第八話:叶いし想いと変わらぬ悩み
涙に濡れる佳穂。呆然とするエルフィ。そして、豪炎に包まれた雅騎。
絶望しかないその記憶。だが、佳穂はその悲劇から目を背けることもできずにいた。
──そう。彼女は忘れていた。
これは、エルフィの記憶の世界であることを。
彼の居た場所に燃え広がっていた業火の壁が、雨の力で少しずつ弱まっていく。そして──。
『まさか!?』
──速水君!!
佳穂もエルフィも同時に、驚きと歓喜の入り混じった声を上げた。
炎の壁の内側で、片膝を突いた態勢のまま、雅騎は左腕を前に突き出し、複雑な模様が描かれた青白い半球状の障壁を展開していたのだ。
「はぁ……はぁ……」
苦しそうな表情のまま、荒い呼吸を続ける雅騎。それは決して無事だったとは言い難い劣勢さを、未だ匂わせている。
しかしドラゴンは違う。己の攻撃を受け止め、相手が無事だった事実にたじろぎ、一、二歩後ずさりしてみせた。
雅騎はその好機を見逃さない。
「間に合っちまえば……」
膝を突いた状態で左手を前にしたまま、右手で弓を引き絞るような動きを取る。それに合わせるように、障壁が細い光へと変化していく。
そして。完全にそれが光の矢となったところで、
「こっちのもんだ!!」
雅騎は左腕を高く、ドラゴンの上空に向け狙いを定めると、その矢を撃ち放った。
釣られて空を見上げたドラゴンが次に見たもの。それは矢が突如弾け、無数の小さな光弾となって自身に降り注ぐ光景だった。
光弾がドラゴンの全身に着弾していく。が、ドラゴンがそれに怯む
しかし次の瞬間、光弾を受けた身体の至る所が、ふわりと発光した。
そう。それは先程己の身を削りながら、雅騎が素手で攻撃を当てていったが、効果がなかったはずの箇所。
そして刹那。静電気のような、ほんの小さな電撃が、走る。
「チェック、メイトだ」
静かに、独り言のように呟く雅騎。
そしてその合図を待っていたかのように──。
ズゴォォォォォォォォォォォン!!!
天から突然、巨大な稲妻がドラゴンに落ちた。
耳をつんざく雷鳴と激しい閃光。そして衝撃で生まれた強風。
『きゃぁぁぁぁっ!!』
エルフィは思わず腕で頭を庇い、身をかがめて風を耐え凌ぐ。
ギャオォォォォォォォッ!!
同時に発せられたドラゴンの断末魔。
腕の隙間から目を凝らし、相手を見るエルフィ。そこには身に落雷を受け、発光した箇所を繋ぐように帯電した稲妻が、ドラゴンを包み込んでいる姿があった。
数十秒間は帯電し続けていたであろうか。
それが消えた頃。ドラゴンは立ったまま放心し、身体の半数が焼け、焦げ臭い煙を発していた。
そして──。
意識を失ったドラゴンは、巨体を支えられずゆっくりとその場に倒れ伏した。
倒れて数秒。ゆっくりとドラゴンの身体は白き光に変化し始める。そして、まるで集まっていたホタルが散り散りになるように、ゆらゆらと小さな光が無数に広がり、ドラゴンはその形状を失っていく。
最後に残ったのは、暗闇に包まれた雅騎達と、降り続く雨。
気づけば、公園を包んでいた炎もほぼ鎮火していた。
「はぁ……はぁ……」
雅騎は大きく肩で息をしながらゆっくりと立ち上がると、エルフィ達の方へ振り返り、静かに歩きだす。
──速水君……。
ずぶ濡れの彼を、佳穂は心配そうに見つめる。
外灯に照らされた雅騎の表情はかなり険しく、息もかなり荒い。
足取りは重く、たまにふらついているものの、倒れることはなく、雅騎は何とか皆のもとに帰還した。
『大丈夫、なのですか?』
「勿論」
エルフィがゆっくり立ち上がると、彼の姿を見る。
無理やり笑顔を見せる雅騎。だが、
『……そんな風には見えません』
彼女はその言葉と表情を、良しとはできなかった。
──本当に辛そう……。
青ざめた顔色に、力なく半開きの目が、露骨に疲労感を感じさせる。
二人の目から見ても、彼の表情が空元気だというのは一目瞭然。
