5-4

 瞼の向こうの光に気づき、ネアはゆっくりと目を開けた。

 眩しい――とっさに瞼の動きを止めかけたが、自分の状況を認識するため無理やりに動かす。

 最初に映ったのは目の前にある二人掛けの座席だった。緑のモケットが貼られた木製のもので、見ると自身もそれと同じものに座っていた。

 しかし自分は、手足を厚く固いゴム紐で完全に拘束されていた。


「!?」


 座席そのものにも括り付けられているようで、まったく身動きができない。


(どういうことだ……確か私は署長室で……)


 執務をしていて、いつの間にか眠ってしまって。そうしたらボードマンが来て――。

 そこではっとなる。彼の持ってきた紅茶を飲んでそのあと記憶がない。

 ネアは思わず首を巡らせた。

 数個の電球で照らされた周囲は明るい。細長い内部――木製の壁際に整然と座席が並ぶそこは、どうやら列車の客車内らしかった。まだ、動いてはいないようだが。

 自分がいるのは、その中でも座席が向かい合う後方の一角。前後には車両間を繋ぐ出入口があり、側面の一部には昇降用のドアがある。

 左手側には窓。しかしそれは今黒い厚布でぴったりと覆われていて、他の窓も同じようになっていた。外の様子はわからないが、わざわざ布が貼ってあるのは光が外に漏れないようにするためだろう。となれば外は夜である可能性が高い。

 そして今この車両に、自分以外の人の気配はなかった。声は出せるが不用意に声を出すべきではないと口を噤む。列車がどこにあるのかはわからないが……少なくとも一般の駅などではないのだろう。

 ――と、その時。唐突に前方にあったドアが開いた。

 そこにいたのは、灰色のコートを着た大柄な人物。


「起きてしまいましたか。……薬を加減しすぎたらしい」


 彼はこちらへ歩み寄り、数歩手前で足を止める。その口ぶりから、極端に長く時間が経ってはいないのだろうとネアは察する。

 そして見ると、ボードマンの背後にはソフトハットを目深にし、闇色のコートを着たかぎ鼻の老人と、白髪褐色の少年の姿があった。


「……どういうつもりだボードマン。悪ふざけでは済まないぞ」

「悪ふざけなどではありません。正真正銘、犯罪ですよ」


 言ってボードマンが下賤に唇を歪める。

 するとかぎ鼻の老人がネアを見て口を開いた。


「ふむ。しかし写真で見るより現物のほうが美しいものだな。直接確認しに来た甲斐があったというもの。取引先も喜ぶだろう」


 褒めているのだろうが明らかに物扱いしたその言いように、ネアは噛みつく。


「何が目的だ! 答えろ!」


 そこでかぎ鼻の老人はボードマンと視線を交わした。その後ボードマンは無言で客車を出て行く。そして老人が静かに告げた。


「お前さんはこれから売られるんだ。我々ハイドラの手でな」


 予想していた答えのうちの一つを返され、ネアは歯噛みする。


「……人身売買か」


 その言葉に老人はふ、ふ、と肩を揺らす。


「半分正解だな。だがお前さんは人の身で売られるわけじゃない。少なくとも、見た目はな」

「なに……?」


 老人はソフトハットを指でわずかに上げて、細い瞳でこちらを見据える。


「……実はな、昔から一定数おるのだよ。Dアディクターを飼いたいという客が」


 聞いたことはあった。

 デビルドロップの脅威が周知された今ではほとんど聞かないが、デビルドロップが出回りだした当初は興味本位で人をDアディクター化させたという事件が発生することがあった。

 中には檻に入れて飼育しようとした人間が殺されたという事件もあったという。


「Dアディクターは国でも殺害処置という形でしか対処できないんだ。個人が買い取ってどうこうできるものじゃない」

「そうさな……普通のアディクターならそうだろう。しかし今回のはそうじゃない」

 老人はさらにネアに歩み寄ると、皺枯れたその手で髪に触れる。

「我々の組織の研究で最近分かったんだ。ある特定の人種――先天性灰色症の中のさらに一部には、デビルドロップの精神汚染を退ける遺伝子を持つ者がいると」


 つまりそれは、健常な精神を有して肉体のみ化け物になるということか。


「まぁそれが遺伝子によって作られる抗体によるものなのか、遺伝子そのものの特性なのかはわからなかったがね。しかしただ一つ言えるのは、Dアディクターを実用的な形で販売できる可能性があるということだ。……儂にその嗜好はわからんが、どうも金持ち連中は普通の人間の肉体ではもう満足できない奴らも多いようでね」


