四章 Ambition killed the dog.―野心は犬をも殺す―

4-1

「…………」


 瞼の裏が白んだ気がして、セルジオはふと目を開けた。

 だがそれがずっと点いている部屋の蛍光電灯の明かりだったと知って、再び目を閉じる。

 背中に当たる固い布地の感触に居心地の悪さを感じて寝返りを打とうとするが、狭いソファはそれすらも許してくれない。

 結局、セルジオは身を起こした。

 そのままソファに座って固まった肩を軽く揉む。血流が復活すると同時、思考の鈍りもいくらか回復してゆく。

 セルジオがいるのは二番署の、来賓用の待合室だった。インテリアの少ない小さな部屋にローテーブルを挟んで三人掛けのソファが二つ。

 その一つにセルジオは寝ていて、もう一つにはロイの姿。

 執務制服の上着を背もたれに脱ぎ捨て、こちらと同じ制服のシャツとスラックスという格好で憎たらしいほど気持ちよさそうに鼾をかいて眠っている。

 こんな状況でこんな場所で、よく眠れるものだと思うが、どんな時でも休息できるのは貴重なスキルだ。低血圧の自分は寝起きも悪いが、寝つきもそれほどよくはない。


(……外の空気でも吸うか)


 そしてセルジオは幸せそうに眠りこけるロイをしり目に、制服の上着を羽織って部屋を出た。



 セルジオらが公安署に泊まり込むようになってかれこれ三日が経った。

 先日ヘリオスシティ各所で起こったD2アディクターの出現は、緩慢にではあるが、昼夜問わず今なお続いている。一部避難勧告も出され、街は物々しい雰囲気に包まれていた。

 ターゲットとなっているのはヘリオスシティのみ。

 一番、二番、三番署が各所に検問を敷いてはいるが、広大なシティ全域をカバーするには至らず、まるでその隙を縫うようにアディクターは出現し続けている。

 出現のからくり自体は単純で、そして吐き気のするようなものだった。

 人――それもおそらく正常な判断のできなくなった人間の腕に、デビルダストの入ったタイマー付の自動薬物投与装置を装備させて街中に放つ。時刻になって化け物となった人間は街を彷徨い、場合によっては人を襲って数を増やす。市民の避難が進んだ今ではそれは少なくなったが、初期段階ではデビルダストの周知が一歩遅かったことと、D2アディクターの個々の戦闘力がDアディクターより低いこともあって、抗おうとした市民が犠牲になる事態も頻発した。

 なお使われた投与装置には、以前セルジオらが逮捕した三人組から押収したピルケースと似た部品や構造があり、詳細の特定はまだであるものの同じ場所で作られた可能性が高かった。

 ちなみにセルジオらが東部で出くわした大量のアディクターは、現地の浮浪者ホームレスたちが犠牲になったようだった。あの場所は有名なたまり場だったそうで、おそらく下手人は彼らをうまく言いくるめて装置を身に着けさせたのだろう。これは偶然その場に居合わせつつも投与を免れた者たちの証言であり、公安では彼らの目撃情報を元に犯人の特定を進めている。

 しかし三日とはいえアディクターとの戦闘がこれほどまでに長く続いた前例はなく、常時警戒を強いられ続けた公安組織――特に、自らも感染する危険を孕んだ処置を続ける麻薬取締官たちは、その顔に疲弊の色を濃くしつつあった。



 正面玄関から外に出たセルジオは、何をするでもなく署の敷地を歩く。

 厳戒態勢であるため数人の公安官が見張りに立っているが、それ以外は静かだった。今はアディクターの出現も落ち着いているらしい。

 ふと見上げた夜空に星は見えない。ただ銀の月光だけはいつもと変わらずしんと地上に降り注いでいる。

 そして地上に視線を戻したセルジオは、前方に灰色の波が揺れるのを見つけた。

 それが風になびく長い髪であることに気がつくのに、そう時間はかからなかった。その人物はシルトワーゲンの駐車場――その奥にある東館の渡り廊下のところで、屋根を支える柱の一つに、こちらに背を向ける形でもたれかかっている。