だが、そんな心配そうな雰囲気にも、雅騎は意に介す素振りは見せなかった。
「それより、謝らないと」
『え?』
「こんな時期に、皆をずぶ濡れにさせちゃってさ」
突然話の矛先を変え、逆に申し訳なさそうにエルフィと三人を順番に見る雅騎。
確かに彼女達は、既に雨でずぶ濡れになっていた。
先程まで業火で暑すぎる位だった空気も、炎が消えた今、一気に肌寒さが増してきている。
「で。謝りついでにもうひとつ。許してほしいことがあるんだけど」
雅騎は大きく深呼吸した後、エルフィを真剣な眼差しで見つめた。
『なん、でしょうか?』
何を言うのか見当がつかないエルフィが迷いながら問い返すと、彼は決意を秘めた目でこう言った。
「彼女達の、記憶を消したい」
『え?』
「勿論全部とは言わない。俺に助けられてから意識を失うまでの間だけでいいんだ」
──そういえば。何故そんな……。
佳穂と同じ疑問が浮かんだのだろう。彼女の言葉を代弁するかのように、エルフィは『何故なのですか?』と尋ねた。
「偶然出会っただけなのに、御影は驚き過ぎなんだよ」
雨で濡れる額を拭いもせず、静かに雅騎はそう言い、苦笑する。
「あんな反応されたら、自分達に出会うはずがないって言ってるようなもんでさ」
雅騎はため息をひとつ
「つまり。ここで
雅騎の口から語られた推測。それは紛れもない事実である。
エルフィは彼の回答に少しの間沈黙し、事実を伏せるか迷う。だが、隠し通すのは難しいと観念したのか、小さく頷いた。
「だよなぁ。御影はそういうの誤魔化すの下手なんだよ」
彼は頭を掻きながら、またも苦笑すると。
『確かに』と思ったのか。エルフィも一瞬『フフッ』っと笑い声を漏らす。
そして、彼女は雅騎から目を逸らすように
『……本心を言うならば、私は三人の記憶を消されたくはありません』
やや淋しげな声で否定的な言葉を呟くエルフィ。
だが、同時にその言葉は彼の行動に対する肯定が含まれている。それを察したのか。雅騎は彼女に頭を下げた。
「ありがとう」
『いいえ。
「雅騎でいいよ」
『では。
「……分かった」
エルフィが口にする素直な言葉に気恥ずかしくなったのか。彼は目線を逸すとその場にしゃがみ込む。
そして傍らに倒れている御影の頭に手を当て、静かに目を閉じた。
柔らかなオレンジの光が
そんな中。エルフィは祈るように両手を胸の前で組むと、何か呪文を詠唱し始めた。
刹那。頭上数メートル上に光の点が現れると、みるみるうちに
ドーム内の空気が心地よい温かさに包まれる。見れば、雨粒はドームに当たると、そのまま皆を避けるかのように、表面を流れていく。
「……辛くない?」
雅騎は目を閉じたまま、心配そうに声を掛ける。
しかしそれは
『辛くないといえば嘘になります。ですが、それはお互い様でしょう?』
「ごめん。助かるよ」
彼女を見ることなく術を続けつつも、雅騎はふっと
術を行使する彼を見ながら。
『申し訳ございません。本当は素直に感謝しなければいけないというのに……』
彼女は憂いのある声でそう口にする。
だが。
「いや。恨んでいいんだよ」
彼が返した言葉は予想外のものだった。
彼女の動揺を知ってか知らずか。雅騎はただ淡々と話を続ける。
「エルフィに記憶があっても、周りはそれを知らない。
『……
「そういうこと。でもそれはエルフィにとって、きっと辛くなる時がくる。だから、エルフィは俺を恨んだっていいんだよ」
表情は変えず、彼は犯した罪を天使に懺悔し、己を責めた。
短い沈黙。雨の音だけがしとしとと、二人の耳に届く。
と。雅騎の
彼はふうっとため息を
「結局、全部俺の
申し訳無さそうに、小さく苦笑した。
戦いを終えてしばらく経ち。多少落ち着いたとはいえ、雅騎の息は未だ荒い。
それでも彼なりの強がりか。苦しむ素振りだけは見せようとしない。
