1-5
「ふ……」
冷えた空気が静かに抜ける街路で、廃屋の壁に身を隠したセルジオは白い吐息を漏らした。
時折端から顔を覗かせて、少し離れた位置にある四階建ての古ぼけた
(目立った動きはなし、か)
独りごちて、セルジオは無言でコートの襟を直す。
セルジオのいる周囲に、人気はない。
ここもれっきとしたヘリオスシティの街路だが、過疎化の進んだ区域で車も人もまばらなのである。また中心街からもかなり外れているため、治安も少々悪く、
セルジオの服装は、白のカラーシャツと黒スラックス、革靴。上着として黒のロングコートを羽織っているが至ってシンプルな出で立ちだった。
ボトムスのベルトの上には公安官用の帯革。大半がコートに隠れているが、その帯革にはポーチと金属製の警棒、黒い
(このアパートの住人が使える出入り口は正面エントランスのみ……管理者用の裏口にいるロイからも連絡はない。となると連中はまだ部屋の中か……)
セルジオは廃屋の壁にもたれるようにしてアパート内のターゲットの動向を推察する。
今行っているこの仕事は、俗に雑草抜きと呼ばれる末端薬物使用者の摘発業務だ。
末端薬物使用者とは、麻薬を実際に入手して違法に使用する者たちのことで、仕事内容としては彼らの薬物違法所持、あるいは使用の証拠を掴み逮捕するというのが主となる。麻薬取締官の仕事としてはもっともシンプルな業務であるともいえる。
今回セルジオらが担当したターゲットは若い男女の三人グループ。協力者からの
繁華街でつるんでいる彼らを見つけ尾行したまでは良かったが、三人のうち一人が暮らすというこのアパートに入ってかれこれ三時間は動きがない。尾行時に可能な限り聞いた会話で、『お楽しみがある』という言葉が何度か出ていたので、戻ってすぐ何か行動するかと思っていたのだが。
ちなみに事前情報と窓に映った人影で部屋は特定している。四階の向かって右から二部屋目。今日は風も穏やかであるし、実際に薬物を使っていれば必ずロイが検知するはずである。
とそこで、セルジオはふとコートのポケットから
「トレーナーからハウンドへ。異常ないか?」
あらかじめ決めておいたコールサインで相手を呼び出す。しかしその返事は返ってこない。
「「おい。応答しろ。ハウンド」」
「…………」
自身の声が二重になって聞こえ、セルジオは溜息をつく。と同時、通信相手から返答。
「あー面倒臭ぇ。何時間突っ立ってりゃいーんだよ」
セルジオは通信を切って、横から聞こえたその肉声の主に向き直った。
「……ロイ、なんでここにいる。裏口を見張れと言ったはずだが」
いつの間にかそこにいたロイに対して、セルジオは非難の眼差しを向ける。しかし当のロイは手にしていたトランシーバーを腰にしまいつつ、
「もうなんつーか退屈すぎる。それに俺ら午前中に一仕事した後なんだぞ? そっから休憩もなしに雑草抜きとかやってられっかよ。腹も減ったし」
黒いパーカーを羽織ったカジュアルな装いのロイは、両手を頭の後ろに組んで、廃屋の壁に背中を預ける。黒い衣服の時は見えなかった首の赤いチョーカーが彼の溜息で僅かに上下した。
「尾行しながら軽く昼食は取っただろう。それに張り込みなど、そもそも数日に及ぶこともあるんだから我慢しろ。これも仕事だ」
「仕事ねぇ……もはや雑用みたいなもんじゃねーか」
「……言葉を選べ」
とはいうものの、ロイの言葉はあながち暴言とも言い切れないものではあった。
実をいうとこの仕事、一般の麻薬取締官はあまり積極的には行わない。
ただそれは職務怠慢というわけではなく、末端をいくら逮捕しても密売組織そのものを叩かなければいたちごっこでしかないからという、ちゃんとした理由がある。むしろ泳がせて背後の組織の情報を掴み、それに付随して一気に摘発するほうが薬物の濫用には大きな抑止力になる。そして当然、それの方が麻薬取締官としての名誉に繋がるのだ。末端使用者の摘発が、雑草抜きなどと言われるのにはそうした経緯がある。
それでなぜセルジオらがわざわざそんな仕事をしているかというと、単純にそれくらいしかやれることがないからである。
「てかそもそも、明日休みなのになんで受けちまうんだよ」
「タレコミの確度が高そうだったからだ。動くなら早いほうがいい」
「それで今日動きなかったらどうすんだ」
「明日の休日は返上だな」
するとロイは半眼でこちらを睨む。
「……こんな頑張ってなんになんだよ。ウェーバーの野郎からも結局感謝も労いの言葉もねーしよ。つーか定年まであの態度でいるつもりなのか、あいつは」
「人の感情などそう簡単には変わらない。お前もいい加減折り合いをつけることを覚えろ。それにあの時も言ったが、遅れた俺たちにも責任はある」
「出勤途中に通報入ったってすぐ出るのは無理だろうが」
「犬に噛まれたとでも思っておけ」
「噛むぞ」
「噛むな」
ぴしゃりと言って、セルジオはさらに続ける。
