ツンベルギア

石蕗 景

ツンベルギア


 パシャッ。身を屈めて草に紛れながら、ファインダーを覗く。彼女はその小さな窓の向こうに、どんな景色を見ているのだろう。ファインダーから少し距離を置き、やわらかな緑に溶け込む青い空を、愛おしそうに眺める彼女の黒い髪がさらりと揺れる。それをぼんやりと見下ろしている私に、気づいたりしない。

 私は彼女からそっと目を逸らし、空を眺める。太陽は、あまりに眩しすぎて、直視できなかった。何も考えず、目を閉じて、太陽があった方を向く。瞼が赤く染まり、これが体内の色なのか、太陽の色なのか、考える。まっすぐに手を伸ばすと、赤い視界に影ができた。だからといって、どちらの色かはわからない。

 横で、息を呑む気配がした。パシャッ。続くシャッター音が心地いい。



 ブラック企業と呼ばれる会社や、そこには踏み込まずともグレーゾーンをなんとか保つような会社が多い中、比較的ホワイトな中小企業の事務として就職した先に、真矢朝子はいた。

 私の教育係として席が隣になった彼女はこの職場とは全く無関係の専門学校に通い、二十歳になる頃には就職していたとランチのときに聞いた。

 ひとつ年下の先輩。年下であったとしても、先輩だということに変わりはない。タメ口で話されることになんの抵抗もなく、そうされて当たり前だと思っていたのだが、朝子さんは出会ってから三年経った今でも敬語で私に話し続ける。

「美智さん、お昼行きましょう」

 丸みのある頬をぷっくらと持ち上げて笑う彼女は、どこかあどけなく可愛らしい印象だった。染めた様子もない黒髪が、胸元でまっすぐ切りそろえられていることが余計に幼さを感じる。

 返事をしながら、パソコンの画面を消し、キャビネットの引き出しからバッグを取り出す。

「朝子さん、今日は何食べたいですか」

「そうですねぇ。ラーメンの気分ではないです」

「私は和食の気分じゃないです」

 ホワイトボードに並べられたラミネート加工された名前の札。その横に「昼食」の文字を書いて事務所を出る。じゃあハンバーグでも食べますか。そう言ってにこにこと笑う朝子さん。ハンバーグが美味しいお店をこの間見つけたらしい。

 仕事のことや、プライベートのことを話しながらお店に向かう。私と朝子さんは、趣味が全く合わない。本を読んだり、散歩をしたり、写真を撮ることを趣味とする朝子さん。飲み歩いたり、友人と旅行に行ったり、スポーツ観戦が趣味の私。お互いの話はほとんどが理解し合えないのに、私たちは仲が良かった。

「あ、飛行機雲」

 空を見上げ、綺麗だと笑う。つられて、ビルのせいで狭い空を見上げる。ビルとビルの間を縫うように、一本、まっすぐな飛行機雲が滲むことなく伸びていた。

 趣味が全く合わないのに仲良くなれたのは、この感性のおかげだった。趣味や、そこから受ける影響はお互いの肌に合わないが、この同じ景色を、同じ想いで見ることができる人というのは、趣味が合う人より少ない。

 青い空に浮かぶ雲や月を見て、感動するような個性は、歳を重ねるごとに笑われる対象になる。理解を示されても、共感はされない。そうね、綺麗ね。それで終わる。何をきっかけにして、この感性を彼女と共有できたのかは覚えてないが、それを直隠しにする私とは違い、朝子さんは誰の前でも開けっ広げに話してみせた。朝ちゃんったら、ロマンティックね。子どもみたいだよな。そう直接言われても、その可愛らしい頬を持ち上げて、けらけらと笑うきり。