息を整えるように大きく深呼吸した後、彼は屈んだまま霧華の側に移り、静かに目を閉じると再び術を掛け始める。
『では。
自身の術が安定したのを見届けたエルフィは、突然彼女らしからぬ言葉を口にした。
「ん?」
雅騎は思わず声をあげるが、彼女は気に留めず話を続ける。
『貴方は己が罪を背負うと分かっていてなお、
無罪判決を下す天使の言葉に、雅騎は少しはにかんだ。
「エルフィは、やっぱり優しいな」
それを聞いた彼女は、またも口にされた彼のストレートな言葉に恥ずかしさを覚えたのか。僅かに視線を逸す。
二人の間に気まずい沈黙が漂う。そんな空気が我慢できなかったのだろうか。先に口を開いたのは雅騎だった。
「まあ、記憶がなくなるわけじゃないさ」
『え?』
突然の告白に、エルフィは驚きを禁じ得ない。
「人の記憶をいじるのって、言うほど簡単じゃない。だから消すって言っても、実際は記憶の奥底に封印するようなもんなのさ」
『そう、なのですか?』
「ああ。勿論
雅騎は何を思ったのか。急に己の術について淡々と語る。
急な展開にただ呆然と彼を見るエルフィだったが、
──速水君は、分かってたんだ……。
彼女がその時察することができなかった意味を、佳穂は思い出した記憶と共に、感じ取っていた。
雅騎が佳穂達を眠らせた時、まだ戦えると
屋上で皆と話していた時、自らも記憶がないと偽り。
何者かの介入に対し、雅騎を連想させないような推測をし。
そして。佳穂が記憶のことで悩む姿に、決意した表情で
今思い返せば、エルフィのそれらの行動には一貫性があった。
行動の元を辿れば、結局彼女は真面目で、優しく、やはり佳穂がとても大事なのだ。
──だから、もしもの時の可能性を、残してくれたんだ……。
佳穂の記憶を取り戻そうとすると、雅騎は分かっていた。だからこそ、わざわざ掛けた術について語ってくれた。
そんな彼の優しさを感じ、佳穂の胸が熱くなる。
『何故、そんな事を話してくださるのですか?』
佳穂と違い、まだその理由に気づいていないエルフィは、思わず雅騎に問い返す。
それに対し、彼はすぐに言葉を返さない。
少しして、手から放たれていた光がゆっくりと消える。それは霧華への術を終えた証拠。
荒い呼吸のまま、雅騎はふっとエルフィを見た。
「信じてくれたんでしょ? だったら得体の知れない術だって、不安にさせても可哀想だしさ」
疲労感をごまかすように、雅騎は軽く頬を掻く。
その言葉に何も言い返せないエルフィを他所に、彼はそのまま最後の相手、佳穂に歩み寄り、術をかけ始めた。
そこから数分の間、二人はただ沈黙と共にあった。雨と暗闇は依然二人を包んでいたが、その雨もほとんど止みかけている。
「……ふぅ」
何かの合図のように、雅騎が息を大きく
『……終わったのですね』
「ああ」
雅騎は
『雅騎!?』
「大丈夫、だって」
『……』
前かがみになりつつ、何とか踏ん張った雅騎は、顔だけ上げ、疲れた笑みを浮かべた。
改めて見れば、雅騎も佳穂達同様に満身創痍の状態。
しかし、それでも意地で苦しそうな表情を隠そうと務めている。佳穂にはそう映っていた。
「悪いけど、後は頼むね」
『はい……』
雅騎の言葉に、エルフィはやや覇気なく返事をすると、
彼女の表情から何かを察したのか。彼は困り顔でまた頬を掻いた。
「無理はしなくていいよ。俺との約束なんて口約束──」
『いえ。そうではありません』
「えっ?」
小さく驚く雅騎に、エルフィは大きく深呼吸すると、ゆっくり顔を上げ、
『ありがとうございます。雅騎』
今まで口にできなかった感謝の言葉と共に、深々と頭を下げた。
──ありがとう、速水君……。
そして佳穂もまた、同じように心で感謝する。
面と向かってそんなことを言われた雅騎は、頭を軽くくしゃくしゃと掻き、照れを誤魔化すと、
「それじゃ」
ゆっくりと踵を返し、公園の出口に向け静かに歩き出した。