「しかしお前、勝手に張り込み場所を移動するのはどういう了見だ。この間に何かあったらどうする」
「臭いも嗅いでるし音も聞いてる。大丈夫だよ」
飄々と、ロイ。するとセルジオは溜息をついて、
「ポジション交代だ。俺が裏へ回る」
言いつつ、彼の前を通りすぎようとする。
だがその時、ロイがセルジオの後襟を強引に掴んだ。セルジオは足を止めざるを得なくなり、その場でロイに視線を向ける。
「おい、いい加減にしろ。退屈なのはわかったが監視の目を緩めるわけには――」
そこで、ロイが言葉を遮った。
「臭うな」
その言葉に、セルジオの表情が強張る。
ロイは手を放すと、先ほどまでセルジオがしていたように、壁の端から例のアパートを覗く。セルジオは崩れた襟を直しつつも彼の言葉の続きを待った。
そしてロイはある時、ぽつりと言った。
「……こりゃコレインだな」
コレイン――局所麻酔薬として医療にも使われる薬物の一種だ。精神刺激薬にも分類され、一定量を内服、および静脈注射すると脳と中枢神経に作用して一時的に気分を高揚させる。粉末を加熱して粘膜から吸収させると、より強く神経に作用するようになる。
つまりコレインはフリジニアの麻薬・向精神薬取締法における麻薬だ。医療資格なく、また、法的に医療機関と認可されている範囲外の場所でそれを扱った場合、それは違法となる。
「確実なんだな?」
「ああ。不純物混じりのコレインだな。火ぃ付けて吸ってる。発生源はここからじゃざっくりとしかわからんがアパートの三階……いや、四階辺りか」
ロイの嗅覚による情報は非常に確度の高いものになる。コレインの臭気はロイの言った通りの位置から漂ってきているとみてほぼ確実なのだろう。
「よし。アパートに入って臭気の発生源を特定する。室内であれば強行突入だ」
この建物には医療機関は存在しないし、当然認可なども下りていない。コレインを使用しているなら、確実に現行犯逮捕となる。
なおこの国では、麻薬取締官のパートナーたる『取締犬』の臭気検知はかなり重要な証拠として取り扱われる。
取締官の権限にも臭気検知による強制捜査権というものがあり、大ざっぱに言えば、取締犬が違法の可能性がある薬物臭気を検知した場合、司法局の令状なしで捜査に入ることができるというものである。それだけ取締犬に信頼と実績があるわけだが、ロイの場合もそれは例外ではない。
「突入、か。お前にしちゃ思い切るな」
「下手に長引かせて感づかれても面倒だからな」
答えて、セルジオは帯革のホルスターから黒いオートマチックを取り出した。マガジンを外して残弾を目視確認。
すると武器を準備する必要のないロイが気楽な調子で言葉を放った。
「しっかし雑草抜きと処理の仕事のルーチンってのも退屈だな。たまには普通の摘発に参加したいもんだ」
しかしそのロイの言葉に、セルジオは忠告を差し入れた。
「俺たちがやっているのは処置だ。あくまでな」
「そーいうことにしといてやるよ」
言ってロイは軽く両手を組み合わせると、ぽきぽきと骨を鳴らした。
「けどま、これで明日の休みも潰れないで済むかな。スッキリして帰ろーぜ」
ロイは不敵な笑みを浮かべ、今度はぐるぐると肩を回す。
が、そんな彼の様子を見てセルジオは釘を刺した。
「言っておくが、戦闘は最小限だぞ」
「……こっちの正体バレたらどうせ向こうもやる気になるだろ? 気ぃ遣ってられるかよ」
「関係ない。最小限だ。公安官が過剰な実力行使に出れば市民からの反感も買う」
「はン。我がご主人はお優しいことですなぁ」
「始末書の枚数を減らしたいだけだ」
ロイに一瞥もくれずそれだけ言うと、セルジオは腰のポーチから黒い手袋と、同じく黒いコルセットを取り出す。
手袋をはめ、そのコルセットは首へ。
これは薬物などの細かな粉じんを体内に入れないための防護装備だ。簡単な装備に見えるが伸縮性のある素材であるため激しく動いてもズレにくく、また素材そのものが粉じんを強力に吸着するため、防塵性も非常に高い。しかもそれでいて声が籠りにくい作りになっているという優秀な装備だ。ちなみに黒い戦闘制服の時のマスクもこれと同じものである。
そしてセルジオはロイに対して同じように準備するよう視線で指示する。
「これ、なんか苦しいんだよなぁ……」
「ある程度薬に耐性があるお前でも、嗅覚の防護は必須だ」
「わーってるよ。けどこのマスク首輪外しにくいんだよ」
「首輪をつけた人間が装備する前提じゃないからな。……というか、この程度の仕事で首輪は外さんだろう」
「あーそーだなー」
そんな会話を挟みつつ、二人は装備の確認と準備を終える。
「よし。行くぞ」
「りょーかい」
最後にそう言葉を交わし、二人は物陰を伝いつつも無駄のない身ごなしでアパートに近づく。
そしてエントランスの入り口まで到達すると、素早くその中へ滑り込んだ。
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