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(……異常だ。あの薬は)


 東館三階の窓辺から駐車場を見下ろし、ネアは胸中で呟いた。

 今そこでは、セルジオとロイによってDアディクターの処置が終わったところである。

 ――デビルドロップ。

 悪魔の滴、悪魔の飴という名でも呼ばれる薬物で、麻薬及び向精神薬取締法においては唯一、『特級危険薬物』に指定されている非合法薬物である。最初の開発者は不明だが、元はフリジニアで作られたといわれる薬だ。

 使用方法はおもに静脈注射。中枢神経に作用し、投与と同時に圧倒的な快楽をもたらし、一度の使用でも重度の中毒症状が出る。投与時の興奮作用で心停止しないよう、ある程度量を加減して投与するのが基本とされる。

 薬そのものは水銀のような非常に粘性の高い黒い液体で、薬の段階では無臭。また人体投与される前の状態で空気に触れると猛烈な酸化反応が起こり、薬としての効果が消滅してしまう。そのため主にアンプル剤の形で、特殊加工した注射器ごと売買される。またその作用機序の特殊性から医療や産業で使われることは一切ない。

 ――当然だ。あの薬は人を化け物に変えるのだから。

 ネアは暗がりの中、デビルドロップによって変質した元人間の遺体に視線を移す。

 人体に投与されたデビルドロップは強烈な快楽をもたらした後、その一部が体内に残留し、人体のタンパク質に巧妙に擬態する。そして連続した投与でその残留薬物がある一定の量を超えると擬態を解き、宿主の体と精神を乗っ取り始める。侵食の程度はステージⅠからⅣまでの四段階に分けられており、発症から最終段階までは約二十分ほどだ。そしてこうなると、嗅覚の強い動物にのみ検知できる独特の臭気を発するようになる。

 許容できる残留薬の量はほとんどの人間で一定だが、発症タイミングには個人差があり、擬態時にはいかなる薬物検査にも反応が出ないし臭気検知も不可能。自覚症状も一切ない。

 ちなみに大量に投与した場合でも稀に死亡せず、即座に完全発症を迎えることがある。

 そして発症後の人体は筋肉、骨、内臓、神経、血液に至る全てが短時間で汚染され、最終的に前頭葉の活動までもが停止する――つまり思考や理性を失うのだ。それでいて、残った本能は、主に人間を敵対生物と認識しやすいという厄介な傾向を持つようになる。

 中毒者からの他者への感染などはないが、強靭に変化した肉体でふるわれる無差別な暴力は人間にとって脅威でしかない。

 彼らを元に戻す術は今のところなく、確実に彼らの活動を止める方法といえば殺害しかない。

 昔は政府が隔離を実施したらしいが、隔離施設内での職員死亡事故が相次いだことから、今のような形になったという経緯がある。


「…………」


 下で後始末が始まったのを見て、ネアは無言で踵を返す。 

 するとその時、こちらに近づく足音を聞いた。

 見ると廊下の奥から、執務制服を着たダン・ウェーバーが歩いてきていた。


「……遺体引き渡しから戻ってきてみれば、酷い騒ぎですな」

「まったくだ。……すまないがもう一度、焼却施設まで足を運んでもらうことになりそうだ」

「かまいませんよ。仕事ですから」


 そこでダンは窓の外を見る。そして一言。


「増えていますね。確実に」

「……ああ」


 彼の言う通り、年々デビルドロップの中毒者は増加傾向にある。

 その製造には特殊な環境下で薬漬けにされた人間の遺灰が使われるというが、麻薬の密売人たちは監視と規制の網を狡猾に、巧妙に掻い潜って利益拡大を続けている。

 加えてデビルドロップは高価で希少な薬でありながら、組織の足切りとしても使われるという側面がある。つまり末端使用者が望まなくても何らかの形で体に投与されることがあるのだ。おまけにこの国は昔から薬が身近な分、薬に対する警戒心が低い傾向がある。その点も被害拡大に拍車をかけているわけである。

 よって今現在フリジニア政府は、自国の薬学が生み出してしまったデビルドロップの根絶に躍起になっている。


(そして、彼を作り出した)


 今一度窓辺に寄って、ネアはロイを見つめる。

 対Dアディクターを想定してこの国が極秘に作り出した、複数の犬種の遺伝子を持ち、デビルドロップを含めた各種薬物にも一定の耐性を有する試作型人造人間ロイ・ブラウン。そしてそのロイに唯一気に入られ、彼のパートナーとなるべく最年少で麻薬取締官となることを強制されたセルジオ・マックフォート。

 彼らはこの国の麻薬取締官としては相当イレギュラーな存在だ。

 二人の着任は半年ほど前。管理者に選ばれたのが自分だった。……まぁ、押し付けられたといってもいいのかもしれないが。

 彼らに政府が命じたのは、ロイの正体を隠しつつもDアディクターの処置をできるだけ多く引き受け、ロイの運用試験をすること。よってDアディクター絡みの事件や通報には可能な限り彼らが出向いている。その命令には長期に渡りがちな一般的な捜査への参加を禁ずるという意味も含まれており、彼らが麻薬取締官として平時にやれそうなことといえば、単発の『雑草抜き』くらいのものである。

 そして彼らはこの半年間、その命令に背くことなく主に二人だけでDアディクターを処置し続けている。

 それにはロイの力が絶大だということもあるが、セルジオの技能がずば抜けていることも大いに関係している。最年少で公安最高峰の銃使い『ガンスリンガー』の称号を得た実力は、伊達ではないということだ。

 だがその代償というべきか、あの二人にはアディクターを冷徹に『処理』する悪魔のようなイメージがついてしまった。本来五名以上で行うはずの『Dアディクター処置』を二人でやってのけるのだから当然ともいえる。むしろ高い戦闘力の理由がわかるDアディクターよりも、彼らのほうが不気味がられている節もあるほどだ。


「この人殺しっ!! ジェシカを返せぇっ!!」


 その声は、唐突だった。

 見ると下の駐車場で、一人の男が公安官らの制止を振り切ってセルジオらに向かってがなっていた。確か、今日セルジオらが逮捕した例の三人組の一人だ。


「てめぇら薬の専門家なんだろう!? なんで助けてくれねぇんだっ! ジェシカはきっと騙されたんだ! あいつは殺されるようなことはしてねぇんだよっ!」


 彼の主張は身勝手で傲慢なものだった。しかし悲惨な事実をすんなりと呑み込める人間は少ない。麻薬取締官によって処置された者の肉親や友人が、取締官に対して憎悪をぶつけてくるというのは珍しくない。死刑制度のない国となれば、なおさら。

 ――現にネアも、自分の父親に処置を施した取締官に対して割り切ることができるかと言われれば、複雑なところがあった。

 だがDアディクターを殺す者がいなければ、社会秩序は崩壊する。現にこの薬物が騒がれだした当初は数十人クラスの民間人死傷者を出すような事件が頻発していた。

 すると、ダンが言った。


「疾患というものを個体恒常性の破綻と捉えるならば、あの薬はまさに疾患そのものです。我が国の薬物療法の理念に真っ向から反するものであると、私は常々考えております」


 ネアは小さく首肯した。


「その通りだ。あんなもの、蔓延らせていいはずはない」


 声と共に吐き出されたわずかな呼気は、ネアの目の前の窓ガラスを一瞬曇らせた。


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