1-2
それは、再び暴れだした。
車道に留まるそれは、手近にあった主のいなくなった車を持ち上げて道路脇に放り投げる。意味もなく地面を殴りつけ、コンクリートを砕く。歪に潰れた口からは喘鳴にも似た叫びを漏らし、周囲には体の各所にある傷から噴き出た黒い液体を振りまく。
――それは、まさに化け物だった。
生きているのに生命の息吹を感じさせない青黒い皮膚。かろうじて人の形をしているが、不必要に細胞増殖を繰り返した体は普通の人間より一回り以上大きく歪で、四肢――特に腕が地面に引きずるほどの長さを持っている。握られた拳も大きく、幼い子供であれば片手で覆い隠せるほどだった。顔に至っては表情も読めぬほど目や口が潰れている。
各所に毛髪や、性差を決定づける凹凸はなく、表面の太い静脈は激しく脈打っている。また体の数か所には、こうなる直前に着ていたのであろう衣服の切れ端が申し訳程度に挟まっていた。
そしてその化け物の側面には、鶴翼の陣で展開する人影が五つ。
「ちっ……まだ殺しきれないのか……!」
活動を再開した化け物を見つめて、五人のうちの一人――班のリーダーらしき男が呟いた。小ざっぱりした壮年の男で、衣服は全身黒づくめ。首元のコルセットから引き出した布地でマスクのように口元を覆っていて、右手には銀色の大型拳銃を携えている。他の四人もそれらの装備は同じだ。
ただそのリーダーの男は唯一左手に長いリードを握っていた。リードの先にはハーネスと小型のインカムのようなものを両耳に付けた一匹のシェパードがいて、男にぴったりとつき従いつつ、化け物を見据えて遠吠えとも唸りともとれぬ独特の鳴き声を上げていた。
「各員、リロード! 再斉射だ!」
男の声に全員が反応し、空のマガジンを素早く交換する。
「――撃て!」
指示は即座に下され、銀銃が一斉に吠えた。見た目相応の重厚な筒音が、
「まだ止めるな! 各員、自分の判断でリロードして処置を続けろ!」
化け物の全身で破壊が巻き起こり、弾頭はその肉を確実に削っていく。化け物が黒い血を吹きだして悶絶するのを冷徹に見据え、黒づくめの集団は一方的な攻撃を続ける。
だがあるとき、化け物は弾丸の雨の中一人の男に顔を向けた。そして次の瞬間には彼めがけて突撃し、その拳をふるう。
「ひっ――!」
悲鳴は一瞬だった。
逃げる間もなく男は胴を殴りつけられ、後方に吹っ飛ぶ。停めてあったシルトワーゲンのボンネットにぶつかって、彼はずるずると地面に落ちた。強靭な防弾防刃繊維で編まれた戦闘制服でも、衝撃まで殺しきることは不可能だ。
「手を止めるな! 撃ち続けろ!」
指示が響くが、一瞬で心に滑り込んだ恐怖はその動きを鈍らせる。それはそのまま射撃精度の乱れに繋がり、明らかにその攻勢が緩んだ。
と、次の瞬間、化け物の表面――銃創付近の皮膚が煮え立つようにぼこぼこと膨れ上がった。徐々に銃創は見えなくなり、吹き出ていた黒い血も止まってゆく。
「再生したか……」
リーダーの男は呻くように呟き、しかしすぐに指示を飛ばす。
「各員、銃撃しつつ後退! 応援が来るまで持ちこたえろ!」
だが次の瞬間、一瞬で距離を詰めてきた化け物の手がリーダーの男の喉元を捕まえた。そしてそのまま彼を思い切り地面に押し倒す。
「っ、はぁあっ……!」
あまりの衝撃に肺の空気が絞り出される。彼は銃もリードも手放して、成す術なく地面に押し付けられた。
「ウェーバー班長っ!」
声と共に、班員からの銃撃が化け物に着弾する。が、それでも化け物の膂力は衰えない。むしろ強めるような勢いでウェーバーを押さえつけ、その凶悪な荷重は彼の呼吸を妨げる。
するとその時、彼が従えていたシェパードが化け物に飛び掛かった。ウェーバーを拘束する腕に唸りをあげて喰らいつき、前足の爪を何度も立てる。
だが化け物は何の痛痒も感じていないのか、もう片方の手で無造作に犬をつかんだ。そして自身の肉ごと犬を腕から剥ぎ取ると路肩に投げ捨てる。シェパードは叫びも上げず地面を何度も跳ね、そのまま動かなくなった。
――うぐごぉうるるるるるるるるるるるるるるるるるうぅ!
化け物はまるで勝利を確信したように唸る。奈落の底から呼ぶようなその悍ましい声に、その場の誰もが戦慄した。
そして化け物はついに全力の荷重をウェーバーにかけ始めた。それは数秒で人を圧死させるのに十分なもので、彼の意識は一気に遠のく。
だが、その時。
車のスキール音がしたかと思うと、正確無比な銃撃が、何発も化け物の手首に突き刺さった。直後、その場に駆け付けた黒い人影が勢いのままに化け物を蹴り飛ばす。
一瞬の拘束の緩みを突かれた化け物はウェーバーを手離し、後方に吹き飛んだ。重さを感じさせない水平の軌道を取って奥の無人の歩道に倒れる。
「間一髪だったな」
言ったのは、化け物を蹴り飛ばした男。ウェーバーらと同じ黒づくめの格好をした黒髪の彼は、眼下のウェーバーに向かって皮肉気に笑う。
その少し後ろでは、停車したシルトワーゲンからもう一人男が駆け寄ってきていた。
「ウェーバー巡査部長、お怪我は?」
彼――セルジオは銀の拳銃〈グレイ・ハウンド〉を手に黒髪男の横に並び立つ。
ウェーバーは咳き込みつつも、何とか上半身を起こした。
「ったく、だらしねーなぁ」
「ロイ。口を慎め」
セルジオの叱責に、ロイが黙る。
するとウェーバーはそんな二人を見上げて、不快感を隠そうともせず眉根を寄せた。
「……処置と雑草抜きしか仕事がないというのに到着が遅いな? セルジオ・マックフォート」
「申し訳ありません」
即座に返された謝辞に、ウェーバーは鼻を鳴らす。
「……なら、やることは分かっているな? 処置権限を引き継いでやる。あれを片づけろ」
「承知しました」
ウェーバーの言葉にセルジオは即答し、彼を庇うように前に立つ。
しかしそれに続いたロイは、
「……感謝の一言でもないもんかね」
と小声で一言。
「遅れた俺たちにも非はある」
セルジオはそう言い切って、眼前で身を起こしつつある化け物の姿を見据える。そして懐から銀色の懐中時計を取り出した。
「午前七時四十九分。麻薬取締官ダン・ウェーバー巡査部長より
「よゆーよゆー」
そして直後、二人は化け物に向かって駆け出した。
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