2-6

 セルジオとロイ、マリィの三人は街路から外れた人気のない路地裏の入り口で小休止していた。ロイは壁にもたれて道に座り込み、それを囲むように、セルジオとマリィ。

 ちなみにノックスは、いつの間にか消えていた。


「あの、すいません……そんな苦手だったなんて」


 言いつつも、マリィはメモになにやら書き加えている。

 なお、犬の遺伝子を組み合わせた人造人間であるロイだが、別に玉葱を食べたところで身体的には何の害もない。本人は体が受け付けないと言うが、ごく普通に苦手なだけである。

 チョコレートや柑橘のドライフルーツをアテにして、アルコールはあおるくせに、玉葱だけは過剰に忌避している。


「なぁ、アンタもしかして俺を殺しに来たヒットマンだったりしねーだろうな? 休日潰して玉葱食わせて弱ったところを……的な」

「何ですかそれ」

「あー。もういいよ……ったく、ノックスは消えちまってるし……」

「え、ウソ!? あぁっ! ホントだいない!」


 気づいていなかったらしいマリィは大げさな仕草で頭を抱える。

 そんなマリィはとりあえず放置して、セルジオはロイに視線を送る。


「そろそろ慣れたらどうだ? 害はないんだぞ?」

「無理だ。本能的に」


 ひらひらと振られるロイの手。

 しかしその時、それが中途半端に止まった。


「…………」


 セルジオもその気配に気づくが、不用意に事を荒立てないためにその場で静止する。

 そして。


「んむっ……!」


 マリィが路地の奥から走ってきたタンクトップのいかつい大男に捕まえられた。口にタオルを当てられがっしりと身を拘束される。路地の奥の角に潜んでいたらしく、そこからは数人の男がぞろぞろと顔を出す。


「んふーっ、んふふーっ!」


 タオルに薬品の類は仕込まれていないようで、マリィは意識を保ったまま無言でばたばたともがいている。ただその細腕では大男の拘束は解けまい。


「なんのつもりだ?」


 セルジオは自身の背後で、固い物体――拳銃、それも消音装置サプレッサー付のものだろう――を突きつけている人物に問う。いつの間にか、自身の背後にも数人の気配がある。


「ちょいと付き合ってほしくてね」


 顔は見えないが、声音から察する年齢は二十代前半、自分たちと変わらない程度だろう。

 見える限り見たところ、他の人間も全員十代後半から二十代前半の青年。年相応のカジュアルな服装に身を包んでいた。マリィを捕まえている男だけ見てくれに差があるが……こちらは彼らとは別の『雇われ』なのかもしれない。


「そこの調子悪そうなのも一緒に行こうぜ。この路地の奥に、いいカフェがあってね」

「…………」

「まぁおとなしくついてきてくれよ。ここで殺したくはないしな」


 素人だ、とセルジオは思った。

 ファーストコンタクトの取り方、囲み方、立ち位置まで、まるでなっていない。

 背後の彼に至ってはこちらが簡単に足を払える位置に立っているし、拳銃の重さに手が負けて、銃口が若干下向きになっている。


(公安署の前からの気配はこいつらか……)


 やはりトランシーバーは借りておくべきだったかもしれない。


(だが――)


 ちらりとロイを見やると、彼は特に何も言わずじっとしていた。彼も公安署を出た段階で気配には気づいていただろうが。


(……あえて誘いに乗るか)


 大方、取締官を狙った報復だろう。自分たちは顔も割れているし特定するのは容易い。前にも一度似たようなことがあった。

 しかしこの場からの脱出は、彼らの言うカフェとやらを見てからにしたかった。ある地点に誘うということは、彼らはいわば斥候である可能性が高い。つまり拠点には他の仲間――ボスがいるはずである。こういう報復は元を絶たなければまた別の取締官相手にも同じことが繰り返されるので、叩けるときに叩くべきだ。