 その一言に、ネアは猛烈な嫌悪感を覚えるが。


「それこそ自殺行為だな。暴走しないだけで力はあるのだろう? 寝室が墓場になるぞ」


 老人は、髪から手を放し、


「ふ、ふ……威勢のいい御嬢さんだ」

「それに、私にそんな体質があるかどうかなどわからないぞ」

「……確かお前さんの父親はデビルドロップの急性中毒に陥っていながら、あたかも娘を守るように家を飛び出したと聞いたが?」

「なぜ、それを……!」


 あの事件のことはメディア公表されていない。ネアを引き取った叔父の計らいで、事故死ということになっているのだ。おかげでネアは事件後も至って静かに日々を送れたわけである。事件の真相は親族と保安庁のごく一部、セルジオ、ロイ。そしてあの時逃走した犯人くらいしか知らないはずだ。

 しかし老人は、ネアの問いには答えず、


「急性中毒で完全発症に程近かったにもかかわらず、なぜ彼は自ら取締官に殺されに行くような行動をわざわざ取ったのか――取れたのか。まぁ、それを聞いた段階ではあくまで憶測だったがね。お前さんの父親は当然、先天性灰色症でもない。しかし検査をしてお前さんの体質ははっきりしたよ」

「そんな検査……いったいいつ……」

「ボードマンにお前さんの髪を持ってこさせて遺伝子検査をしたのが二か月ほど前か」

「くっ……」

「いやはや、前準備も含めてこの商談には数か月を要したよ。それだけの利益が見込めるわけなのだから構わないがね」

「そうか……今回のテロもこのために……!」


 公安を疲弊させ、自分を拐かす隙を作るために。そしてもう一つ、合点もいった。


「あの二人をテロの犯人に仕立て上げたのもお前たちか!!」

「あの二人というのが誰なのかは知らんが、今回の商談にあたってボードマンが鬱陶しがっとった連中がいたのは知っとるよ。当初はもっと簡単にお前さんから遠ざけるつもりだったようだが……たかが公安官二人にいろいろと苦心していたようだね」

「苦心……?」

「その二人を嵌めようとしたら、利用した人間がDアディクターになったそうだ。しかも事前に例の薬――お前たちはデビルダストと名付けたのだったか。それが公安に嗅ぎ付けられてしまうしな。まぁそちらは結果としてはうまく利用できたようだが」


 ――そうか。

 数日前、組対課が泳がせていた人間をセルジオらが逮捕した件から、ボードマンは暗躍していたのだ。逮捕した人間がDアディクターであったというイレギュラーがなければ、あの二人はしばらくの間謹慎。こちらが誘拐されたとしても、すぐに対応することはできなかったろう。組対課の捜査資料に細工をするなど、ボードマンなら容易い。


「しかしまぁ、そもそも奴の計画はどうも小細工が過ぎる気がしたのでね。もっと大々的にやろうかと提案したわけだよ。実はこちらとしても売り上げの悪い薬デビルダストと抱え込んだ廃人――二つのできそこないの最終処分に困っていてね」

 

すると老人はこちらの頬をごく軽くつかんだ。

 彼は顔を近づけ目を見開く。どこか濁り、乾いて見える眼球がぎょろりとこちらを覗き込む。


「お前さん自身に恨みはないが、我々もこの国の公安には苦労させられたのでね。お返しだよ」


 頬をつかむ手に力はないのに、そのまま食い殺されかねない凄みを感じて、ネアの背筋を悪寒が抜ける。


「いいか、覚えておくことだ。九つ首の化け物ハイドラは不死身――首を切っても再生し、最後に残った首も死ぬことはない。所詮公安の犬どもには殺せぬ怪物なのだと」


 直感した。今回フリジニアに入ったというハイドラの幹部は、おそらくこの老人だ。少なくとも、彼の背後にいる少年は違う。

 するとそこで、ボードマンが戻ってきた。


「シェーファー氏。他の積み荷の積載が終わりました。作業員らの搭乗が完了次第、出発です」

「そうか」


 シェーファーというらしい老人はすぐに手を放し、身を引く。

 そして入れ替わるようにボードマンがネアの前に立った。その手には、一本の注射器。

 シリンジには微量の黒い液体が入っていた。おそらく、デビルドロップ。


「くく……ちょうど買い手のところに付く頃を見計らって変質するよう、調整してやるよ」

「……買い手は不憫だな。その場で私が殺してやる」

「精神は健常だというのを忘れたか? 道中で丁寧に薬漬けにして大人しくさせるさ」

「貴様らっ……!」

「これで俺もようやくスッキリできる。どうか、死んだ両親のことも忘れてくれ」

 その言葉に、ネアははっとなった。先ほどの老人の言葉から、両親の事件はハイドラがらみの何者かが下手人なのだと推測していたが、それなら、この男も。

「まさか……お前……」


 するとボードマンは一瞬表情を消した。だが即座に醜く眉を寄せる。


「ったく。金になると思って入ったら、余計な抵抗をしやがってよぉ……!」


 悪辣な表情そのままに、彼は憎々しげに声を絞り出す。


「いいか? お前の家族は俺の金儲けの邪魔をしたんだ。あんなもん当然の報いだろう? お前が赴任してきてまさかとは思ったが、サンドリヨンで名前がレディングとなりゃ、あそこの娘が生きてやがったとしか思えねぇ。だからお前が着任したときからずっとこんな機会を狙ってたのさ」

