き、その場を凌いでいた。そのごまかそうとする台詞に多少不自然さはあったが、特に二人もそれを気にしなかったのだろう。他愛もない会話として流されていった。


「しかし我々もこれだけ元気なのだ。もう退院させてくれても良いと思うのだが」


 足をブランブランとしながら、つまらなそうに御影が声を上げる。


「そういう訳にもいかないわよ。大体貴女を自由にさせたら、怪我も関係なしにすぐに遊び回るだけでしょう?」


 対する霧華は視線を向けることもなく、自室から持ち込んだ小説を開くと、眼鏡の位置を直し、静かに読み始めた。


「その言葉は心外だな。私は早く退院して稽古をしたいだけだ」

「その割に、最近は毎日サンディワンのミントアイスの事ばかり口にしてるじゃない」

「あれは私にとっては大事な命の素なのだ! うぅ……思い出すだけでもヨダレが……」


 想像しただけで、恍惚の表情の御影。そんな彼女を見て佳穂は思わず苦笑した。


 ──三人が入院してから四日。

 エルフィが合間に三人の怪我を治癒してくれたのもあるが、やはり若さがそうさせるのだろう。医者が驚くほどに早い回復を見せていた。

 ただ各々の親や組織の意向もあり、全員一週間程度入院となったため、未だに彼女達は病院という名の牢獄に囚われていた。


 入院生活とは、長くなるほどにその辛さが増すものだ。

 決して美味しいわけではない食事。施設内に楽しめる遊技場があるわけでもない。

 定期的にただ検査を繰り返しては、院内を歩き回るだけの日々。

 そして夜の消灯時間の早さもまた、彼女達の活動を制限し、ひたすらな退屈を提供していた。


  コンコン


 と、そんな退屈を紛らわすような、ドアをノックする音がした。

 自然と三人の視線がすっとそちらに注がれる。


「はい」


 佳穂の返事に静かにドアが開かれると、


「こんにちは」


 三人にとって見慣れた顔が姿を現した。


「あら」

「雅騎ではないか」

「は、速水君!?」


 突然の来訪者に、各々個性的な表情で相手を出迎える。

 呼びかけられた当人もまた、三人それぞれに視線を向けると少し驚きの表情を見せた。


「あれ? 三人は知り合いだったのか」

「そうね。それより何の用? わざわざ私達の見舞いにでも来てくれたのかしら?」


 どことなく棘のある言い回しに苦笑しつつ、雅騎はベッドの端に自身の学生カバンを下ろした。


「まあそれもあるけど……っと」


 カバン開けゴソゴソと何か漁り出すと、そこからノートより一回り大きな封筒をみっつ引っ張り出した。

 それぞれの封筒には、三人の氏名が達筆にしるされている。


「皆のクラスの担任が揃って『お前三人と面識あるだろ』って、これ届けるよう頼まれてさ。これが御影のだろ。で、こっちが如月さんの」


 雅騎はそれぞれの封筒を二人に手渡した。

 霧華は読んでいた小説を一度閉じ膝に置くと、静かにその封筒を受け取る。

 取り出し口から中を一瞥し中身を確認すると、特に表情も変えずそのまま脇の空いたパイプ椅子に置き、また読書を再開した。

 霧華のリアクションを見て、中身を何となく察したのだろう。


「……やはり、なのか?」

「あら。暇を持て余したんでしょ? 丁度いい暇つぶしになるじゃない」


 封筒を受け取りゲンナリした表情の御影に、霧華は意地悪にそう返す。

 恐る恐る中身を取り出した御影は「うわぁ……」と見てはいけないものを見るような目でそれを出迎えた。

 そこには宿と銘打ったプリントと、それを筆記するノートや教科書が入っていた。


「あ、教科書は後で返せって先生が言ってた。あとノートはみんなのクラスの人達が授業のを取ってくれたやつ」

「丸ごとなかったことにしたいんだが……」

「諦めなって」


 予想が当たり叫び出したい気持ちを抑える御影に、雅騎はまるで旧知の仲を感じさせる程、ざっくばらんにそんな言葉を返した。


「あとこれが綾摩さ、ん?」


 そして最後の封筒を佳穂に手渡そうとして、雅騎は一瞬首を傾げた。

 彼女は突然ベッドに横になると、またも布団を頭からかぶり、背を向けたからだ。


「その辺に、置いといてくれる?」

「あ、うん」


 普段と異なるぶっきらぼうな態度に雅騎は少し戸惑う。そして同じく、それを不思議そうに御影と霧華も見ていた。


  ──なんでこんな時に速水君が来ちゃうの!?