 巻き込まれたマリィは不憫だが、少し耐えてもらうしかない。最悪ロイがいるし、マリィ一人を脱出させることくらいは十分可能だろう。

 セルジオは相手に分からないようにロイと視線を交わし、言った。


「わかった。従おう」


 セルジオが告げると背後の男は数人に指示を出し、ロイを起こして両脇から抱えさせる。一人が背後から銃を突きつけるのも、忘れない。

 そしてセルジオらは相手の指示通り、路地の奥へ向かって歩を進めた。



 ほどなくして、三人は路地に面したセメント・コンクリート製の建物の前まで連れてこられた。相手の一人が壁面にある鋼鉄の扉を押し開ける。


「入れ」


 と、これは背後の誰か。

 促され、三人は建物――内装が撤去された元事務所とでもいうべき空間に足を踏み入れる。入ったと同時、湿ったかびの臭いが鼻孔を突き、停滞した空気が肌を撫ぜる。

 窓はあるが日光はほとんど入らず薄暗い。柱の少ない開けた部屋で天井は低く、床には大きめのタイルが敷かれていた。ただそれも多くが割れて、その隙間からは名も知らぬ雑草が顔を覗かせている。

 そして中には、さらに十人ほどの人間がいた。こちらもおそらく全員男。年齢も同じく二十代前半ほどで、服装の雰囲気もさっきの連中とよく似ている。

 そこでセルジオらは床に突き飛ばされるように解放された。セルジオは何とか姿勢を保ったが、ロイとマリィは勢いのままに床に倒れこむ。

 同時に、入ってきた鉄扉が閉められ、その前にはセルジオらを導いてきた男たちが並ぶ。総勢で二十名余りに囲まれ、セルジオは改めて周囲を一瞥した。


「カフェテリアにしては、掃除が行き届いていないようだが」

「ンだよ。この雰囲気を楽しめないとは、無粋だな」


 まったく面白くない誰かのその言葉を皮切りに、笑い声がさざめく。

 目線を下げると、写真機を抱えて俯きがちに震えているマリィの姿があった。連れてこられる途中で抵抗が弱くなっていっていたのは知っていたが、年端もいかぬ少女にこれはキツイ状況だろう。

 すると今まで倒れていたロイがふらりと立ち上がった。そして小声で、マリィに語りかける。


「ま、安心しろよ。少なくともアンタは無事に帰してやっから」

「…………」


 マリィは答えない。やはり相当この状況が堪えているらしい。

 と、マリィが小さく声を発した。


「……い」

「……? どーした?」


 瞬間、マリィはがばっと顔をあげ、小声気味にではあるがまくしたてる。


「すごいっ! 暴漢に襲われて監禁……それから脱出を試みる公安官とか、映画みたいじゃないですかっ! やっぱ都会は違いますねぇっ♪」


 恍惚とした表情で写真機を抱えてみせるマリィ。


「なんつーか。すげーな。お前」


 セルジオも同意見だった。彼女はさぞかし、立派な記者になることだろう。

 その時、建物内に声が響いた。


「何かこそこそ喋っているようだが、命乞いの相談かな」


 それはまるで舞台の上の演者のような発声だった。前方に並ぶ人間がざっと左右に分かれ、空間を空ける。

 するとその奥――ドアのない部屋の入り口から、さらに五人の男が入ってきた。こちらは二十代後半ごろの集団だ。服装はみな統一されたカジュアルな黒のジャケット。そしてそれぞれタイプは違うが全員かなりの美形であった。若干、なぜかくたびれたような印象は受けるが。


(……? どこかで……)


