第15話 これで終わりにしよう
あの夜の一件以来、新田の西森への態度は変わってしまった。
「新田」
「--は、はい、、、」
西森の呼びかけに、デスクに向かう新田は一瞬ビクリと震え、応じた。
「、、、この資料、こことここが間違ってるから、直しておいてくれ」
印刷した数枚プリントを指差し、西森が言った。新田に、客先に持っていく資料をつくってもらっていたのだった。
「あの、そこに置いておいてください。直して、また置いておきます」
西森の方を向きはするが、新田の視線は、西森の目ではなく、彼の足元にあった。
あれ以来、新田は西森にまともに顔を合わせなくなっていた。加えて、新田の方からも意図的に西森を避けるようになっていた。
「--わかった、頼んだぞ」
新田の提案に、西森は了承し、その部屋--寝室を出て扉を閉める。
寝室が、今、新田の部屋になっていた。
このマンションは1LDKだったので、リビングを除き、他に部屋はない。新田が退院してからは、新田が寝室のベッドに寝て、西森はソファで寝ることにしていた。
西森は、リビングのソファに腰を下ろすと、ため息をついた。
--あれ以来、やはり自分からはほとんど口を聞いてくれないな
西森は思った。
強引に、新田を襲ってしまった。酒が入っていたとはいえ、その行為を正当化する理由にはならない。西森は、数日経った今でも自己嫌悪の中にあった。
世界中の誰より大事にしてきた新田という存在だった。
記憶喪失をしているといっても、新田は新田なのだ。その彼を、手荒に扱ってしまった自分が許せなかった。
オレも、弱い人間だよな--
そうしてしまった原因のひとつに、寂しさがあった。愛している人物に触れることのできない辛さがあった。
事故から、1ヶ月以上が経っていた。
その髪を撫で、頬を撫で、体のラインを確認し、抱きしめたい想いが、日に日に強まっていき、そして、あの夜、それが爆発してしまったのだった。
仲睦まじいときの新田は、こんな自分のために幾度となく涙を流してくれた。セックスの後には、自分への愛しさのあまりに泣いてくれた。
新田がなぜ泣いたのか、西森には痛いほどわかっていた。
西森は、一度伴侶と死別している。
新田が泣いたのは、その高まった関係性がいつか崩れてしまうのが怖いからだと思った。
大事なものを手にするということは、それをいずれ失うということでもあるのだ。
誰だろうと、怖くないわけがない。
愛を得て、その愛を失うことが人生だというのか--
だとしたら、人生とはなんと残酷なことだろう。
しかし、何も手にしないほうが傷つかないのは明らかだが、それを許すことの出来ない弱いこの心がある。
愛は欲しい、でもその愛を失いたくない、そして、なにより、傷つきたくない。
そのような矛盾した願いを、人は誰しも持っているのかもしれなかった。
「、、、ぐす、、、ぐす--」
寝室の中から、ふとそのかすかな声が西森に聞こえてくる。
あの一件以降、新田は、基本的に寝室にこもっていた。そこで、ひとり静かに泣く事があったのだ。
記憶の戻らない自分、なんのために生きてるのかわからない自分、そして西森への恐怖心とが、今、彼を苛んでいるだ。
新田の泣き声を聞きながら、西森は頭を抱えていた。
最近、ようやく、考えるようになったことがある。
もしも、新田の記憶が生涯戻ることがなかったとしたら、自分は彼のためにどう行動すれば良いのだろうか。
新田は、まだ、20代中盤だ。人生の最も輝かしいともいえる時期にある。それを、こんな生活で浪費してしまっていいのだろうか。
いつまでも、新田に固執し続け、彼の人生のチャンスを詰むことは、西森は自分のエゴなのではないかと考えるようになった。
このまま、新田の記憶が戻らなければ、彼は普通に結婚をして家庭を持つかもしれない。それはそれで、親御さんもふくめて一番幸せなことなのではないか。
西森が考えていたこと--それは、新田を諦めるという選択肢だった。
愛する人のために、愛する人を諦める--
それが果たして、本当の愛なのか、西森にはわからない。また、新田を失ったとき、西森は自分がどうなってしまうか、わからなかった。
だが、きっと、このままでいるよりは、今の新田の状況としては良いはずだった。
「--ぐす、、、お母さん」
新田がそう小さくつぶやくのが聞こえた。
ああ、今、お前はとても苦しくて辛いことだろうと、西森は思う。
せっかく身につけた仕事のスキルを失い、男と寝るような男と一緒に暮らすはめになってしまった。
何より、自分のやりたいことも見失ってしまったことだろう。
数日かけて、悩んでいたことに、西森は決着をつけるときが来たと思った。
新田が好きだ。
もう、これ以上、新田を苦しめたくない。
誰よりも、新田を愛している。
だから、彼のために、身を引こう。
--これで、最後にしよう
西森は思った。
西森には、最後にひとつだけ、新田の記憶を戻すために考えていたことがあった。
多分、失敗する気がしてはいる。ここへ来て、考えられることをすべてやり尽くしてきた日々だった。
同時に、それは怖くて今まで試すことが出来なかったことでもあった。
失敗したら、もう終わりだという、漠然とした想いがあったし、そして、なんとなくそれは確実であると思えていたからだ。
