5-3
「……とりあえず一息つけるか……」
街のはずれ――南部農業地帯の河川にかかる閑散とした石橋の下で、セルジオは呟いた。
橋をたたく雨は強くなる一方で、セルジオらは全身ずぶ濡れだった。
戦闘制服は各所に防水加工が施されているが、雨の中歩けばいくらかの水の浸透は避けられない。この一帯に風がないおかげでそこまで寒さは感じないが、何とかして暖は取らねばならない。消耗してはいざというとき動けなくなる。
(……犯罪者の逃げ方だな)
道中を思い出し、セルジオは苦笑する。
一度北に逃げ、すぐ西に場所を変えた。その後夜を待って南へ。自動二輪は道中で道端に隠しそこからは歩き。避難勧告が出ている上に雨で、外を歩く人の数が普段より少ないこと、黒服の麻薬取締官を見かけてもそう怪しまれないことが幸いした。検問の位置もある程度把握していたのでその点も問題はない。
そして何より、ロイの聴覚と嗅覚の鋭さはありがたかった。彼がいなければここまで順調には逃げられなかっただろう。
「それにしても……どういうことだ」
この謀略はテロの実行犯か、その協力者が仕組んだのだろう。
自分たちが自宅に戻る機会などなかったのだから、やりようはいくらでもある。しかしどれだけ雑なものであろうと、一定レベルの証拠が出てきた以上、動かねばならないのが治安組織というものだ。
逃げたのが悪手なのはわかっている。しかし公安署に戻ったところで味方がどれほどいるのかわからない。ならば身体的に自由なほうがまだ融通は利く。
「……逮捕されるにせよ、逃げるにせよ、俺たちの自由はいくらか奪われる……テロの犯人に仕立て上げたのはそれが目的だったのか……?」
だとしても一体なぜ。取締官への恨みという可能性もあるが、些か回りくどい気もする。自分たちを追い詰めることに、なんの理由があるというのか。
そこでセルジオはふと、橋脚にもたれて立つロイを見た。心なしかいつもより消耗して見える。彼の手の傷は腰のポーチの救護キットで手当てしてあるし、ロイのことだからすでに傷はふさがっているだろうが。
「お前はどう思う?」
だがその問いに、ロイは答えない。
「ロイ?」
その時、ロイはずり落ちるようにその場に座り込んだ。
「ロイ!」
セルジオは駆け寄り、彼を抱き起こす。
彼の体は小さく痙攣を繰り返していた。手袋を脱いで彼の額に触れると明らかに熱がある。
「……風邪……? いや……」
セルジオは嫌な予感がして、ロイの右手の手袋を取り去った。
「!」
巻かれた包帯の下の皮膚――いや、もはや今見える部分のすべてが青黒く変色していた。袖を捲ると、その下もすべて同じように変色している。
「どうして……」
セルジオはロイの服の首元を開けた。すると首全体にも、同じような色が広がり始めている。それはすでに首輪の部分も越えていて、あと少しで顔にも届くだろう。
しかし見ると、胸の部分や左手側に変化は少なかった。
原因は右手の傷か。だが手当の際にはこんなことにはなっていなかったはずだ。となればこの逃走時にここまで悪化したというのだろうか。
唇をかむセルジオだったが、その時ふとロイの目の変容に気が付いた。首輪をしているのに、黒目が肥大している。よく見ると犬歯も伸びていた。
「犬種化しているのか……?」
人の病ばかり脳内で検索していたセルジオだったが、彼の体質を今更のように思い出して、犬の疾患も考慮に入れる。
病変が脳へ向かうその病状に一瞬、狂犬病という単語が頭を過ったが、ロイは狂犬病ウイルスへの耐性も備えていたはずだった。
原因があの黒い破片による傷なのは間違いない。ならばあの破片には、ロイの体に影響を及ぼすレベルの特殊な毒薬でも塗られていたというのか。
しかし状況から、あの破片はあの場にあったものをレイが咄嗟に利用したと考えるのが自然だ。あの現場にあった、鋭利な黒い破片――。
まさか。
「D2アディクターの骨か……!」
あの少年が、あの場にあったアディクターの残骸に残る骨を拳に仕込んでいたのだとしたら。
デビルドロップもそうだが、あの薬は骨髄組織も変質させる。
そしてそこで作られた血液成分には、当然感染力のあるデビルダストの残滓が混じる。しかもそれは骨の内部で、空気に触れない状態で一定時間保存されるはずだ。
完全に失念していた。
デビルダストを媒介するものが唾液と血液だけと思い込み、その先へは考えが至らなかった。数日間にわたるD2アディクターとの戦闘で、変に危機意識が鈍っていたのかもしれない。
するとロイが、未だかつて聞いたことのないほど弱弱しい声で言った。
「なるほど……あのガキ。なかなかキレたことしやがる……」
無理やり唇を弧に曲げ、犬歯を覗かせる。
それを見て、セルジオは告げた。
「何で言わなかった。ここまで広がっているなら、今までも相当苦しかったはずだ」