 知っている顔だったが、いまいち思い出せない。

 とそこで、横一列に並んだ五人組の中心にいる一人が口を開いた。


「この前はよくもやってくれたな」


 言って彼は端正な顔を醜悪に歪める。

 声は、先ほどかけられた声と同じだった。立ち位置からも察するに、彼がこのグループのリーダーなのだろう。


「やはり怨恨か」

「当たり前だ。派手に俺たちのグループを見世物にしやがって」


 その言葉から察するに、どこかで摘発された麻薬密売組織の残党か。摘発自体は組対課が行っていることもあるのだが、そんなことは彼らには関係ないのだろう。

 そして男は声高に叫ぶ。


「よくも! よくも俺たちの人生をめちゃくちゃにしやがってっ!」


 さらに男は、びしりと人差し指を立ててこちらを指し示した。

 だがその先端はセルジオやロイではなく――明らかにマリィに向けられていた。


「お前! フリジニア・ミラーのマリィ・カーチェスだな!」

「は、はい?」

「お前……お前があんなスクープ撮らなきゃ、こんなことにはならなかったんだぁっ!」

「「……は?」」


 セルジオとロイは同時に疑問符を頭上に浮かべた。


「フリジニア・ミラーのツテを使って調べさせてもらった! 新人記者のマリィ・カーチェス! ……貴様を探して半月と六日と十時間半……アイビスシティにいると思ったらこんなとこに配属されてやがって!」

「え、え?」

「この盗撮女がっ! よくも俺たち『ファイア・グラフィック』を貶めてくれたな!」


 そこまで言われて、セルジオもさすがにピンときた。ファイア・グラフィック――マリィが二股スクープを押さえたとかいう五人組の歌手グループの名だ。

 ロイもぽむ、と手を打って、


「おー。お前らがあのファイアグラか」

「そこぉ! ED治療薬みたいな略し方はやめろぉっ!」


 ツッコまなければ大してわからないだろうに、とセルジオは胸中でつぶやく。


「ともかくっ! 俺たちの人生をぶっ壊しやがったそこの盗撮女を許すわけにはいかんっ!」

「と、盗撮盗撮言わないでください! あくまで公道でのことですし、あれは記者としての正当なお仕事ですっ!」

「黙れっ! あんなもんどう言い繕っても盗撮だ! 俺たちはお前のせいで活動自粛を余儀なくされてあれよあれよと仕事が激減っ! ファンや放送局からの信頼もなくしたんだぞっ!」

「二股なんてかけてる方が悪いんじゃないですか!」

「せっかく美形に生まれたんだから利用しなきゃ損だろーがっ!」


 むちゃくちゃな持論を振りかざし、地団駄まで踏んで男ががなる。確か彼はグループのリーダーだったはずだが……名前は忘れた。


「なぁおい……俺たちに復讐とか、そーいうのはねーのか?」

「あ? 正直お前らにゃ用はねぇよ。まぁどうせそいつのツレだろ? 知ってるぜ、公安の記者クラブの人間だ」


 どうやってるのか、この薄暗い中で白い歯をわざとらしいほどきらりと光らせて、リーダーがウザったいキメ顔で推理してみせる。


「制服でないのが仇になったか……」

「らしーな」


 セルジオもロイもどうしたものかと頬をかく。

 だがリーダーは一人舞い上がり、話を聞きそうにない。


「ついにこの時が来たんだ! やっとこの手で憎き相手を葬ることができるんだぁっ……!」


 男泣くリーダーを他のメンバーが慰め、最初に部屋にいた十人ほどの青年たちがそれに加わる。たぶん、ファイア・グラフィックの事務所の後輩とか、そんなところだと思うが。

 背後にいた人間も同じく後輩のようで、リーダーらに尊敬を込めた熱い視線を送っている。……マリィを捕えていた大男も、である。

 そして小芝居をひとしきり終えると、全員こちらに向き直った。


「さて、では諸君。あの憎き女をここで始末してしまおう。これで復讐は完遂される……!」


 うおおおおおおおおおおお……!

 青年たちの熱い歓声が室内にこだまする。


「ったくマジかこいつら――」

「構えぃっ!」


 リーダーの声に、各々どこからともなく鉄パイプやらナイフやらの武器を取り出す。中には拳銃を携帯する者も数名いた。


「おい待てお前らっ! ンなくだらねーことで騒ぎ起こすんじゃねぇっ!」


 ロイが叫ぶが、その言葉にリーダーが反応した。


「くだらない、だと……?」


 リーダーがグッと拳を握る。


「今くだらないと言いやがったな……!」


 その瞳には明らかな憎悪が煮えたぎる。無駄に刺激してしまったらしい。


「もう知ったことか! 男二人もリンチだ! やっちまえぇっ!」


 声と同時、青年らが一斉に突撃してくる。


「ロイ!」

「任せとけ!」


 セルジオとロイは前後にマリィを庇うように背中合わせに立つ。そして前陣と後陣から先頭を切って向かってきた青年の攻撃をそれぞれかわして、ほぼ同時にその顎に拳を叩き込んだ。