 飛行機雲をぼんやりと眺め、店に着くまで私たちの間に会話はなかった。この時間も、私は結構好き。

 着いた店は、レンガと木材がシックにまとめられたカントリー調のこじんまりしたカフェ。お昼時だというのに、カウンターに二人、二人がけのテーブル席に一人。

 黒のソムリエエプロンをした三十代半ばほどの男性が、テーブル席にデミグラスソースのオムライスを提供してから、私たちに向き直る。

「いらっしゃいませ。今日はお二人なんですね」

「そうなんです、ハンバーグを食べに」

 すぐ用意しますね。硬すぎない言葉遣いと軽い会釈。彼らの親しさが伺えるようだった。空いているテーブル席に座ってしまえば、もうこの店の空席はカウンターの一席のみ。従業員も彼ひとりだろうか。

「朝子さん、店員さんと仲良くなるのうまいですよね。この間、皆で行った居酒屋でも親しげじゃなかったですか」

「そう見えますか? あ、なんだか嬉しいです。顔が広い気分」

 へへへ、と笑う彼女は、どうしてそんな純粋さを保てるのかと呆れさえ生まれる。

 店内の雰囲気を楽しんでいると、店員さんが鉄板でふつふつとソースを弾くハンバーグを持ってきた。添えられた人参から放たれるバターの香りが、ソースと合わさって少し甘い匂い。

 美味しそう。二人して、SNSに上げるわけでもない写真を丁寧に撮る。紙エプロンを襟に挟み、ナイフで切り分ける。中から出てきた肉汁が、水玉模様を描きながら鉄板を泳ぐ。魚が泳いでいるみたいに、きらきら。

「美智さん、一緒に写真撮りに行きませんか」

 切り分けたハンバーグを、頬張ろうとした時、なんの前触れもなく唐突に彼女は言った。

「写真?」

「そう、写真。どこか、景色が綺麗なところ行きましょう。美智さんが興味なければ、写真は撮らなくてもいいですけど……綺麗なものを見に行きましょう」

「どうしてまた。突然ですね」

「実は前から誘ってみたかったんです。でも、さすがに景色だけだと億劫かなと思って、ずぅっと躊躇してました」

 目をきゅっと瞬いて言う。アニメみたいな仕草なのに、それがよく似合っていた。

「そんなに悩んでたんですか。誘うくらい、さらっとしてくれてよかったですよ」

「でも、行くかどうかは別ですよね?」

 その通り。とまではさすがに言えなくて、誤魔化すようにハンバーグを頬張る。熱々の旨味が、口の中で香りとともに広がる。美味しい。

 その反応を見て、やっぱりと言わんばかりに苦笑いを浮かべた朝子さんは、ハンバーグを同じように切り、頬張る。んぅー、と唸りながらその味を堪能し、さっきより軽い声で言った。

「だから、ずっと悩んでたんですけど。今日、飛行機雲が綺麗だったから」

「ああ、なるほど」

 彼女はその感性を疑わないし、景色やその場の状況で、いとも簡単に一歩踏み出す瞬間がある。そのまま駆け出して、振り返ってまた、けらけら笑うのだ。穏やかで雲が流れるような朝子さんは、ときどき雷雲のように人をひやりとさせる。

 ハンバーグをあむあむと食べ続ける彼女は、私からの返事を待っているのだろうか。ずっと悩んでいたと言う割には、言ってしまったら答えなんてどうでもいいようにも見えた。

 私も、行っても行かなくても、どっちでもいい。だけど、彼女が写真を撮る姿を見てみたいと、不意に思った。

「いいですよ、いつにしますか」

「ほんと? やった。じゃあ今週の土曜はどうですか、空いてます?」

 ハンバーグと人参をフォークで刺し、ソースを絡めながら今週の予定を思い出す。午前中、美容院に行こうかと思っていたが、やめにしよう。

「いいですよ」

「じゃあ今週の土曜、朝十一時に、現地のK駅で」

「了解です」

 さっさと決まっていくスケジュール。それを聞いて思う。彼女はきっと、私が断っても一人で行っていたんだろう。もしくは、他に誰か誘ったかもしれない。隠しもない感性を、朝子さんの周りの人はときどき嘲りながら、受け入れているから。彼女のわがままにふざけ調子に付き合う。

