第18話 私とイザベラ(サイド・エピソード)
「シェリー、今日からこのオーナーがお前のご主人様だ。痛い目に遭いたくなかったらご主人様の命令には絶対に従えよ?」
「はい……わかりました」
「ははっ、健気な子だな。へへっ……まぁ、俺に逆らわない限り、悪いようにはしないから安心しな」
あの日、道端で倒れた私は気付けば『エルダ』という宿屋に『奴隷』として売られていた。きっとニックは最初から私を商品として売ろうと考えていたに違いない。
「(でも、もういいや……どの道、私には何もない)」
私は心でそう呟く。奴隷として売られた今、すべての事を諦めていた。奴隷の人生がいかに酷いものか、私にも理解できていた。
「(それに……このオーナー、きっと、悪い人だ)」
私はオーナーを見るなり、そう確信していた。
あの『マルバの聖戦』を生き抜いた私は、いつしか人の善悪を見分けることができる『眼』を使えるようになっていた。悪い人間には背中から黒いオーラが滲み出ていてよくわかる。このオーナーも見事なほどに黒いオーラが出ている。
「イザベラっ! こいつに仕事を教えてやれ」
「はい」
オーナーが大声で叫ぶと奥から1人の少女が出てきた。きっと、彼女も奴隷なのだろう。体の一部に痣が付いている。
「(痛そう……。私も命令に背いたら、こうなるんだよね)」
「じゃあ、仕事を教えるからこっちに来て」
私の心境などお構い無しに長い黒髪を靡かせるイザベラは青のシュシュが付いた右手で私の手を取り、宿のバックヤードを案内し始めた。彼女は起伏が薄く、何を考えているのかよく分からない少女だった。
「さっき、私が居た場所がカウンター。利用客の帳簿とか代金のやり取りをする場所。帳簿の描き方とか料金の精算方法は後できっちり教えるから安心して。そして、ここが厨房。料理は私が作るからあなたは運ぶ係。で、次は――」
「あの……私がここにきた理由とか、何も聞かないんですか?」
「聞いて欲しい? 感情に流されていたらあなた、死ぬよ」
殺気染みたような言葉の冷たさを感じて思わず、黙り込む。
この仕事は生きるか死ぬかなのだとこの一言で思い知った。
「そう、ですよね。ごめんなさい……」
「その垢抜けてない態度は直した方がいい。もしかして、あなたって奴隷になったばかり?」
「……はい。ここが初めてです」
「そう……。なら教えその1、どんなことがあっても気丈に振舞うこと。怖いのは分かる。でも、弱音を吐けば食われるだけ。痛い事が嫌ならきちんとして。分かった?」
イザベラは私の下顎に触れ、顔をゆっくりと上げてそう言い聞かせた。
彼女の目はまるで、遠くを見通しているようで凛とした眼差しに思わず、見とれてしまう。一体、どれだけの経験を積めばこんな目が出来るのだろう。
「わ、わかりました……」
「分かったならいい。じゃあ、続きね?」
私はイザベラさんに『エルダ』での仕事を時間をかけて少しずつ教わった。接客や掃除、帳簿の付け方に至るまで数週間かけて学んでいく。
「シェリー、これとこれを窓際のテーブルに。お金を貰ってくるのをわすれないで」
「は、はい」
最初のうちは怖くてまともに動けなかったけれど三食、寝床を共にするイザベラさんが丁寧に仕事を教えてくれているお陰もあって少しずつ仕事にも慣れてきた。だけど、そんな生活を送る中で少し気掛かりな事があった。
「イザベラさん、二階の掃除終わりま――だ、大丈夫ですか!?」
「大丈夫……。ありがとう」
オーナーの元に来た当初は手広く、手早く仕事を片付けていたイザベラさんだったが、ここ最近は辛そうな表情をしていることが多く、私の目から見ても動きが悪かった。今日に限っては目は虚ろで顔からは冷や汗が流れ出ている。明らかに大丈夫そうには見えない。
「ちょっと待っててください! 今、オーナーを呼んで――」
「ダメ。あいつにはこの事は言わないで……」
「でも……!」
「……あなたは自分の心配をして。またオーナーに怒られる」
「じゃあ、せめてイザベラさんの仕事を少し手伝います! その間、イザベラさんはここ休んで居てください」
「新人のくせに馬鹿言わない。教えその2……無駄な情けは自分を苦しめる。そんなことは絶対、やっちゃ駄目……」
彼女は大丈夫だといわんばかりに私を鋭い視線で見つめながら立ち上がり、黙々と仕事をやっていく。そんな様子に私は疑問を感じていた。弱いところを見せたら漬け込まれるって言ったのはイザベラさんなのに、と。
そんな折、ザルドという公爵が『エルダ』にやってきた。オーナーとザルド公爵は親しい関係の様で店の入り口で談笑をしていた。
「ザルド公爵、ようこそいらっしゃいました! この度も宿屋『エルダ』をご利用いただきましてありがとうございます」
「うむ。今日はよろしく頼むぞ」
「はい! おい、シェリー! 何をボケッとしている! 早くワインをもってこないか!」
「はいっ……申し訳ありません。今、お持ちします――!」
私が踵を返して振り返るとそこにはワインとグラス、料理を持ったイザベラが居た。そして、イザベラはすれ違いざまに小声でこう言う。
「今すぐ厨房に戻って」と。
何事もなかったかの様に私の横を通り過ぎたイザベラは品々をテーブルに載せて軽くお辞儀をする。
「お待たせいたしました。ワインと牛肉のソテーです」
「おお、牛肉のソテーか! イザベラよ、公爵である私が好きなモノをよく理解している。これからも“そうであって欲しいもの”だ」