「「ぶっふぅっ……!」」


 同じような断末魔をあげて、二人の青年が一撃でノックアウトされる。顎を狙った鋭い一撃は軽い脳震盪を誘発しているはずだった。外傷は残らないようにしたつもりだが、しばらくは立ち上がれないだろう。


「こんにゃろぉっ!」


 懲りずにさらに複数の青年がセルジオとロイに向かう。

 だがまったく連携が取れておらず、セルジオらからすれば彼らの攻撃は一人一人を順番に相手にしているようにしか思えないものだった。おまけに味方がいるせいで拳銃を持った者が射撃をためらっている始末だ。

 鈍い打撃音と呻きが連続する。


「ぶっ!」

「がっ!」

「ひぐっ!」


 カシィッ。


「ぐほぉっ!」


 カシィッ。


「ごへぇっ!」


 カシィッ。


「撮るなバカたれぇっ!」


 戦闘の合間の一瞬で、ロイがマリィの頭をはたいた。


「ったぁーい!」


 いつの間にか写真機を構えていた彼女は、ベレー帽ごと頭を押さえて呻く。


「半分お前のせいでこんなんなってんだぞ! ちったぁ大人しくしてやがれ!」


 言いながらも、ロイは目の前の男の攻撃を捌いて一撃を叩き込む。

 だがその時、セルジオはわずかな気配――冷たい鉄の殺気を感じた。

 ほぼ直感だったがそれは正しく、気配の先――乱闘の中心から少し外れたところで、一人の青年がやけにゴツイ回転式拳銃リボルバーを構え、引き金を引こうとしていた。まだ味方はいたが、数が減って多少狙いやすくはなっている。


「っ!」


 セルジオは咄嗟に腰の拳銃を取り出して撃発可能な状態にし、彼に向けた。

 同時にロイがリカバリーに入り、照準――。

 コンマ数秒の差だった。

 先に発射されたセルジオの弾丸が、相手の銃口に吸い込まれる。互いの弾丸が内部で炸裂し、巨大なリボルバーは銃身と弾倉部シリンダーを分離させて吹き飛んだ。装填されていた数発の弾丸が周囲にばら撒かれる。


「っく……」


 相手の男は指を抑えてその場で蹲る。大きすぎる――おそらく五十口径の――拳銃を無理に扱おうとしたリスクは大きかった。マグナム弾暴発の衝撃で指は二、三本折れているはずだ。

 するとその銃声を機に青年らの攻撃が止まった。

 近場にいた者一人をロイが蹴り飛ばすが、残り七名ほどとなった者たちは一様に距離を取る。


「お前ら……何者なんだ……」


 誰かのその言葉を聞いて、セルジオとロイは懐から、公安手帳を取り出して掲げた。


「ヘリオスシティ第二公安署所属の麻薬取締官。セルジオ・マックフォート」

「同じく、ロイ・ブラウン」


 黒皮の手帳に埋め込まれた公安シンボルマークが、僅かな陽光を反射してきらりと光る。


「こ、公安官っ!? そんな、まさか……!」


 とこれは、リーダーの男。


(……公安署をから出てきたのを知っているなら、その可能性も考えられるだろうに……)


 ツッコみかけたセルジオだったが、とりあえず懸命にその一言は呑み込む。


「どーだ。ビビったか? 脅迫に暴行、そしてお前らはそれを指示してた。マトリとはいえ公安官だ。全員まとめてしょっ引いてやるよ」

「くっ……」


 ファイア・グラフィックのメンバーが苦渋の表情で各々後退する。

 だがリーダーだけは、俯きがちに、じっとその場で立ち尽くしていた。

 しかもあろうことか、


「ふっ……くくくくく……」


 身震いして小さく笑っている。


「どーした? 自分の馬鹿さ加減に笑えてきたか?」


 ロイが茶々を入れるが、リーダーはそれに反応しない。だがあるとき唐突に、彼は懐から小包装された注射器を取り出した。その注射筒シリンジの中は白く濁っている。


(薬……?)