「……口封じか。私がお前の素性に気づくかもと……!」


 だが、ボードマンは喉で嗤った。


「くははは……違げぇなぁ……」


 するとボードマンは乱雑にネアの制服の胸ぐらをつかんだ。ネアのブラウスのボタンが飛ぶ。


「言っただろ、お前の親は俺の邪魔をしたんだ……! しかも親父は俺の顔にこんなキズまで作りやがった……だからこれは復讐なんだよ。死んだ後も娘を弄ばれて、さぞあの世で後悔してるだろうさ!」

「っ! ボォォドマンッッ!」


 ネアは喉を引き裂かんとばかりに叫び、ボードマンを睨み付ける。


「許さない……! お前だけは、絶対に許さないっ!」

「だったらどうする? 今のお前には何もできん。いつもの二人も今は公安から逃げるので精いっぱいだろうよ。そして俺はお前を売って得た大金を持って高跳びするまでだ」


 ギリ、と歯を食いしばる。

 そこに両親の仇がいるのに……家族を奪った悪魔が、目の前で嗤っているのに……!

 手が出せない、動けない……!


「さてそろそろ出発だ。楽しい鉄道旅行といこう」


 ボードマンの声に呼応するように、重苦しい蒸気機関の音が響く。そして車両がぎしぎしと揺れて動き出した。ほどなく揺れは安定し、レールのジョイント音も規則正しくなっていく。

 それを見計らって、ボードマンはネアのブラウスの袖を捲った。ネアは必死でもがくが拘束が解けるはずもなく、その腕には注射針が向かう。


「っ……!」


 思わず目を閉じた。でも、拒絶の声だけは上げない。上げてなどやらない。無様に助けを乞うてなど、やるものか。

 しかし恐怖と同時にこみ上げる自身の無力への慨嘆は、一筋の滴となって頬を伝う。その間も悪魔の針は近づき、ついにその先端がネアの肌に触れた。

 だが、その時。

 瞬間的な爆轟と共に、車体が盛大に揺れた。


「ぐぉっ!」


 ボードマンは注射器を取り落とし、それを自身で踏んで割ってしまう。老人は少年が支えたが揺れは酷く、彼らも共に床に倒れてしまう。

 爆発はもう一度あった。ただ今度はさっきよりも少し遠い。そして揺れが収まったかと思うと、列車は停車していた。


「畜生! なんだってんだ!」


 起き上がったボードマンはネアの隣にある窓に駆け寄って布を外した。

 その瞬間、聞き覚えのある銃声がしたかと思うと、ボードマンの右肩に銃弾が突き刺さった。窓ガラスは大きく割れ、破片が車内に飛び散る。


「ぐ、おおっ……!」


 後ずさりしながら呻いて、ボードマンは肩を押さえる。相当威力の銃弾だったようで、その肩からは大量の血が滴る。


(あの銃声は、〈グレイ・ハウンド〉……?)


 そこで間髪入れず、車両の通路上にある屋根が一部抜け落ちた。そしてそこから落ちてきた黒い人影は即座にネアの元へやってくる。


「よぉ、灰かぶり姫サンドリヨン。舞踏会に行くにしちゃ、シケたもんに乗ってんな」


 黒髪黒目の彼は、皮肉気ないつもの笑みをそのままにネアを見下ろす。

 するとボードマンが呻いた。


「貴様っ……なぜ、ここに……」

「優秀なマトリがいたからな。それに鉄と石炭の臭いに交じって、ネアの香水の匂いが微かにな」

 不敵な笑みのまま、彼は素手でネアの拘束を断ち切る。その後は問答無用でネアを、所謂お姫様抱っこで抱えて、そのまま窓枠に足をかけた。


「悪いがこいつは返してもらう。ウチの姫さん舞踏会に誘うなら、もちっとマシな馬車使え」


 そして彼――いくらか汚れた戦闘制服を着たロイは、残った窓枠を蹴り壊すと、ネアと共に夜の闇に身を投げ出した。

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