恋した臆病者
石蕗 景
恋した臆病者
休日の昼間、多くの女性や中高生が賑わうパスタ専門のチェーン店。ボリュームが調整されないまま音となった話し声が溢れかえった店内で、真希は眉間に皺を寄せたまま。皿にフォークを乱暴に突き立てたせいで、ききゅ、と食器同士が擦り合わさる音が不快だったが、それを気にした様子もなくパスタを巻きつけていく。
「もう、本っ当に嫌んなる。言ってやったんだよ『あんたみたいな浮気野郎、いつか女に刺されるよ。精々背中に気をつけな』って」
彼女の指先がフォークを回すたび、ふわふわに巻かれた金の髪がゆらゆら揺れている。「背中に気をつけな」。頭に血が上ってなきゃ言えそうにないセリフだ。思いながら、不自然に口角が上がっていくのを自覚する。誤魔化すように目尻を軽く下げ、真希へ顔を向ける。
「マジかぁ。やめてよ? ニュース見たら片原真希容疑者は……とかって」
「やっだ、本気でするわけないじゃん。頭ん中だぁけ」
言いながら、ボールのようにフォークに巻きついたパスタを口いっぱいに頬張る彼女は、それでも彼と付き合い続ける。
彼の浮気を知っても、真希から別れを切り出すことはなかったし、彼から別れを切り出されても「馬鹿野郎、あんなヤツ」と罵りながら私に泣きついた。結局別れなかったらしく、彼女はそれはもう幸せそうに微笑んだ。
それを愛の形と捉えるのか、どうしようもないと呆れるのか。どちらが正しい感情や思考の動きだろう。
2,3本のパスタをフォークで掬い上げ、皿の端で巻きつけながら思い出す。
私の元カレも浮気をしていた。平日の朝、職場に向かっている途中、たまたま寄ったコンビニで腕を組んで歩く彼らと鉢合わせた。頬をひくつかせた彼の隣で、目を丸くした彼女は一瞬後には「はじめまして」とでも言いそうなほど柔らかい雰囲気を滲ませながら微笑んだ。その表情を見た瞬間、高ぶりそうだった気持ちが冷たい風が吹いたようにひやりとした。凪のようにぴくりとも震えなくなった心。
朝のそれなりに忙しないコンビニ。サラリーマンやオフィスレディがドリンクや軽食を片手にレジへ並んでいく。皆一様に時間に追われた表情をしている。
私たちをちらりと見るばかりで、それ以上は何もない。もし仮に、誰かひとりでも私を哀れむように瞳を歪ませたら、そのひとりの要望に応えて泣いたかもしれなかった。だけど、皆、時間に追われている。
「あ。香奈、奇遇だな」
「そうだね」
咄嗟に言い訳さえしない彼の心理状態というのはどういったものだろう。誤魔化せるなら誤魔化したい? バレるはずがないと高を括っている? だったらその頬の筋肉、どうにかした方がいいよ。場違いにも彼に言ってしまいたくなる。
「彼女?」
自然に浮かんだ笑顔。その表情は自分で確認することができなかったが、どうやら違和感がなかったらしい。女の子の方が嬉しそうに「はい」と笑顔で彼の腕にぴっとりと絡みついた。
「はじめまして、バイト先で知り合ったんです。舞くんとはご友人ですか? あっ、元カノですか?」
元カノだったら悪いと思ったのだろう。慌てて彼と距離を取り、私と舞の間で視線を彷徨わせる。
「そう、元カノなんです。でも気にしないでください。なんの未練もなく、お互い別れたんで」
ひらりと手を振ってみれば、少し気まずそうにしていた彼女が安堵したのが肩を見てわかった。
「じゃあ、私は仕事があるので。お幸せに」
彼の顔を見ずに、彼女に言った。舞の立場で考えると「お幸せに」というのは嫌味に聞こえたかもしれないと、レジに並んでから気づいた。
後ろで彼女が花が咲いたように軽やかな声で「素敵な彼女だったんだね」と舞に話しかけているのが聞こえた。彼がなんて返したのかは聞く気がなかった。
「香奈は? あの元カレ以降どうなの」