 リーダーは自分の体で覆うようにそれを持っている。こちらの銃を警戒してのことだろう。自然と残りの仲間も、彼を隠すように再集結した。


「おい、薬一つで何ができるってんだ。いい加減諦めろ」


 目視だけでは、何の薬か――いや、薬であるかさえもわからない。

 隣のロイもシリンジの中身がなんであるか、判断しかねているようだった。臭気を閉じ込める特殊な注射器は存在するので、それ自体は異常なことではないが。

 するとセルジオらの胸中の疑問に答えるように、男は告げた。


「これはドーピング剤だ」

「ドーピング……?」


 ドーピング剤――精神や肉体に働きかけ、一時的に気分を高揚させたり、能力を高める薬だ。向精神薬も含まれるので大ざっぱにいえば麻薬ということになる。しかしセルジオは疑問だった。体か精神か、あるいはそのどちらともに作用するとしても、この状況を逆転させるほどの効果があるとは思えない。むしろ毒薬だとでも言われたほうがこちらは動き辛くなる。


「値は張ったが、効果絶大なレアものなんだとさ。これでそこの女もろともぶっ殺してやる」


 そこでセルジオは鋭く告げた。


「やめておけ。どんな危険な薬物かもわからない。最悪死ぬ可能性もあるぞ」

「うるさい! 干されて仕事もなくなった! 俺にゃもう後がねぇんだよっ!」


 言うが早いか、彼は注射器の包装を取り去ると、一切のためらいなく自分の腕に突き刺した。そして中身を注入し始める。


「ちっ……!」


 セルジオは即座に注射器を握ったリーダーの手に向かって銃撃した。弾丸は彼の前に重なる男らの僅かな体の隙間を一瞬で抜け、リーダーの手ごと、握られていた注射器を撃ち抜く。

 注射器の破片と、妙に粘性があるらしい中の白い液体が、男の血と混じって手の中からぽとぽとと落ちた。

 だがそこで、ロイが眉間に皺を寄せて呟いた。


「おい、似てやがるぞ、あの薬……」

「なに……?」


 その時。


 ぼこん。


 急にリーダーの背部の衣服が膨張した。


「!?」


 そして彼の皮膚がみるみる青黒く変色し、爛れるように変化する。体の膨張はそこまで顕著ではないが背後の一点――頸椎の辺りが異常に盛り上がっている。

 そこで初めて、隣に立つメンバーがその異変に気付いた。


「リ……リーダー……?」


 その間も、彼の体は変質してゆき、そこには腐敗人グールのような一体の化け物が一瞬で出来上がった。


「あの薬の効果なのか……?」

「だろうな……Dアディクターと同じ臭いだぜ。それに、投与前の薬からも同じ臭いがあった」

「ならあれも、デビルドロップということなのか……?」


 だが、デビルドロップによる肉体変質はあくまで体内の残留薬物量が鍵になる。大量に投与された場合はその限りでないが、その場合はたいてい肉体変質を待たずに心停止によるショック死が先に来る。そして宿主が死ねば、デビルドロップはその侵食を止めるはずである。

 つまりあの薬はデビルドロップと似て非なる薬ということだ。


「くる。くるくるクルくるクるクるくくるくるくクルクククカクカカカカカカカカカカ――」


 化け物の喘鳴をともなった声が反響し、それは徐々にただの音になる。

 そしてロイは、この状況でもこの場に留まっているメンバーとその仲間に告げた。


「早く逃げろ! 動けねぇ奴らは誰か外へ運んでやれ!」


 その言葉は、彼らに事態を再認識させた。


「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 その場にいた青年たちが蹴飛ばされたように出口に向かって駆け出す。セルジオらにやられた者も、他の仲間に担がれて外へ。

 しかしこの期に及んで、最後までリーダーの傍を離れようとしていないファイア・グラフィックのメンバー二人がいた。彼らはリーダーの正気を信じて必死で彼に呼びかけている。


