1-9

「状況はどうなっています?」


 第三取調室に着くなり、セルジオは近くの男性公安官にそう告げた。

 すぐ後ろにはロイの姿もある。

 二人の衣服は黒い戦闘制服。セルジオの腰には帯革と共にポーチや警棒、銀色の大型拳銃を収めたホルスターがある。しかしやはりロイは、そうした武器を持っていない。

 声をかけられた相手の公安官はセルジオらを見て一瞬動揺するような表情を見せた。だが彼はすぐに答えを返す。


「……発症疑いの容疑者はまだ取調室の中です。中の映像記録装置はすでに破壊されていて……中の様子はわかりません。対象の意識レベルも不明です」

「ステージ予測は?」

「Dアディクターだとするなら、既にスリーには達しているかと」

「……で、お前らは何してたんだ?」


 ロイの言葉の先には、いくらか怯えた様子で取締犬を従える男性の麻薬取締官が二人。


「……と、突入すべきか、判断しかねていたところだ。二人だけで無鉄砲に飛び込めるか」


 通常、Dアディクターは五人以上のチームで囲って処置する。彼の言葉はもっともである。

 だがロイは乾いた笑いを漏らしつつ、彼から視線を外した。

 と、その時。

 取調室の壁が野太い打撃音と共に一度振動した。

 するとそれは次第に連続するようになり、壁には徐々に亀裂が走り始める。


「ロイ! 容疑者の状態を予測できるか?」


 セルジオが鋭く声を飛ばず。


「そうだな。臭いだけの判断だが、ステージⅠ発症から約十八分ってとこか。最終段階まであと二分。体の変質は大方終わってるらしい。足音は一つ。あとは何かを引きずる音がするが……これは腕が床引っ掻いてるだけだろうな」


 話す間にも壁の亀裂は徐々に深いものになり、表面の建材がぱらぱらと廊下に零れ出す。

 その様子にセルジオとロイ以外の人間は逃げ腰になり、各々数歩後じさった。

 直後。

 轟音と共に壁が粉砕された。周囲には壁の破片が飛び散り、もうもうと立ちこめる建材の粉じんが廊下の一角を覆う。そしてぽっかりと空いた三メートルほどの壁の穴の中――そこには異形のものがいた。

 辛うじて人型というだけの化け物。歪に増殖した細胞組織と長い腕。潰れた顔。皮膚の上で別の生き物のようにうごめく太い血管。拉げるように裂けた口から、声が漏れた。


 ――ひゅるううおおううううう、ひゅるううおおううううう。


 機能不全に陥った声帯の隙間を呼気が通り抜けただけのような魂のない響き。喘ぐようなそれは、まるでどこかから呼んでいるようにも聞こえる。


「やはりほとんどステージフォーか」


 顔をしかめて、セルジオ。

 ロイも似たような表情で、鼻を数度ひくつかせる。


「……ああ。これで確定だ。Dアディクターだよ、間違いなく」


 ロイがそう告げると、セルジオは服のポケットから懐中時計を取り出した。


「午後四時二十六分。デビルドロップ中毒者を確認。麻薬取締官の権限により処置を開始する」


 そしてセルジオは腰から銃を抜いた。

 銀と黒で装飾された麻薬捜査官用の特殊自動拳銃、〈グレイ・ハウンド〉。五十口径のそれは公安官が持つ拳銃としてはあまりに殺傷力が高い代物である。しかしこれほどのものでなくてはデビルドロップに侵された元人間は殺せない。攻撃力と取り回しを考慮した最適解がこの〈グレイ・ハウンド〉なのである。

 セルジオがスライドを引いて〈グレイ・ハウンド〉を構え、残り二人の取締官もそれに続く。

 だがその時、アディクターが動いた。

 前方に飛び上がり、セルジオらの頭上をそのまま越える。そして目の前にあった窓ガラスを窓枠ごと突き破って大きく破壊すると、勢いのままに外に飛び出してしまう。


「まずい……!」


 セルジオが壊れた窓に駆け寄る。

 アディクターはこの四階から一階渡り廊下の屋根に着地したようで、そのまま北館のある方角に走り去っていく。


「まだ自我が残っていたか……!」


 セルジオはアディクターを追おうと階段に向かって一歩踏み出そうとする。

 だがそこでセルジオの体がふわりと浮いた。


「こっちのが早ぇっ!」


 一瞬でセルジオを肩に担いだロイが、アディクターの飛び出た窓からそのまま飛び出す。数秒の浮遊感の後、ロイは人一人を抱えたままアディクターと同じ渡り廊下の屋根に着地し、何事もなかったかのようにその場にセルジオを降ろした。渡り廊下で見張りをしていたらしい公安官が、下からこちらを見上げて驚愕の表情を見せているのが見えた。

