第2話 認めるということ

 私には抜毛癖がある。文字通り、自分の毛を抜いてしまう癖だ。最近はトリコチロマニアとも言うらしい。少し前に有名番組に心の病気として取り上げられ、それを聞いた私は、ああやっぱり病気の一種なのか、私は病気だったのかと、やっと胸を撫で下ろした。

 勿論、病気だなんて事は、とっくの昔に知っていた。 

 このインターネット社会で、スマホやパソコンの検索欄は、あちこちの本屋を巡るより専門書を開くより早く、印象的な情報だけを提示してくれる。毛を抜く、毛を食べる、その他思いつくままキーワードを検索欄に打ち込んで、リンクを踏んで、あらゆるページに飛んだ。

 抜毛癖とは、抜毛症とはを解説している医療系ホームページ、症状と向き合う患者達の掲示板、頭の大部分が禿げてしまった女の子の画像。見れば見るほど、仲間を見つけた安心感に酔い、己の精神力に頼るしか無い治療法に絶望した。

 抜かないよう、タオルや帽子を被るのも有効です、なんて。

 カウンセリングを受けましょう、なんて。

 提示されるのは、症状を緩和する、抑える方法ばかり。特効薬なんてものは無い。地道に自分と向き合っていくしかなかった。

 私はタオルや帽子を被った。カウンセリングに行って、一年近く様々な検査をした。タオルや帽子は物理的に効果があったが、続かなかった。カウンセリングはカウンセリングの域を出ず、ただの自己分析に終わったが、それはそれで自分との向き合い方を考える良い機会になった。

 しかし、今の私はやっぱり、時々髪を抜いてしまうのだ。

 心の傷や不調は、どう治して、どう確認したら良いんだろう。手探りさえ出来ない。心の領域に手のひらは突っ込めない。どんな精密機械も入らないから、データやグラフなんかの細かな分析結果が出ない。

 目に見える形で示してくれない、心の不調。

 今、どれくらい辛いの? 心に何度も問いかけても、分からないとしか答えてくれない。お腹が底の方でググッと縮まる感覚があるのは分かる。喉は勝手に締まって呼吸をやめるし、目玉は張り詰めて落っこちそうになる。頭の中で言葉が生まれては次の瞬間には死んでいく。感情や何かを表そうとする機能がショートする。そして残るのは、息苦しさと熱っぽくなった鼻先と目頭だけだ。

 しかし、それがピークの瞬間でもある。涙が出て鼻水が垂れる頃には、頭は冷静になっているのが常だ。そうか、そうか、私はこれが辛かったんだな、あれが嫌だったんだなと認めて、ようやく心の状態を確認出来た気がしてくる。

 結局の所、自分の心の中が一番、理解不能な化け物なのだ。

 自分は自分に嘘をつく。いや、もうどちらが嘘で真実なのかも分からない。どちらが『正しい自分』かなんて見分けが付かないほど、私の心は揺らぐし落ち着かない。ここまで来ると、もはや見分けようとすること自体が不毛に思えてくる。どちらを取っても、自分が納得しないからだ。

 私が私の心に出来ることは、分析では無く、選択では無く、『認める』事だけだ。

 自分を罪悪感で押しつぶしてしまうより、髪を抜く自分を否定するより、私はまず今の状態を認めてしまおうと思った。

 髪を抜くことは、罪では無い。少なくとも、法律違反にはあたらない。

 なら、それで良い。

 世の中、便利な物がいくらでもある。ウィッグだって様々な種類があって、それらを使えばお洒落なんていくらでも出来る。

 なら、それで良い。

 こう結論づけた訳だが、決して自分に『髪を抜き続ける許可』を出したわけでは無い。必要以上に罪悪感を持たないようにしたかったのだ。

『髪を抜く自分』を『正しくない姿』と思うことをやめた。そうすることで見えてきたのは、『ではそんな自分にどう対処するか』という意識だ。

 面白いことに、そんな心持ちになったのはこの十何年で初めてのことだった。もう抜かないと泣いて、でもやめられなくて、惨めで悔しくて仕方なかった頃とは全く違う前向きな感情を持つことが出来たのだ。

 私は今でも髪を抜く。しかし、その量は確実に大幅に減った。無意識に抜き続けることが無くなった。今、抜いているな。そう認めるだけで、じゃあやめよう、と手をとめられる。きっと死ぬまでこの癖と付き合うことになるけれど、いざとなれば可愛いウィッグを選ぶ楽しみが待っている。そんな自分を認めている。

 ただ、自分が認めても、世間はそうじゃないこともある。

 以前、美容院に行った時だ。私は側頭部が少し禿げるくらいだったので、髪を切りに行くこともあった(それでもかなり薄かったが)。美容師さんに心配されて、私は堪らず、抜毛症と言って髪を抜いてしまうんです、なんて答えてしまった。

 当然、美容師さんはこう言った。そんなことしたら駄目ですよ! と。

 これが世間の反応だということは、身に染みるほど分かっていた。何度、家族からそう言われたろう。そんなことやめなさい。どうして抜くの。駄目って言ったでしょ。

 分かってくれない。それがこんなに苦しい。でもきっと、家族だって辛かった。気持ちも言葉も伝わらなくて、結果に繋がらなくて、もう何もかも嫌になっていたかもしれない。それもこれも、抜毛癖が病気と思われず、『たちの悪い癖』と認識されていたからだ。当人も、周りも。

 癖なら、自分が気をつけていれば治せるはず。そう思っていたから、やめられない自分が本当に憎らしかった。

 だから、テレビで『これは病気です』と全国に発信されたことで、私はようやく、自他共に認める『病人』になれた気がした。病気なら仕方ない。こう思えるようになった。

 それまで自分自身を否定することでしか対処できなかった問題に、今度は自分自身と手を取り合って臨むようになった。私は私を認めて、病気と付き合うことに決めた。

 心は揺れ動くものであり、固定は出来ない。考えも感情も変わっていくのが当たり前だ。理想や過去に固執せず、変わっていく自分を認めることで、道は開かれるのかも知れない。

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