「離れろ! 死にたいのか!」


 そのロイの言葉と同時だった。

 化け物となったリーダーの腕にその二人がそれぞれ掴まった。


「!」


 一瞬だった。

 二人のその喉笛を、化け物が噛み千切る。

 異変は、さらに続く。

 噛みつかれた者の体が、リーダーと同じく変容を始めた。


「ひいあ、あ、ア、あ、あ、あっああっはは、ははっ!」

「なんあ――あ、ひ、ひっはっははひっひひひひ!」


 体は同じく爛れ、頸椎の部分が異常に盛り上がる。そして増殖した二体の化け物も次なる犠牲者を求めるようにゆらりゆらりと歩き出した。


「おいおいおい、やばくねぇか」

「接触感染……いや、体液感染か……?」


 詳細は分からないが、あの体に直接触れるようなことはまずい。なにより、あれをこの中から出すわけにはいかない。

 セルジオは、まだ逃げずに留まっている少女に告げた。


「マリィさん、取材は中止です。すぐにここから避難を。そして二番署に通報してほしい。F‐二五地区の路地裏。俺たちの名前を出して、未知薬物の中毒者が出たと伝えてください」


 未知薬物とは、一般に存在が周知されておらず、かつその作用機序に極端な異常性があるものを指した言葉だ。そしてフリジニアではこの薬物の中毒者はXアディクターと呼称される。


「え、あ、あの……お二人は……?」

「いいから、早く行け!」

「は、はいぃっ!」


 マリィは青年たちの後を追うように鉄扉に向かい、外へ出る。

 一拍の静寂の後、ロイ。


「……空気感染じゃなさそうなのが、幸いだな」

「そうなるともはやウイルスだ。俺たちの管轄じゃない」

「これも大概だと思うがね。……で、どうする?」


 Xアディクターへの対処と判断はその場の麻薬取締官に一任される。

 それにはデビルドロップと同じく殺害処置も含まれるが、後で司法局から違法性を示す書類が届けば処置ミスとして検挙される羽目になる。当然、公安の権威失墜にもつながる事態だ。


「……迷ってるか?」


 と、ロイ。

 通常の薬なら殺害まで考える必要はない。しかし今回ばかりはデビルドロップに類似する作用機序の薬物だ。ここで活動を停止させなければまずいだろう。現に犠牲者が二人出ている。そしてセルジオは懐中時計を取り出すと時刻を確認し、決断した。


「Dアディクターと同じ対処だ。彼らはここで止める」


 その答えに、ロイは口の端を上げる。


「同感だ。なんかあったら始末書は半分書いてやるぜ」


 だがそこで、セルジオは告げた。


「今回お前はあくまでサポートだ」

「はぁ?」

「感染の危険がある以上、近接攻撃はさせられん。アタッカーは俺が務める」

「アタッカーってお前、ろくな銃持ってねーだろうが」

「近接攻撃しかできないお前よりマシだ。それに、武器ならある」


 言ってセルジオは足元に転がっていた銃弾を拾い上げた。それは先ほどセルジオが破壊したリボルバーの弾丸――五十口径のマグナム弾。

 しかしそれはセルジオの持っている拳銃には合わない弾丸だ。元の銃はないし、口径が大きすぎる。だがロイは再び口角を上げると、


「なるほどな」

「首輪を外せ」

「りょーかい」


 ロイの目が赤黒く光り、犬歯が伸びる。

 その間も、茫漠とした廃墟の中で生まれた三体の化け物は、まるでセルジオらに救いを求めるように迫る。

 そして次の瞬間、セルジオは叫んだ。


BRING!取ってこい!


 同時に二人が動く。ロイはアディクターの後方に向かい、セルジオはアディクターとの距離を十分に取りつつ、銃撃でアディクターの注意を引く。

 乾いた銃声が連続し、銃弾はそれぞれの化け物の頭部へ。すると頭部は標準口径の弾丸でもある程度損傷した。


(Dアディクターより脆い……?)