 するとロイは頬を人差し指で軽く引っ掻いて、


「セルジオ。お前太ったな?」

「余裕だな、馬鹿犬」


 そう返すが早いかセルジオはアディクターを探して駆け出した。屋根を飛び下り、アディクターが逃げた方角へ向かう。当然、付き従うロイにも指示コマンドを出し、臭いで目標を探させる。

 アディクターはすぐに見つかった。

 西館から北本館へ、外周を回り込むように進んだ先――北館と東館との間に設けられたシルトワーゲンの駐車場。そこでアディクターは、一人の少女を右手一本で押し倒すように捕まえていた。


「もう離せばかぁっ! 写真機壊したら許さないからぁっ!」


 少女はティーンエイジャー特有の甲高い声で叫んで抵抗している。Dアディクターに押さえ込まれてああも大声で叫べるのは度胸があるのか、Dアディクターの怖さを知らないのか。

 そして彼女の傍には銃を構えた姿勢で立つ一人の男がいた。

 それを見たロイが叫ぶ。


「撃つな! 下手に刺激すんじゃねぇっ!」


 その声に、その男――ライアン・ボードマンが振り向く。


「下がってください!」


 言うが早いか、セルジオは走りつつ両手で〈グレイ・ハウンド〉を構えて化け物に照準し、引き金を引いた。


 ガォゥウン!


 おおよそ拳銃とは思えない銃声が響き、フリジニア製の特殊火薬によって弾き出された十二・七ミリのジャケッテッド・ホローポイント弾が音を追い越して飛翔する。大口径銃として相応の衝撃がセルジオの両腕を抜けたが、セルジオはそれに翻弄されることなく、銃のリコイルを制御しきる。

 直後、アディクターの右手首で銃弾が弾けた。強靭な握力を持つアディクターだが、手首の関節の腱をピンポイントで破壊できれば握力は大きく弱まる。それは一瞬だが、ロイがアディクターを蹴り飛ばすには十分な時間だ。

 まさか一日に二回もこの戦術を使うとは思っていなかったが。

 直後、今朝ウェーバーを助けたときと同じように、ロイがアディクターの懐に飛び込む。

 突進の勢いを殺さず、靴底で踏み抜くように強烈な蹴りを放ち、アディクターをその場から吹き飛ばす。アディクターは何度か地面にバウンドしながら数メートルの距離を転がった。


「立てるよな? さっさと逃げとけよ」


 ロイは足下の少女を見下ろしてそう告げると、離れた位置ですでに体勢を立て直そうとしているアディクターに油断なく視線を送る。

 セルジオもボードマンに少女の保護を告げてから、ロイの隣に立つ。


「ゥゥゥゥゥゥ……ァァァァァァ……」


 低い唸りとも、泣き声とも取れぬ音を発し、アディクターは濁った瞳でこちらを見つめる。


「もうあれから二分以上は経ってんな。臭いの濃度も上がってるし、完全にステージⅣだぜ」


 ロイの言葉に反応するように化け物の体がもう一回り膨張する。

 先ほど破壊した手首関節の修復もすでに始まっていて、増殖した細胞が歪に傷を覆う。その様は、まるで大量の接着剤で無理やり傷を埋めたようでもある。


「……さて、こっからが本番だな。アディクター」


 ロイは地面を軽く蹴って半身に構えると、格闘技選手のように両拳を胸の前で握る。セルジオも〈グレイ・ハウンド〉の用心金トリガーガードに人差し指を軽く添えて体幹を最もニュートラルな状態で維持する。