 セルジオはその人物に歩み寄って、背後から声をかけた。


「レディング署長」


 声をかけられ、驚いたように彼女が振り向く。

 硝子細工のような瞳が、こちらを捉えた。


「今から出動だったか?」

「いえ。私とロイは明日朝に交代です。……眠れないので、散歩でもと」

「そうか。ロイはいつも通りだな?」

「ええ。ソファでの寝方を今度聞いておきます」

「あいつの場合、寝方というより精神面での図太さが影響していると思うがな」

「かもしれません」


 ネアと話すのは久しぶりな気がした。今彼女は直接指揮を執る立場にあるので、言葉を交わすこと自体はこの三日間でも何度かあったはずだが。

 そしてセルジオは率直に聞いた。


「状況は、どうなのでしょうか」


 答えは間もなく返ってきた。


「芳しくない、というのが正直なところだ。薬物テロなのだろうが、犯人もその目的も未だ特定できないままだ」

「軍の応援は?」

「今回、敵の動きが緩慢なうえに爆発を伴う火器も使われていない。救援活動以外で軍が動くかは微妙なところだな」


 フリジニアの軍隊は自衛軍としての色が強いが、長く戦争を経験せず、古い指揮系統のために初動に時間がかかるという大きな欠点がある。

 他国では軍が実行することもあるアディクター処置を麻薬取締官が引き受けているのには、そうした軍の影響がないとも言い切れない。

 それでもフリジニアが国家として独立を保っていられるのは、強大な軍事力を持つ同盟国、アイゼンタールのおかげだろう。


「もう少しすれば救助部隊は到着するだろうが……敵は主にアディクターだ。そちらに関しては、結局私たちが主だって動くことになるだろうな」

「それも敵の狙いでしょうか」

「さあ、どうだろうな」


 その後、ややあって。


「――敵は、やはりハイドラでは?」


 彼らなら、ありうる。数日前、幹部がフリジニアに入ったというし、こうしたテロもフリジニアの公安に対しての報復だとすれば筋は通る。ヘリオスシティに固執する理由も、フリジニア経済――つまり薬剤輸出の妨害や混乱を狙ったものだとすれば可能性はある。

 唯一疑問なのは金――つまりこのテロを起こすことで彼らにどんな利益があるのかというところだが。

 するとネアは言った。


「もうすでに一部の人間には話してあるし、いいだろうな」

「……?」

「実はその線ですでに組対課の捜査が始まっている。加えて、先日フリジニアに入国したハイドラ幹部の名前と素性が割れた。幹部の名前はレイ・ハスターク――白髪の少年であるらしい」