西森は立ち上がり、寝室の扉を開けると、
「新田優一」
新田の名前を呼んだ。
泣き顔の新田が振りかえる。
何かいつもとは違う気配を察知したように、だが、おずおずと、西森に目を合わせる。
西森は、久しぶりに新田と目が合った気がした。
それだけで嬉しくて、西森の顔は柔らかくなる。
優しい微笑みで、西森は新田を正面から見つめた。
「付き合ってほしい場所がある。それを最後に、新田--お前とのこの生活を終わりにしようと思っている」
西森は言った。
そして、翌日の午後--
西森と新田は、数時間の移動時間をかけて、その場所にやってきていた。
木々が多い場所だった。空は雲ひとつなく晴れ晴れとし、葉や枝の隙間から、白い光が日陰になったその砂利道に無数に差し込んできていた。
道は、少し上り坂になっていた。
背後には、遠くに田畑が見えている。
さらにその向こうの彼方には、うっすらと青く続く山々。
時期は、夏真っ盛りのため、気温が暑い。
西森と新田は、ともに薄着をしており、汗をかいていた。
「、、、」
みんみんみんみん--
しわしわしわしわ--
二人に、特に会話はなく、無言のまま、その混ざりあった夏のけたたましい蝉の声だけを耳にして歩いていた。
西森が先に進み、その数メートル後ろを、新田が俯きがちに着いてきている。
--ここはどこなのだろう
ときどき、西森の背中を見つめ、新田は思う。
都会からはかなり離れた場所であるはずなのに、西森は荷物ひとつ持たずに、ラフな格好で前を歩いている。
どうして、僕はこの人に惹かれたのだろうか--
新田が思う。
すると、ふいに、目の前に古びた石の階段が現れる。
一段一段は狭いものの、けっこうな段数があり、先をゆく西森のさらにその先には何があるのかは見えない。
日陰が途切れ、太陽が直視してくる。
新田は片手で目に影をつくり、ときおり、上を確かめながら進んでゆく。
「気をつけろよ、この階段--ところどころ壊れてるから」
少しふりかえって、西森が上から声をかける。
西森の言うとおり、石段の舗装の一部が剥がれ、グラグラと揺れるので、気を抜くと、新田は足を踏み外しそうになる。
やがて、新田が頂上に着くと、そこは古びた神社の境内になっていた。
そこは手入れが行き届いているとはいえず、寂れたたたずまいをしていた。
あたりには、枝や葉が転がり、本堂に続く石畳の上にも砂利がいくらか散らばっている。
管理をする人は、ここには住んでいないようで、本堂の他には、ちいさな御堂しか見当たらない。
敷地は、ちょっとした広場になっていた。
その真ん中の石畳の上に、西森が新田を向いて立っている。
「お疲れさん」
少し遅れて階段をあがってきた新田に、西森が笑って言った。
「疲れたか?」
「--はぁ、はい。まあ、少しは」
少し乱れた呼吸を落ち着けるように、膝に手をおいて、新田が答える。
「--新田、この場所に見覚えはあるか」
両手をポケットに入れながら、当たりを見回して、西森が言った。
横から爽やかに吹いてくる風が、西森の髪を少し揺らしている。
体制を整えて、新田も当たりを見回す。
Tシャツが少し風に煽られ、汗をかいた肌の上を心地よく風が吹き抜けてゆく。
「--ここが、西森さんの言っていた場所なんですね」
新田は言った。
そして、続ける。
「ごめんなさい--やっぱり、何も思い出せません」
その新田の声を、西森は目を閉じて聞いている。
少しのあいだ、そこには無言が訪れる。
「ああ、わかった。ありがとうな」
やがて、目を開けると、西森が言った。
「すみません--」
「気にするな、それより--せっかく来たんだ。お参りでもしていけよ」
西森がそう促すと、新田は立ち尽くしたままの彼の脇をとおり、本堂に向かった。
賽銭を入れて、手を合わせる。
目を閉じる。
今、ここに何を願うのか--新田が考えようとした、そのときだ。
「--新田ぁ!」
背後で、西森が叫んだ。
新田は目を開く。
「お前がどうなろうと、オレはお前が好きだ! この気持ちだけは、一生変わらない!」
西森のその叫びを、新田は背中を向けたまま聞いている。
「--」
新田は再び目を閉じる。
ゆっくりと一礼し、そして振りかえった。
「--帰りましょう」
西森を見て、新田が静かにつぶやいた。
「、、、ああ、そうだな」
西森が答えた。
西森は、どこか穏やかな顔で空を見上げていた。
どこまでも青い空だった。
「今まで、ありがとうございます」
新田が言い、ゆっくりと西森に歩み寄る。
「--西森先輩」
言って、新田は笑った。
新田の目から、しだいに、涙が溢れ出していた。
その様子に気づき、西森は、目を見開いた。
「新田--」
「えへへ--」
新田は、はにかむと西森に抱きついた。
「、、、色んな事があったみたいですね」
西森の胸元に頬を当て、涙を流す新田が目をつぶり、そうつぶやいた。
西森は、両手を宙に浮かせたままだった。やがて、その手を新田の背中に回すと、西森の目にも涙が滲んでくる。
「--そうだよ、馬鹿」
西森も目を閉じる。
つうっと、まぶたの端から涙が一粒、西森の頬を伝ってゆく。
遠くに響く蝉の鳴き声の中、西森は新田の温もりを感じていた。
「おかえり、新田--」
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