パスタを頬張ったまま、もごもごと口の中だけで言葉を音にする真希。威嚇するように真っ赤に塗られた赤いリップ。そこにまとわりつくクリーム色のソースがなんだか子供みたいで、苦笑いをする。
「全然。何もない」
「えー、香奈、せっかく可愛い顔してるんだからグイグイ行かなきゃ『ソン』だよ」
真希の口から出る「損」という言葉が、辞書に記されるような本来の意味を持っていないような響きだった。つまんないでしょ。そう言うような響き。
私は言葉を頭で並べて、そこに重さを感じすぎるから、彼女のポップコーンが弾けるような勢いと軽さを持ち合わせる言葉遣いが好きだ。
「なんか急に覚めちゃって。恋愛はしばらく楽しめそうもないや」
「ふぅん。そういえば、別れてすぐん時も泣かなかったよねぇ」
ごくっ。音が聞こえそうなほど彼女の喉がパスタを運ぶのが見えた。
舞と別れて一週間後、たまたま遊ぶ予定があった真希に別れたことを伝えた。その時もランチをしていたけど、店員も驚くほど真希が泣き始めた。思い出して、手元でフォークをいじりながら笑う。
「真希は大号泣だった。ウケたよ、あれ」
「もぉ。笑い事じゃないよ。真希は香奈のこと心配したのに。傷つきすぎて、感情がトボシくなっちゃってるのかと思ったもん」
感情が乏しい。ああ、そうかもしれない。思って、それをこの場で言ってしまうのはなんとなく躊躇われた。そんな心配してたの? けらけらと笑うと、さっきまで鼻息荒く憤慨していたのが嘘みたいに可愛らしくむくれる。
それからはテレビの話や職場で嫌な感じの人の話、その場にいなければ笑えないような些細なおもしろ話を、飽きもせず話し続けた。
ウィンドウショッピングを楽しんで、真希は彼氏とディナーだがらと夕方、小学生が家に帰るくらいの時間に家に帰ってきた。
玄関のボックスに家の鍵を放り込み、休みの日にしか履かない汚れがない靴を脱ぐ。今日の出先で汚れてしまってないかを確認して、下駄箱に仕舞った。
服を着替えずに、電気さえつけずに、ベッドに身を投げる。今日は楽しかった。真希のような女の子がなぜ私と友人になってくれたのかはわからないが、嬉しかった。だけど、楽しかった日というのは、同じだけ疲労感を伴う。帰ってすぐのベッドは、その疲労感を溶かしていくようだった。
眠たいわけではなかったが、静かな部屋に溶け込みたくて、目を閉じる。
コンビニで彼の浮気を知った日。仕事を終えて、同じようにベッドに身を任せていたら、元カレが家に来た。私の部屋に時々泊まっていたから、その荷物を取りに来たのかと思った。電気をつけ、いつもより重たい体を奮い立たせて彼を迎え入れる。
「お前、朝のあれ、なんだよ」
「え?」
玄関に入ってすぐ、舞が言った。何を問われているのか、全くわからない。その言葉を言うのは、私の方だと思っていたから。朝のあれ、どういうこと? 浮気してたの? 真希や他の友人たちの恋愛話を聞いていると、それを問う義務があるのは浮気された側だ。権利ではなく、義務。
「もう少しなんかあるだろ? 怒鳴るとか、泣くとか」
何かを塞き止めるような、静かな声。彼は怒っていた。
「え、なんで?」
言ってることはわかる。私は怒らなかったし泣かなかった。それをすることがまた、恋愛を成立させるための義務であるような気はしてるが、私はそうはしない。知ってたはずでしょう? そうした意味での疑問だった。
カァッと彼の顔が一瞬にして真っ赤に染まる。首も、耳も。
「俺は浮気していたんだぞ! もっと泣けよ、引き止めろよ、問い詰めろよ!」
一体これはなんの喧嘩だ。激昂する彼の声に、自分の心に冷たい風が何度も吹く。揺れていた波が、激しく数回揺れ、急激に凍っていく。