イザベラにそう言いながら私の方をじっと見てくるザルド公爵に私は言葉を失くした。あの公爵の後ろからはドス黒い黒のオーラと共に『黒色の手』が無数に出てきていた。
「(何、あれ……あんな気持ち悪いの見たことない)」
そのオーラに恐怖を感じて立ち止まっているとイザベラは数歩、後ろに下がり静かに頭を下げて戻ってきた。その時の表情は凄く辛そうで、思い悩んでいるようだった。
あの表情は今でも忘れられない。
そして、ザルド公爵が去った翌日の夜。仕事を終えて眠ろうとしていた私にイザベラさんは「大切な話がある」と真剣な表情で向き合った。
「……話って何ですか?」
「シェリー。明日の朝、私はこの宿屋から出て行く。だから、明日からはあなたがここを仕切ることになるからよろしく」
「えっ? 待ってください! どういうことですか!?」
「私はザルド公爵の所に行くことになった。ほら、昨日まで居たあの公爵のところ」
私は言葉を失くす。あの公爵のオーラは尋常なものじゃなかった。私を売った奴隷商のニックやオーナーの数倍――いや、数十倍ヤバい男なのは間違いない。
「イザベラさん、それは駄目です! よく分からないけど、あの人はヤバいです! だから、行かない方が――!」
「うん。知ってる。でも、私には選択権はないから。分かるでしょ? オーナーがそう決めた」
「なら、今すぐオーナーに言ってやめてもらいましょう? そうすれば――」
「ありがとう。でも、大丈夫。……大丈夫だから」
イザベラさんは私の前まで歩み寄ってきてギュッと私の体を抱きしめる。
「イザベラ……さん?」
「……ごめん。シェリー、少しこのままで居させてくれる?」
抱きつかれているから表情は見えないが、すすり泣く声が微かに聞こえた。すごく強いはずのイザベラが泣いている。
「(……こんな姿、1度も見たことない。そっか、そうだよね……イザベラさんも怖いよね)」
私はそっとイザベラさんを抱きしめ返して頭を撫でる。その行動に彼女は一瞬、身を震わせたが、そのまま泣き疲れて眠るまでずっと泣き続けた。
「(このままじゃ駄目だ。私が何とかしなくちゃ……)」
私のベッドで眠り込んだ彼女の顔を見てそう思った。この時、私は初めてイザベラさんの教えを破る決心をした。正直、無我夢中だったんだと思う。気付けばオーナーの部屋をノックしていた。
「誰だ? こんな夜更けに」
「シェリーです。イザベラさんの件で、お話が……」
「フッ……ああ~イザベラのなぁ? まぁ、入ってこい」
私がドアを開けて部屋に入るとそこには不敵な笑みを零しているオーナーが居た。
「それで? どんな用件だ?」
「お願いです。イザベラさんを……ザルド公爵に引き渡さないでください! イザベラさんみたいに完璧じゃないけど、私に出来ることなら何でもします! だから……!」
「無理だ。何せ前の話を蹴ってるからな?」
「前の……話?」
「ほぉ~? その顔は何もイザベラから聞いてないんだな? まぁ、いい。ちょうど契約満了の時間だ」
オーナーはそう言うとほぼ同時に時計の針が午前0時を指し、日付が変る事を知らせる鐘がなった。そのわずか数秒後、深く抉るような蹴りが私を襲った。そして、追い打ちを掛けるように何度も腹部に蹴りが飛んでくる。
「ぁが……! いた……ぃ……」
「ふぅ。ようやく殴れる。……でもまぁ、お前のお陰で色々助かったのも事実だし、これでお相子にしておいてやるぞ? シェリー」
床に横たわる私の頭を無理やり上げて機嫌良さそうに見下ろす。
痛みが体を襲う中、必死に考えを回すが意味が分からなかった。私はイザベラさんと違ってミスも多い。何かオーナーにとってプラスになるような働きはしてこなかったはずだ。
「あ~悪い悪い。理解できないよな? 事細か~く教えてやるよ。イザベラの奴は俺と契約をしていたんだ。お前のやらかした失敗の罰をすべて自分が受けるっていう契約をな!」
「そ、そんな……じゃ、じゃあ今まで」
「ああ、その通りだ。あまりにお前が仕事で失敗することが多くて、一晩寝れない事もざらにあったんだぞ? イザベラに感謝しろよ?」
私の失敗のツケをすべてイザベラさんが支払っていたという事実を聞き、私は唖然とした。日を追うごとに彼女の表情が悪くなっていた『真実』はこれだったのだ。
「それでもっ……イザベラさんには居て貰わないと私が困る――」
「誰が立てと言った?」
「ッ……!」
立ち上がる寸前の所で体を掴まれ、腹部に強い膝蹴りを食らって再び床に落ちる。
痛みに悶え苦しみ激しくせき込む私を見て、オーナーは追い打ちを掛けるように告げた。
「何度も言わせるな。イザベラのことはもう無理だと言っただろ? 何せ、本来ならお前が公爵の元へ行くはずだったんだ。それをイザベラの奴が勝手に話を吹き込んで変えちまったんだからな」
誰よりも誠実で、常に厳しくも優しく接してくれる彼女が私と引き換えに犠牲になるような話を公爵に取り付けるなど嘘だと信じたかった。だけれど、全てを繋げて考えれば「それが事実だ」という結果に行き着く。
「(どうして、どうしてなの……? イザベラさん、こんなの間違ってるよ)」
「さぁ、今までやれなかった分、可愛がってやる。なーに、大丈夫、見えるところに痕は残さないさ。接客業だからな」
その日、オーナーの責めは明け方まで続いた。
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