早い段階でまともな治療をしていれば、ここまで病変が広がることはなかったかもしれない。
「ばかやろ……俺の治療なんざしてたら捕まるだろうが」
「それがどうした!」
すると張り上げた声に、ロイはどこか安堵したように目を細める。
「それじゃ意味ねーだろ。何のために逃げた。俺ら嵌めた連中に噛みつくためだろ」
そこで激しく、ロイが咳き込む。
「ロイ。もう喋るな」
「何としてでも犯人、とっ捕まえてくれよ。セルジオ」
「喋るなと言った!」
なぜ、そんなことを言うんだ。
なぜ今の言葉に、お前がいなかったんだ。
「自分の体のことは自分が一番わかる、ってな。たぶんもう……あんまり時間がねぇ。だから早く……ここから逃げろ」
見ると、もうすでに顔の下まで病変が進んでいた。想像以上に進行が、早い。
「頼む……早く……!」
その時、ロイが体を折って呻きだした。
突然のことにセルジオは手を中空に彷徨わせる。
――と、ロイがふらつきながらもその場で立ち上がった。
セルジオも思わず立ち上がって、彼に肩を貸す。
だがロイはセルジオを強く突き飛ばした。倒れることだけは何とか堪えて、ロイを見据える。
「ロイ……?」
目の色は赤く染まり、唸ってこちらに牙をむく。
そして次の瞬間、ロイがこちらに襲い掛かってきた。
間一髪かわして、距離をとる。
ロイは猫背気味になってこちらを見据えている。その目に、彼の意志は感じ取れない。
「まさか……自我を失ったのか……」
その答えとばかりに、ロイは再びセルジオに飛び掛かる。
躱したすぐ傍で、ガチリと犬歯が鳴る。
「くっ……」
橋の下から一人飛び出して、セルジオは身構えた。
今こちらに彼を鎮められそうな手はない。デビルダストによる狂暴化だとすれば、鎮静薬などありはしない。
唯一、特級危険薬物のアディクターを止めるやり方があるとすれば。
(処置……)
殺す。
それが最も確実で、ただ一つの方法。
だが自分には、それができるものがない。〈グレイ・ハウンド〉はレイと戦った際に放棄してしまったし、今ある予備マガジンもすべて空だ。道中で武器調達など不可能だったので、セルジオもロイも今はほとんど丸腰だった。あるとすれば警棒くらいだが、その程度では。
だがそこで、ロイの口から声が漏れた。
「だから……早く行けっつったんだよ……」
意識が戻ったのかとセルジオはわずかな希望に縋ろうとしたが、それを否定するように、彼は自分の服のポケットからあるものを取り出した。そしてそれをこちらに放る。手の中のそれは、〈グレイ・ハウンド〉の銃弾だった。
「……ガキと戦ってた時に……お前から渡されたやつだ。湿気らさないようにしといて正解だったぜ」
言ってロイは、こちらを見上げる。左目だけが人のそれに戻っていた。
「弾しかねぇけど、お前なら何とかできるだろ……ガンスリンガー」
「…………」
「心臓だ。弱ってっからそれで終わるだろ」
一歩、ロイがこちらに向かって踏み出した。
その姿は雨に濡れた子犬のようで、瞳は助けを乞うている。
だが彼の求めるそれは生ではなく、死だ。
「……すまねーな。セルジオ」
「だめなのか……本当に」
「お前に殺されんなら、悔いはねぇさ」
それは遠回しな肯定だった。
「だから、早く……俺が俺であるうちに、殺してくれ。俺は……お前を殺したくねぇ」
「……わがままな奴だ」
「ああ、そうさ。知ってたろ?」
「……そうだな」
するとセルジオは近くに落ちていた小石を拾い上げた。鋭利な先端を持つそれは、銃弾のプライマーを叩くには実にお誂え向きで。こうなることを予測した誰かが、ここに置いたようで。
そしてセルジオは左手にその小石を握った。銃弾は、右手に。
弾があるのだから、手段を選ばなければ今のロイを殺すのは容易い。弾頭をロイに向けて弾を握り、そのまま撃発すればいい。
そんなことをすればこちらの手がどうなるか――そんなことはどうでもよかった。今は彼を無事に殺すことさえできれば、それでいい。
二人で雨に濡れ、立ち尽くす。
髪を、頬を、滴が伝う。地に落ちて、それはすぐ河原の土に吸い込まれて。
セルジオは顔をあげて両手を構える。
そして――。
だがその瞬間、ロイの背後から銃声がした。
背後から撃たれたロイが前のめりに倒れる。
見上げると、橋の上に一人の男がいた。
ラフなシャツにスラックスを着た、ひっつめの男。
彼は黒いリボルバーを構えて、無表情でこちらを見下げている。
「ノックス……!」
その声に、男――ノックスは不敵に笑ってみせた。
「お前っ……どうして!」
思わずセルジオは彼とロイとの射線上に立ちふさがる。
「引導を渡す時だ、セルジオ」
「なんだと……」
するとノックスは銃を下し、言った。
「早くロイ連れて上がってこい。――まだ間に合う」
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