「だって、泣いたって怒ったってしかたないでしょ。それで浮気がなかったことになる? 舞は彼女に別れを切り出せるの?」
言った瞬間だった。彼の目まで赤く染まったのかと思うほど、ぎょろりと見開かれたのを見た直後。ぐらりと視界が揺れ、頭がごんっと鈍い音を鳴らす。目の前に彼が好んで履いているだぼだぼのジーンズがある。靴はスニーカーで、汚れている。穴が空いてしまいそうなほど、きりきりのスニーカー。
急に消えた舞の顔を探してゆっくりと顔を動かす。見上げた先で、彼が肩で息をしていた。あ、泣きそうな顔。痛そうな、顔。ぼんやりと考えて、ようやく血が巡り始めたように頬がじん、と痛くなる。頬を張られたらしい。
「お前なんかと付き合うんじゃなかった」
唾でも吐きそうなほど、泣きそうな瞳をぎらりと尖らせ、彼は玄関から乱暴に出て行った。
しばらく放心して、家の鍵を締める。彼はもう、二度とこの部屋には来ない。
無様に残された彼の荷物は、その日のうちに分別してそれぞれのゴミの日に出した。ついでに私も、ゴミとして出してしまおうか。別れたばかりのヒロインらしいことを考えてから、今日の晩ご飯はお肉が食べたいなぁと思った。
今思えば、彼はとんでもなく理不尽な怒り方だった。しかしこの話を真希にしたとき、号泣し、彼の行動に怒りを持ちながら私にも怒った。なんで腹立たないの? 香奈、舞くんのこと好きじゃなかったの?
怒らなかったことが、好きかそうじゃないかの感情と結びつくことが不思議だった。
好きだったよ、ちゃんと。大好きだった。
舞がうちに来るときは、美味しいご飯を食べて欲しくて料理を練習するようになったし、ずっと可愛いと思って欲しかったから、本当は苦手なお洒落も覚えた。気持ちを伝えることを御座なりにはしなかったし、連絡の頻度も彼の時間の都合に合わせてしていた。
携帯を確認したり、彼の交友関係に口出しすることもなかった。信じていたし、彼と付き合っている間、不安になることなんてひとつもなかった。風邪ひかないでね、無理しないでね。そんな心配が時々あっただけ。
私が私でいられる範囲で努力をして、彼と向き合ってきたつもりだった。それでも浮気をした。
精一杯の私じゃダメで、それ以上の何かを求めたのか、それ以下の何かを求めたのか。彼が私に求めたものはなんだったのか、全くわからない。だって彼は、私に何も言わなかった。
私たちはどれだけ想い合ったとしても、別の生き物だよ。その間に言葉が交わされなかったものを察し得ることなんて不可能に近い。
彼はそれをしなかった。最後に交わした会話。あれが彼なりの「愛情を確認したかった」という言葉になるのだとしたら。やっぱり私たちは別れる道を辿ったのだと思う。
怒ること、感情に任せて泣き叫ぶこと。それでしか彼に愛が伝わらないなら、私にはできない。私は感情に理由をつけ過ぎるから、「怒る」理由に納得できないと、怒れないし泣けない。
自分を壊してまでして一緒にいたいと思うのが本当の恋愛なのか。こうして無理なものは無理だと遮断してしまうということは本当の恋愛ではなかったというのか。
そもそも、こうして理性的に悩んでしまうことそのものが、恋愛としてはかけ離れているのだろうか。その答えが見つからない限り、浮気に怒る理由が見つからない。
だけど、これだけは言える。
「好きだったよ」
たとえ、誰がなんと言おうと、好きだった。これが恋愛じゃないと嗤われようと、精一杯の「好き」だった。
「すき、だった」
別れて半年。電気もつけない、暗いひとりの部屋の中。誰に聞かせるためでもなく呟いた声が、しんとした部屋の中では、やけに震えて聞こえた。
恋した臆病者 石蕗 景 @tsuwabuki3
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