 私と二人、無言で景色を眺める姿より、容易に想像できた。なぜ私なのか。それさえ聞けないまま、私たちはまた、無言でハンバーグを食べ続けた。



「お待たせしました」

 駆け寄ってきた彼女は、デニムジーンズと白いパーカーを着ていた。財布とポーチくらいしか入らなさそうな黒のウエストポーチをパーカーの上からつけていて、手には、使い捨てカメラが袋のまま握られている。

「思っていた雰囲気と違いますね」

「これが好きなんですよね」

 思っていた雰囲気と違ったのは、服装も、カメラも。だけど、それを言うより早く彼女は答えたから、その答えが服装についてなのか、カメラについてなのか、将又どっちもか、判断しかねた。気にする様子もなく、歩き始めてしまった彼女の後を追う。

「行き先は決まってるんですか」

「うん、少しね。この先は歩くだけで、いいところあるんですよ」

「そうですか」

 なんとなく、そうだろうとは思っていた。その返答さえお見通しだったのか、気のない返事に気分を害した様子もなく、そうですよーと笑ってみせた。無理にテンションを上げなくていいのが心地いい。

 朝子さんが言っていた通り、しばらく歩くと、人気がない路地に入った。暗く、太陽は高く昇っているはずなのに、どこまでも光が入らない。隙間から時々、石が敷き詰められた地を照らすが、その一筋が余計に他の暗さを際立たせている。

 スマートフォンの明かりを使いながら、朝子さんはシャッターを押した。カシャ。響く音が、退路を塞いでいくような緊迫感を演出しているようだった。

 カシャッ、パシャッ。フラッシュを焚かない理由があるのかは、私にはわからない。ぼんやりと、一筋の太陽を眺める。じゃり、と足音がしてそっちに視線をやると、彼女がその一筋の下に立ち、光の中で暗闇を写していた。ちらりと見えた横顔が、普段の微笑む様子からは想像もできないほど、冷たい目をしていた。

 何度か見せてもらったことがある、優しくあたたかい温度を持つ彼女の写真。こんな冷たい表情で撮っていたのかと、驚くと同時に、妙に納得できた。

 歩いては撮り、撮っては眺め、歩く。繰り返していると、長く遠い暗闇の向こうに、底抜けに眩しい光が溢れていた。

「つきましたよ」

 はっと息をのむ。どこまでも暗いと思えた路地の先に、じゃりじゃりと痛々しい石道の果てに、こんな景色があるなんて、誰が思えただろう。

 さらさらと風に揺れる草はら。大きな木が一本、真ん中にそそり立つ。太陽の光を一身に浴び、揺れる草はらを見守るように、葉を揺らすこともなく立っていた。四角く切り取られたような空間。路地をつくった建物は、蔦の葉が壁に伸び付き、緑に覆われている。

「おや、朝ちゃん。今日はお友達も一緒かい?」

「職場の後輩なんです。縁さん、今日もお邪魔していい?」

 白い髪が、太陽に透けて眩しい、小さなお婆さんが朝子さんに声をかけてきた。また、知り合いらしい。背がぐんと曲がり、私たちの胸ほどにある顔を持ち上げてにっこりと微笑む。目尻と頬の上にもともとある皺がもっと深くなる。絵に描いたようなお婆さんだ。

「じゃあ私はそろそろ行こうかね。また、帰る頃に声をかけておくれ」

「うん、縁さん、ありがとう」

 曲がった背を、それでもしっかり伸ばして歩いていく。路地に消えていく姿は、別世界へと溶け込んでいくようだった。

「朝子さん、やっぱりすごいですね」

「なにがですか?」

 きょとん。その表現がしっくりくる人を初めて見た。目を丸くし、二度、瞬く。じっと見つめる私に、答える気がないことを悟ったのか、「私、写真撮っちゃいますね」とカメラを持ち上げてみせた。ああ、彼女は本当に何も身に覚えがないのだ。それに気づいた瞬間、私はなぜ彼女と一緒にいるのかを自覚する。