 布団の中の佳穂はといえば、やはりというべきか。赤面し露骨に恥ずかしさを表情に出し、顔を両手で覆いながら戸惑っていた。

 今しがた見たばかりの夢が、脳内で駆け巡る。


  ──うぅ、速水君に嫌な思いさせちゃう……。


 恥ずかしさと同時に、この行動が彼に不快な思いをさせてしまうのでは? という後悔がよぎる。しかし、今のまま彼の前に姿を晒すのは、彼女の勇気を持ってしても無理な相談だ。


「……今日はまだちょっと具合が悪いみたいなの。枕元にでも置いてあげて」


 何かを察したのか。霧華は視線を小説に戻しつつ、助け舟を出した。


「あ、そうか。それじゃあまり長居しても悪いな」


 それに気づかなかったことに落ち度を感じ、雅騎は指示された場所に封筒を置くと、さっとカバンを閉じ手に持った。


「何はともあれ、三人とも無事で良かったよ。お大事に」

「次来るときにはサンディワンのミントアイスを忘れるでないぞ」

「怪我人が何言ってるんだよ」


 欲望丸出しの言葉を返す御影に、彼は思わず呆れてみせた。

 そして、そんな軽快な会話を済ませ、部屋を出ようとした矢先。


「そんな貴方も随分傷だらけじゃない」


 相変わらず視線を合わせない霧華がふと、そんな声を掛ける。

 そう。彼の顔には治りかけの引っかかれたような大きめの生傷や、目立つ頬の絆創膏など、幾つもの痛々しい傷が存在したのだ。

 それは同じ戦いを経験していた三人と比べても、傷の癒えが悪い。


「これ? ああ。ちょっと自転車に乗ってたら人とぶつかりそうになって、転んじゃってさ」


 霧華に視線だけ向けると、苦笑しながら頭を掻く雅騎。

 彼女は声を掛けておきながらも、実はあまり答えに興味が沸かなかったのか。「そう」と一言だけ素っ気なく返す。

 が、この雅騎の返事に疑問を呈したのは御影だった。


「お前がそんなドジを踏むとは思えぬが」


 御影は首を傾げると、まじまじと雅騎をじっと見つめた。


「そりゃ塀で見えない脇道から急に飛び出されたら、俺だって避けるので精一杯だって」

「まったく。それくらいちゃちゃっと避けぬか」

「無茶言うなって」


 雅騎は苦笑したまま頭をくしゃくしゃ掻くと、廊下に歩み出た後に笑顔で振り返った。


「みんなお大事に。綾摩さんもあまり無理せずにね」

「うん……。ありがとう」

「いいか、次はサンディワンのミントだぞ!」

「はいはい。ったく……」


 霧華以外が言葉を交わし終えると、雅騎は静かにドアを閉めた。

 遠ざかる足音。それが聞こえなくなり少しの間病室を静寂が支配する。

 そんな静けさを破るように、パタンと霧華が読んでいた本を閉じた。


「御影も佳穂も、彼と知り合いなの?」


 問いかけに反応し佳穂は布団から顔を出すと、ベッドに寝たまま霧華に向き直る。


「うん。同じ一年E組。御影は?」

「勿論だ。あいつは私の幼馴染だからな」

「霧華も速水君を知ってるの?」


 佳穂もまた、霧華に同じく問いかけた。


「一応ね。同じ図書委員だから」

「そういえば速水君、って理由で強引に推薦されてたっけ……」


 つい一ヶ月ほど前のホームルームでの出来事を思い出し、佳穂は納得した表情を浮かべる。


「そういう意味では私が一番雅騎に詳しい、というわけだな」


 御影は何故かだと露骨に強調してみせた。

 霧華にとって全く意味をなさない張り合い。普段ならそこで呆れ顔の一つでも浮かべるのだが、彼女は目線を床に落とし、沈黙したまま動かない。


「どうかしたのか?」


 いつものような返しが来ないことに違和感を感じ、御影が霧華に問いかける。

 だが、それに反応はない。

 しばし沈黙を味方につけていた霧華だが、少しして静かに顔を上げた。


「ねえ。彼ってどんな人なの?」

「どんな人、だと?」

「ええ」


 まるで、戦いの事を語るときのような真剣な眼差しで御影を見る霧華。

 その横顔を見て、佳穂はふと、自身が思う最悪の展開を想像した。


  ──速水君が助けてくれたって疑ってる?


 怪我のことを質問し、彼の素性を聞き出そうとする霧華。それは普段、男子に興味を示さない彼女からは考えられない行動だった。それ故の違和感が、佳穂の気持ちをそわそわさせる。


 どうすればいいのか。彼女は思案するも良案が浮かばず何も言えずにいたのだが……こんな状況で一人、察しの悪い勘違いを始める者がいた。


「あ、あいつか? そうだな……。色々と皮肉も多いし、私を女扱いしようともしないが、根は良い奴だぞ。あの時だって、その、あの……」


 霧華の質問の意図に沿っているのかいないのか。

 御影は珍しく、彼女なりに言葉を選び話し始めた。しかし、先に行くにつれ、歯切れが悪くなる。よく見れば顔も真っ赤だ。


 察しの良い相手であれば、この言葉で彼女の心情を読み解ける者もいただろう。しかしあの衝撃的な戦いを経験した後という特殊な状況が、各々の思惑おもわくにズレを生んでいた。