 銃創は再生しつつあるが、一般的な銃でもある程度効くらしい。しかもDアディクターに比べて動きも鈍いようだ。先ほどファイア・グラフィックのメンバーを捕えた動きをみるに、間合いに入るとその限りではないのかもしれないが、遠巻きに攻撃する分には問題ない。


(だが攻撃を受ければ感染するというのは……)


 精神的な面でのプレッシャーは大きい。遠距離とはいえ一歩間違えば自分がアディクターとなってしまうだろう。

 しかもダメージがあるとはいえ再生能力のせいであと一歩決定打がない。

 弱点はおそらく頭だろうが、一気に吹き飛ばさなければ確殺できない。


「やはり、これしかないか」


 するとそこで、セルジオは汗ばむ手でマガジンリリースボタンを押し込み、撃ち切ったマガジンを腰の帯革にある予備のものと変えた。今持っている予備マガジンはあとこれ一本だけだ。

 そしてセルジオはアディクターを正眼に捉え、先ほど拾ったマグナム弾を自分の前に放った。次いで持っている銃でその銃弾を狙う。

 マグナム弾は不規則に回転しながらに重力に引かれる。だがあるポイントでセルジオに底面――銃用雷管プライマーを向けた。

 その瞬間、セルジオは引き金を引いた。


 ダンッ!

 ガァンッッ!


 銃声が連続し、プライマーを叩かれたマグナム弾が空中で弾頭を吐き出す。そしてそれは迫る化け物の頭部を大きく吹き飛ばした。

 マグナム弾を受けたアディクターは黒い骨と脳漿を撒き散らしその場で倒れる。それ以上は動かず、体は徐々に腐敗を始めた。セルジオはその心臓を狙って護身銃を撃ち込み、一体のアディクターの活動を完全に止める。

 アディクターは、残り二体。

 そこで、アディクターらの背後からロイの声がした。


「すまん、使えそうなのは二発だけだ!」


 同時に、中空に真鍮色の煌めきが見えた。

 それは放物線を描いてアディクターらの頭上を飛び越え、セルジオが差し出した手の中に綺麗に収まる。


「上出来だ」


 するとセルジオは即座に、さっきと同じ要領でマグナム弾を、今度は二発同時に放る。そしてそれに向かって照準し――撃発!

 銃声が連続し、マグナム弾がアディクターの顔面でそれぞれ弾ける。

 糸を失った操り人形マリオネットさながらに、その体は地に落ちた。セルジオは油断なく心臓を狙い、アディクターらを完全に沈黙させる。

 ――と、部屋の奥から軽い足取りでロイが歩いてきた。


「さすがだな。俺の運用試験なんつー命令がなきゃ心置きなくサボるんだが」

「バディシステムの実験は嘘じゃない」


 セルジオはその彼に首輪を放り、充満し始めた腐臭に眉をひそめる。

 今一度アディクターの残骸に目を向けると、首に張り付くようにわずかに残った顔の下半分が歪むように笑っていた。表情筋の硬直と痙攣で作られる笑み――頭部の破壊を必要とするため滅多に確認できないが、これはDアディクターにも見られる特有の死後反応のひとつだ。

 凄愴な見た目に反して作られる微笑――それが惨苦からの解放を意味するのか、あるいは断罪人への嗤笑なのか。これを見るたびセルジオはいつも考える。


「こんな薬まで出回ってきたのか……?」

「初めてだな。デビルドロップをベースに薬効を変えた新薬、ってとこかね。こっちは向精神薬でもねぇ完全な有害薬物みたいだが」


 麻薬の密売組織は薬の違法売買だけでなく、その変造、より強力な新薬の製造にも余念がない。政府も法整備による対応を行っているが、包括的な規制は真っ当な新薬開発の妨げになるし、逆に対象を絞ると今度は抜け道が多くなるという何とももどかしい状況が続いている。


「……とりあえず、検分を待つか」


 彼らの遺体と先ほどの注射器は、薬物捜査研究局に送られることになるだろう。そこで詳しく解析され、早ければ明日にでも結果が出る。今はマリィが呼んでくれたであろう応援の到着を待つしかない。

 そしてその後。

 腐臭に耐え切れなくなった二人は、新鮮な空気を求めて外へ出た。

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