 だがそこでセルジオは周囲をちらりと見て、言った。


「……あまり戦闘には向かない場所だな。ギャラリーが多すぎる」


 右手側に屹立する北館と左手の東館。その窓には一様に不安げな表情で事の成り行きを見守る公安の職員たちが顔を覗かせていた。署長室のある東館三階の窓にはネアの姿もある。


「その方が燃えるってもんだろ?」


 ロイは器用に片目だけを眇めて笑う。さらに続けて、


指示コマンドは?」

「『シルトワーゲンは壊すな』」

「犬へのコマンドにしちゃ具体的すぎるな」

「特殊な輸入車だからな。向こう三年、お前が無給になったらこっちまで苦労する」

「は。違いねーな」


 そんな会話をしつつも、アディクターの本能に基づく殺意の膨れ上がりを感じ取り、セルジオは攻撃開始の期を見定める。このDアディクターは既にステージⅣとなり、こちらを敵と認識しているだろうから先のように逃げる可能性は低い。少なくともこちらが死ぬまではこの場に留まり攻撃を仕掛けてくるだろう。


「ロイ。首輪を外せ」

「……いーのか。ギャラリーが多いんだろ?」

「かなり距離がある。見た目にはわからないだろう」

「りょーかい」


 するとロイはマスクをしたままの状態で自分の首元に手を突っ込んだ。そして赤いチョーカーを外すとセルジオに放る。セルジオはそれを回収して、


「五分以内に終わらせる。いいな?」

「はいよ」


 頷いたロイの瞳は変化を見せた。

 黒い瞳孔が大きく広がり、いわゆる『黒目勝ち』の状態になる。同時に、瞳が僅かに赤黒い光を帯び始めた。

 この光は人間にはない『タペタム層』と呼ばれる暗視のための眼球構造が周囲のわずかな光を反射するために起こるものだ。特にロイの場合、チョーカーを外すことでその器官が異常活性し、弱い光でも強い反射光を発生させるようになる。

 あのチョーカーは、拘束具だ。

 彼の本来の力と姿を隠すため、特殊な鉱石が素材に使用されている。

 ――その後の静寂は、一瞬だった。

 互いの合図もなしに、セルジオとロイは同時に動いた。

 セルジオがその場で〈グレイ・ハウンド〉を構え、二度引き金を引く。空気を震わせる銃声が一帯に広がり、排出された空薬莢が地面で跳ねる涼やかな音がそれに重なる。

 二発の弾丸はアディクターの首に着弾した。着弾と同時に先端を潰すことで破壊を広げるホローポイント弾が、銃弾の直径よりも大きな銃創を形成する。

 だがアディクターの首はそれだけでは落ちない。すぐに再生をはじめ、首は厚い細胞組織で覆われ始める。


「させるかよ!」


 叫んだのは、ロイ。

 すでにアディクターに肉薄していた彼は、再生しかけたまだ柔らかい細胞組織に手を伸ばし、そのまま力任せに引き裂こうとする。

 しかしアディクターは直前でロイの右腕を両手で摑まえた。圧倒的な握力が加えられ、ロイの腕の骨が軋む。


「うっ……ぜぇっ!」


 瞬時にロイは判断し、掴まれた右腕を捩じるように動かして拘束を強引に緩めた。そして捻った勢いに体を同調させて軽く飛び上がると、瞳の光を棚引かせながらアディクターの顔面に真横から強烈な蹴りを叩き込んだ。鋭い一撃に、アディクターはロイの拘束を解き、半歩ほどよろめく。


「まだだ、ぜっ!」


 着地したロイはその場で思い切り身を屈めた。

 直後、数秒前までロイのいた空間をセルジオから放たれた三発の銃弾が抜け、アディクターの体に着弾する。さらに間を置かず、ロイはしゃがんだ姿勢のまま片足を突き出して体を独楽のように回転させ、アディクターの足を思い切り払った。