  ──御影もドラゴンとの戦いのこと……。


 思い出したのかと勘違いした佳穂は、思わず「あの時?」と霧華より先に確認しようとした。

 彼女からの確認は予想外だったのか。その一言は御影の戸惑いを加速させた。


「う、うむ。幼い時に、ちょっと、色々な……」


 急にもじもじとしながら、恥ずかしそうな態度で言葉を濁す御影。


 ちょっと不可思議なリアクションに首を傾げつつも、佳穂は彼女の言葉から自身の予想が外れたことを知り、内心ほっとしていた。

 安心感から、それ以上御影への言及はしなかったのだが……それを許さない相手がもう一人そこにいる事を忘れてはならない。


「色々って?」


 表情は変えず、御影を見つめたままなのは霧華だ。

 その眼差しは、まるで犯人を追い詰める刑事のような真剣さだ。


「色々というのは、その、だな……」


 妙に自慢げだった割に、いざそう問われると恥ずかしい出来事だったのか。それとも、本人が予想しない相手からの追及に、心の準備ができておらず戸惑ったのか。

 そんな御影の動揺を見て、佳穂も流石に不憫ふびんに感じたのだろう。


「霧華。御影だって話したくないこともあるだろうし……」


 霧華を諭すようにそう声をかける佳穂。その言葉で彼女の真剣な眼差しが僅かに揺らいだ。


「あら、ごめんなさい。あまりに自信満々にしていたからつい、ね」


 素直に──は謝らず、ちょっと皮肉を入れるあたりは相変わらず。だが、普段と違い御影はそれに言い返せず「すまん……」と短く謝るのが精一杯だった。

 対する霧華も普段ならその反応にため息ひとつくところだが、今回はそんな反応を見せることなく、再び御影に向き直った。


「じゃあ最後にひとつだけ教えて。彼、名字が変わったりしたことはある?」


 新たな質問。

 それは佳穂も御影も、意図が理解できずきょとんとした。


 名字が変わる。これは大体の場合、親が意図して改姓するか、それこそ離婚でもするような、やむを得ない事情でもないと起こらないものだ。


  ──こんな質問、あの日の事で疑ってたら、出てこないよね……。


 質問の内容から懸念していた霧華への疑いも晴れた。しかし同時に、佳穂に新たな疑問が浮かぶ。


「どうしてそんなこと?」


 佳穂はその疑問を素直に霧華に尋ねてみる。だが、


「ちょっと、ね。」


 霧華は珍しく回答を濁した。

 普段なら御影が先程の仕返し、とばかりにここで追従して理由を聞こうとするところかもしれない。

 しかし、真剣な霧華の表情と、突拍子もないその質問に混乱している今は、その言葉を返すことすら頭に浮かばない。


「で、変わったりしたことある?」

「……すまん。その質問に答えられるとすれば、ということだけだ」

「どちらの可能性も、ある?」


 不可思議な回答に霧華は一瞬首を傾げた。それに対し御影は小さく頷く。


「幼い頃には、名前しか教えてくれなかったのだ」

「名前だけ?」

「うむ。と言っていたな」


 度重なる霧華の疑問に対し、御影は過去を振り返りながら答えた。


「でも、幼馴染なんでしょう?」

「幼馴染と言っても我が家に来るだけの間柄だったからな。それに途中であいつは引っ越してしまい、再会したのも最近だ」

「じゃあ再会した時、どうやって彼だと気づいたの?」


 どこかいびつにも感じる幼馴染の関係に、佳穂は思わず矢継ぎ早に質問を投げかける。

 その言葉に、御影はまたも少し恥ずかしげな素振りを見せた。


「それは、その……のだ……」

……って、家に?」

「うむ。元々我が家が神社なのは知っておろう? 雅騎も神城高校かみしろこうこうに通うことになって近くに引っ越してきたらしいのだが、その時に懐かしさで神社に足を運んでくれたのだ」


 まるで恋人同士の馴れ初めを話す乙女のような、初々しい照れっぷりを見せる御影。

 だが、


「……それは別に、彼が御影に会いに来たわけではないと思うのだけど」


 霧華の冷静な一言が、そんな彼女の妄想を打ち砕く。


「う、うるさい!」


 思わずカッとなり御影は叫ぶ。だがそれ以上の言葉は発さず俯いてしまった。

 そんな彼女を見て、霧華は軽くふぅ、とひとつ息を吐いた。


「つまり。昔は名前しか知らなかったけど、再会して名字も教えてもらえた、って事よね」

「そうだ」

「それだけでも充分よ。ありがとう」


 珍しく素直に霧華に礼を言われ、御影は毒気どっけを抜かれた顔をしてしまう。

 そんな彼女の表情を見て「この話題は終了」と言わんばかりに軽く笑みを浮かべると、霧華はこう続けた。


「さて。じゃあそろそろ宿題でもやりましょうか」

「そ、それは嫌だぁぁぁっ!!」


 すっかり忘れていたその存在を突然叩きつけられ、病室内に御影の絶叫が響く。

 結果、そこから数時間、御影は苦行となる時間を過ごすことになった。

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