そんな彼の後姿をエルフィの視線が追う。
彼の姿が街灯の明かりから外れると、暗闇にゆっくり溶け、消えた。
そして、次の瞬間。
エルフィの視界が急に細くなると、そのまま何も見えなくなり、ばさりという音が耳に届いた。そして佳穂もまた、一気に眠気に近い感覚に襲われると、そのまま意識を失った。
* * * * *
それからしばらくして。佳穂はゆっくりと
目に映ったのは、窓から差し込む街灯の淡い明かりのみで照らされた、薄暗い病室の天井。
「エルフィ?」
『目が覚めましたか?』
その声に反応し佳穂が顔を向けると、ベッドの脇に腰掛けたまま、ほっとした表情で出迎えるエルフィの姿があった。
「今何時?」
『二時半ですね』
「……案外寝てたんだね」
『そうですね』
エルフィは佳穂の顔色を伺う。
彼女はまだ目覚めたばかりで、やや夢心地のようだ。
『……どうでしたか?』
彼女の問いかけに、佳穂は
「うん。思い出せたよ」
『そうですか』
エルフィは自らが望んだ結果になったことに、心底嬉しそうな笑みを浮かべた。
だが、対象的に佳穂は少し表情を曇らせる。
「ごめんね、エルフィ。いっぱい辛い思いさせちゃったね」
が、そんな彼女に、エルフィは笑顔を絶やすことはない。
『よいのですよ。私が選んだ選択です』
「でも、今もちょっと辛いでしょ?」
『……そう、ですね』
エルフィは素直に、やや悲しげな表情を浮かべた。
どんな理由であれ雅騎との約束を
「多分、だけど……」
『はい』
「速水君は、エルフィを責めないと思う」
『そう、でしょうか?』
「うん。だって、あんなに私達に優しくしてくれたんだもん。だから大丈夫!」
半信半疑なエルフィに、佳穂は逆に自信ありげな笑顔を向けた。
根拠は自身の想いだけであり、それは楽観的推測にすぎない。だが、相変わらずそれを微塵も感じさせない程、彼女は笑顔を見せている。
そんな佳穂の励ましの言葉に、エルフィの心苦しさが少し和らいだ。
「それに。もしエルフィが責められたら私も一緒に謝るから。だから心配しなくても大丈夫だよ」
『……佳穂は優しいのですね』
「でしょ? でもそれはお互い様」
太陽のような笑顔の彼女に、釣られてエルフィも笑みを浮かべる。
『やはり、雅騎にお礼を言おうと考えているのですか?』
「うん。ただ……」
佳穂はエルフィの問いかけに、少し真面目な表情をする。
「霧華と御影には秘密にしたい、かな」
『私も、同じことを考えていました』
「せっかく私達のためにしてくれたんだもんね!」
『そうですね』
二人はほぼ同時に頷く。
お互いが経験し感じた事から生まれた、彼への信頼。それを二人は共有し理解したからこそ、これ以上雅騎に迷惑をかけまいと心に決めた。
何はともあれ。佳穂の記憶が無事戻り、エルフィは肩の荷をひとつ下ろすことができたのだ。
──これで佳穂も、悩まずに済みますね。
無事終わったと安堵した、その時。
「あっ……ああっ!!」
突如、佳穂は急に取り乱すように頭を抱え、奇声を上げた。
困惑を強く
──まさか、記憶の
最悪の事態が起こってしまったのか。
急激に押し寄せる緊張感に、思わずエルフィは彼女の名を叫ぼうとした。
と、その瞬間。
「どうしようエルフィ!」
先に呼びかけたのは佳穂だった。エルフィを見あげるその表情は、今にも泣きだしそうな顔をしている。
『ど、どうしたのですか!?』
予想外の反応に、どうしていいか分からず戸惑いながら問いかけるエルフィ。
そんな彼女に向け、佳穂から次に放たれた一言は、また新たな悩みをエルフィにもたらした。
「どうやって速水君と二人っきりになったらいいの!?」
そう。彼女達の悩みはまだまだ尽きないのである。
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