 パシャッ。身を屈めて草に紛れながら、ファインダーを覗く。彼女はその小さな窓の向こうに、どんな景色を見ているのだろう。同じ感性なんて嘘だ。私には彼女が美しいと思う景色を見られない。飛行機雲を見ても勇気なんて湧かない。草に身を寄せてまで見たい景色なんてない。

 ファインダーから少し距離を置き、やわらかな緑に溶け込む青い空を、愛おしそうに眺める彼女の黒い髪がさらりと揺れる。それをぼんやりと見下ろしている私に、気づかない。木の向こうの空を、愛おしいなんて思えない。空にはなにもないよ。どれだけ青くても、緑と馴染んでも、届かないし、助けてもくれない。

 私は彼女からそっと目を逸らし、同じ景色を見てみたくて、空を眺める。太陽は、あまりに眩しすぎて、直視できなかった。何も考えず、目を閉じて、太陽があった方を向く。視界が赤く染まり、これが体内の色なのか、太陽の色なのか、考える。まっすぐに手を伸ばすと、赤い視界に影ができた。だからといって、どちらの色かはわからない。ねぇ、朝子さん。あなたはこの色をなんの色としてその目に映すの? 私には、もう、瞼の色にしか見えない。

 横で、息を呑む気配がした。パシャッ。続くシャッター音が心地いい。その音が鳴るたびに、彼女が他人に愛想よく笑う姿が頭を過る。けらけら、笑う。嘲るように言葉を紡ぐ彼らも、やがて優しく微笑む。自分の感性を堂々と言葉にする。彼女は、誰に認めてもらうためでもなく、それを自分と受け入れた上で、馬鹿にする人たちを受け入れた。諦めにも似た許容。

 朝子さんは、たとえ今ここで、私が帰ると言ってもそれに付き添う。何が楽しいのって鼻で笑えば、「何がだろうねぇ」と本気で首を傾げる。一度閉じてしまえば、もう目は開けられそうになかった。唇が震える。瞼の中が、じわりと滲んでいく。

 眩しすぎて、渇いてしまいそうだ。

 同じ景色を見たかった。全くの他人に、親しげにランチを用意され、飲み屋で軽やかな挨拶を交わし、どこでどうしてこんな非現実的な環境を手に入れたのかもわからない不思議なお婆さんに、名前を呼ばれたかった。馬鹿馬鹿しい、幼稚な願望。

 昔は見えたはずたった。彼女のように、はしゃいだはずたった。

 同じ景色を、同じ想いで見ることができる人というのは、趣味が合う人より少ない。直隠しにしたんじゃない、私はいつのまにか捨てた側の人間だった。朝子さんと共有したんじゃない。捨ててしまった景色を、彼女を通して見ていた。

 飛行機雲を綺麗と言う彼女に倣って、見上げ、これを綺麗と呼ぶのか。そういえば、そんな頃があった気がする。その時だけは、捨てたものを手にしている気がして好きだった。

 妬みと呼ぶには憧れが強く、尊敬と呼ぶには醜悪な感情を纏ったこの気持ち。

 私は、真矢朝子になりたかった。

 パシャッ。響くシャッター音。

「眩しいですね」

 何度か口を開き、溢れそうになる嗚咽を抑え込み、震える声で辛うじて言った。朝子さんが、立ち上がった気配を感じる。

「目が、開けられない」

 ねぇ、朝子さん。私はあなたになりたい。

「私も」

 朝子さんが、風が葉を撫でる音によく馴染む声で言う。

「私もです。今日は特に眩しいですね」

 パシャッ。シャッターの、音。

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