「少年、ですか」

「珍しいことでもないさ。連中のような組織は昔から、こと実力主義という点においては、国家組織我々より進んでいる」

「情報としては確かなのですか?」

「アイゼンタールの潜入捜査専門の麻薬取締官が、組織内で直接つかんだ情報だそうだ。変わらず目的までは不明だそうだが、情報の確度は信頼できる」

「捜索は?」

「他のシティの公安がそれぞれ動いてくれている。この街に関しては、ここと一番署の組対課に一任してある」

マトリ我々は、アディクターの処置に専念すればいいわけですね」

「今のところはそうなる。……すまないな、いつも人使いが荒くて」

「構いませんよ。我々は、ドラッグドッグですから」


 その言葉に、ネアはすこし悪戯っぽく目を眇めてみせる。


「なんだ。今日はやけに饒舌だな。さては隠れて酒でも飲んだな?」

「酔い覚ましなのは、署長の方では?」

「飲むか馬鹿者」


 双方くすりと笑って、その後沈黙する。

 とそこで、ネアが口を開いた。


「気を遣わせているな」

「……いえ?」

「隠さなくていい」

「…………」


 するとセルジオは、ポケットからほとんど新品の紙巻き煙草を取り出した。


「かまいませんか?」


 それを見て、ネアは少し驚いたような顔をする。


「別にいいが……お前、煙草吸うのか。初めて知った」

「人に言うようなことでもありませんし。それにロイが嫌うので、滅多に吸いません」

「そうか……でもやっぱり意外だ」


 セルジオはオイルライターで火をつけ、自分も柱の一つに背を預ける。あまり匂いのない紫煙が上り、夜空に霧散してゆく。

 そしてセルジオは彼女に聞いた。


「やはり、デビルダストのことは……」


 だが言いかけて、それがあまりにプライベートなことだと思いなおして、セルジオは口を噤む。だがネアはセルジオの始めた会話をそのまま続けた。


「……そうだな。許せないよ。たとえどんな主張を掲げようと、有害作用しかない薬物をばらまいて、無差別に犠牲を増やすことに正義なんてないと思う」


 ネアは白く細い指を胸の前で広げ、そこに視線を落とす。


「でも私は、何より自分が情けない。デビルドロップの蔓延に歯止めをかける前に、また新たな特級危険薬物の出現を許してしまった」


 彼女は、自嘲を含んだ笑みを浮かべて、


「両親の仇を討つと、それだけで公安に入ったが、今考えると浅はかだったな。いち公安官では足りないと思ってキャリアの道まで選んだのに、結局私は無力なままだ」


 不意に細められたその瞳は吸い込まれるような魔力を秘めていた。月光の束の中で透き通る彼女の灰の髪は、白銀で紡がれた絹絲のように風に流れる。

 ――とそこで、セルジオは言った。


「昔、犬を飼っていたことがあるんです」

「犬?」


 唐突な話題に、ネアは若干目を白黒させていたが、セルジオは構わず続ける。


「ええ。実家のあるシティの、郊外で拾ってきた黒い毛並みの子犬でした」

「それもまた初耳だな」

「そうですね。これも人に話したことはないので」

「その犬、今はどうしているんだ?」

「たぶん死んでいます。成長と共に狼だということがわかって、親に取り上げられてしまったんですよ。後で聞けば、即日、保健所へ連れていかれたらしいです」

「……気に入っていたんだな?」

「はい。彼のほうも懐いてくれていたと思います。今となっては、恨まれている可能性は否定できませんが」

「…………」

「そしてその頃からです。公安官に――麻薬取締官になろうと思ったのは。麻薬取締犬というものがいると知って、どこかで彼に会えないかと子供ながらに思ったんですよ。なぜ麻薬取締犬に執着したのかは、よくわかりませんが」

「お前らしい、とは思うよ」

「そうでしょうか」


 セルジオは少し苦笑する。


「だがお前、麻薬取締官を目指していたのにいきなり公安学校に行ったんだな」

「裕福ではない家庭だったので、薬学大に行くつもりはありませんでした。幸いこの国には一般公安官から麻薬取締官への転属コースがありますから」

「ああ、なるほど」


 そしてセルジオはまっすぐネアを見つめた。


「自分がここにいる理由は、こんなものです。高尚なものでも、言ってしまえば目的が達成できるわけでもありません。ただそれを後悔しないようにはしています。もし後悔してしまったら、私が彼を好いていた事実まで否定することになってしまいますから」


 その言葉に、ネアはセルジオから顔を背けた。後れ毛が、その表情を隠す。


「……私だって後悔はしたくない。違法薬物や密売人たちの根絶だって諦めたくはない。でも、それでも……自身の無力さは……現実は、受け止めるべきだ……」


 言葉尻、ネアの声は弱く震える。彼女のそんな声を聞くのは初めてで。

 だからセルジオは、告げた。


「ロイ曰く、私と署長は似ているそうです。あまり肩肘を張るなと言われました」

「……言いそうだな、あいつなら」

「なので少し、力を抜きます」

「……?」


 するとセルジオは、彼女の頭にそっと手を置いた。


「レディング署長。あなたは抱え込みすぎる。もっと俺とロイを頼ってください。命じればいいんですよ。両親の仇を逮捕し、自分の前に連れて来いと。違法薬物とその密売人をこの国から根絶せよと」

「…………」

ドラッグドッグとして、そのくらいの忠義は持ち合わせているつもりです」


 恩返し、というとそれはそれでおこがましいが、本来扱いにくい存在である自分とロイのリードをきっちり握ってくれているのは彼女なのだ。責任ある主人を助けるのは当然のことだと、セルジオは思っていた。

 だがしばらくして、ネアは急に噴き出した。顔を伏せて肩を震わせている。

 そして小さく笑いながら、言った。


「くく……まさか、お前に口説かれるとは思っていなかったぞ?」

「……心外ですが」


 セルジオはネアの頭から手を放し、頬を掻く。


「どうせロイとの罰ゲームとか、そういうところなんだろう? 全く、しょうがない奴だ」


 ネアは堪えるように笑っていた。その様は、年相応の少女のようで。

 だがしばらく経って、彼女は笑いを吹っ切るように吐息を漏らしこちらを見上げた。


「思いがけず、いい息抜きができたよ。ありがとう」


 ネアは微笑んで東館へ足を向ける。


「少しでも眠っておけよ。忠犬セルジオ」


 最後に、そんな言葉を残して。



 

「七十点」


 来た道を戻ると、南館の建物の陰からそんな言葉が飛んできた。

 見るとそこには腕組みして壁にもたれるロイがいた。


「聞いていたのか」

「耳が無駄にいいもんでね」


 にやけた笑みで告げたロイは、さらに続ける。


「けど惜しかったな。もうチョイで落ちただろうに」


 下世話な妄想を、躊躇いもなく口にする。


「違う」


 セルジオは表情と言葉で明確な否定だけ返すが、ロイの笑みは消えない。


「じゃああれだな? 落ち込んでいるであろうネアを見つけたから励まそうってことか」

「部下としてストレス発散の手伝いをしたまでだ」


 するとその言葉に、ロイは肩に腕を回し、そのままぽんぽんと叩いてきた。

 その横顔が、なんだか異常にむかつく。

 なのでセルジオは煙草の匂いが残る吐息を、ロイの顔面に思いきり吹き付けてやった。

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