5-2
夜。
部屋をノックする音でネアは目覚めた。椅子に腰かけたまま執務机に突っ伏すように眠っていたネアは思考が淀んだ頭を振って、起き上がる。
机の端の置時計を見やると、針は午後九時を指していた。
執務をこなしていたはずだったのだが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「レディング署長?」
署長室のドアの向こうから少々しゃがれた声がして、ネアはそれに返答する。
「少し待ってほしい」
ネアは手櫛で軽く髪を梳くと、引出しの中の手鏡を手にして、身だしなみを確認する。
メイクはごく薄くしかしていないし、目立つルージュも引いていないのでそう乱れた顔つきでもなかった。軽くいつもの香水だけ吹き付けて居住まいを正す。
「どうぞ」
普段通りを心掛けて、ネアは入室を促す。
扉を体で押し開けるように入ってきたのは、ボードマンだった。
「突然すみません。まだ帰っておられないと聞きましたので、こちらではないかと」
両手に紙コップを持った彼は器用に扉を閉め、こちらに歩いてくる。
「お疲れかとは思っていましたが、現状の報告をと思いまして」
「そうか。ありがとう」
すると彼は、手の中の紙コップを軽く掲げて示した。
ネアもその意図を察して立ち上がる。いつかのペーパーナイフの傷跡そのままの、黒皮のソファに向かい、ボードマンにも着席を勧める。
「失礼します」
それだけ言って彼は着席し、ネアもそれに続く。
と、ボードマンはネアに琥珀色の液体が入った紙コップを差し出した。
「紅茶の方がお好きと聞きましたので」
「ありがとう」
紙コップは少し冷めていたが、その手の感覚だけでも目が覚める。
ボードマンは自分の分に軽く口をつけて。
「あの二人の行方は未だ知れません。付近でバイクの盗難があったそうなので、おそらく彼らではないかと。一課と組対課、協力して追っていますが、目ぼしい情報はありません」
「……そうか。他の公安署にも応援を仰ぎたいところだが、アディクターへの警戒もあるし、そもそもここの問題だ。……今はあなた方に頑張ってもらうしかない」
俯きがちに、ネア。
「それは心得ております。しかしここだけの話ですが……マトリの惨殺事件を引き起こしたのはあの二人ではないかと署内でも噂が立っているようでして」
その言葉に、ネアは顔を上げた。
「そんなことは……!」
だが言いかけて、自分のそれが根も葉もない噂と同レベルの――何の根拠もない言い分だということに気が付いた。自分はあの二人の管理者だが、彼らを信頼したうえで不必要な監視はしていない。だがそれが今、彼らのアリバイを無くしてしまっている。
ネアは言い直す。
「……それも、二人を見つければはっきりする。ボードマン刑事部長。大変な時だが、今後とも力を貸してほしい」
そこでボードマンは白髪交じりの髪をかいた。
「それはこちらの台詞です。あなたも連日の激務で疲れていらっしゃるでしょう」
「いや、私は……」
するとボードマンは立ち上がった。
「私はこれで失礼いたします。……捜索に出ているものも多くて今署内は静かですから、休むなら今ですな」
「普段厳しいあなたからそんな言葉が出るというのも、新鮮な気がするな」
「私とて、休息の必要性は理解しているつもりですよ。……すみません。紅茶、淹れなおしてきましょうか。淹れ方がよくわからんで、少し冷めてしまって」
「ああいや、大丈夫だ。頂戴する」
コップを手にしておきながらまったく飲んでいなかったことを思い出し、ネアは紅茶に口をつける。
「ボードマン。彼らを見つけたら、すぐに連絡をもらえないだろうか」
あの時、自分は彼らには何も言葉をかけられなかった。なぜ言葉が出なかったのかはわからない。……いや、そうではない。かける言葉が浮かばなかったのだ。
いざ彼らを見たら、混乱してしまって。そしてそうこうしているうちに彼らは逃げてしまった。それが後ろ暗さによる逃走でないと、ネアも信じたかったが。
だから今度は、自分の言葉で彼らと話をしようと心に決める。そうすれば、きっとあの二人は今回の容疑をもう一度強く否定してくれる。もしかしたら、自身のアリバイを証明できる術を見つけているかもしれない。だからこれは、一時の悪い夢なのだ。
とそこで、ボードマンが言った。
「承知しました」
その瞬間、なぜか視界がぼやけた。目をこすっても、焦点が合わない。
「ですがそうしたところで、もう意味はありませんな」
「――え……?」
「お疲れでしょう。お休みください」
そんな声を聴きながら、ネアの意識は、闇に落ちた。
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