「ごぉおおうるう!?」


 銃弾の衝撃と強烈な足払いを受け、アディクターは後ろ向きに倒れこむ。

 そこへロイが追撃をかける。驚異的な脚力で数メートルの高さまで飛び上がると、仰向けに転がったアディクターの頭部にブーツの踵を向けた。

 しかしそれが撃ち込まれるより早く、アディクターが動いた。中空にいるロイを腕で薙ぎ払って真横に弾き飛ばす。


「ぐぉっ!」


 ロイは両腕でガードしたようだったが衝撃は殺しきれなかったようで、彼の体はそのままシルトワーゲンのボンネットに向かう。だがロイは車にぶつかる直前で器用に受け身をとって、その勢いのまま車の屋根に飛び上がった。


「攻撃が大振りすぎる。油断しすぎだ」


 セルジオは叱責しつつ、すでに起き上がってしまっているアディクターの脚部に向かって銃撃し、アディクターをその場に足止めする。


「わーってる、よ!」


 ロイはシルトワーゲンの屋根から飛び降り、再びアディクターに向かって駆ける。同時にセルジオは銃撃を止め、〈グレイ・ハウンド〉のマガジンを腰にある予備と交換する。

 アディクターは当然、向かってくるロイに対して迎撃の構えを見せた。腕を一度引き、渾身の力でそれを突き出す。

 だがロイはそれを寸前で見切って半身を引いた。ロイの真横を風圧を伴った拳が抜け、アディクターが隙を晒す。


「シッ!」


 短く息を吐き、ロイはごく最小の動きで構えつつアディクターの懐に潜り込んだ。そして寸打の要領でアディクターの胴体に拳を打ちつける。

 骨が砕けるような音とともにロイの拳はアディクターの胴体に深くめり込み、肉を抉る。アディクターは声も上げずに怯み、後退した。が、ロイは逃がさない。

 離れかけた頭部を無理やり掴み、地面に思いきり引き倒す。さらに地面に激突した反動でわずかに浮かんだ顔を蹴飛ばし、対面にあった庁舎の壁までアディクターを吹き飛ばした。

 アディクターは壁にひび割れを加えてめり込み、座り込むように動きを止める。

 そしてその一瞬のうちに、ロイもアディクターと同じ場所に移動していた。


「じゃーな」


 ロイが再び拳を振りかぶる。壁と拳に挟まれ、アディクターの頭部がついに砕ける。

 唯一のアディクターの弱点である脳は原形を留めぬほど破壊され、その衝撃の強さを物語るように、辺り一帯には黒い血が飛散した。その血の中にはアディクターの頭蓋骨と思しき黒い破片と、運よく破壊を免れた濁った目玉が一つ沈んでいる。

 生臭い臭気が風に溶け合い、漂って。

 僅かな静寂の後、セルジオは動いた。アディクターに近づき、未だびくびくと痙攣する醜悪な体を無感動に見据える。

 ――と、しばらくして、あれほど脈打っていたアディクター表面の血管の動きが鈍くなり始めた。アディクターの肉体の中心――主に胸の部分が徐々に腐敗し始め、そこからは黒い骨とともに肥大した心臓が顔を覗かせた。

 セルジオはその心臓に〈グレイ・ハウンド〉を照準する。そして一度、引き金を引いた。

 銃声と共に心臓が弾ける。それを見届けて、セルジオは懐中時計を取り出した。


「午後四時五十分。当該Dアディクターの生命活動の停止を確認。麻薬及び向精神薬取締法、特記事項第三条の規定に則り、デビルドロップ中毒者の特別処置を終了する」


 それは声量も大してない、確認のためだけの言葉。

 だがそれゆえに、その言葉は冷徹で残忍な処刑者としての色を持ち合わせていた。それは、目標物を無慈悲に鏖殺できる悪魔の声にも。


「ふ……終わり終わり」


 言って、ロイがマスクを外す。そこにはいつだって剥がれない不敵な笑みが張り付いていたが――その口元には、妙に長くなった犬歯が覗いていた。


「付けておけ」


 セルジオが彼のチョーカーを放り、ロイも言われた通りそれを自身の首に戻す。

 するとロイの瞳孔が人間のものと同等の大きさへと縮小していく。口の隙間から覗いていた犬歯も、いつの間にか目立たなくなっていた。

 それを見届けてから、セルジオはマスクを外してふと顎を上げる。

 時刻相応の緋色の光はその多くを庁舎が遮っていた。自分たちの上空には濃紺の幕が降りつつあり、それはもうすぐそこまで迫っていた。

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