第28話 好きの原点に、思いを馳せる

 その翌日の夜。

 私、中国浙江省から届いた青田石を吟味していた。

 篆刻専用ルームは北向きの部屋で、しかも板張り。日が落ちるとひんやり涼しい。ささやかな裏庭からヒグラシの鳴き声が聞こえる。風鈴がもう少し鳴ってくれれば、風情満喫というところ。でも、まあ、画仙紙がパタパタ鳴らないだけ、いいか。何事も過ぎたるは及ばざるがごとし……。

「タクちゃん、何、感傷に浸ってんのよ」

 背中にドカッと錘が振ってくる。桜子が、立膝でおぶさってきている。どうやら風呂上りなのか、身体にほとんど何もつけてない様子。私は、後ろを振り向きもせずに、言う。

「桜子。裸で家の中うろつくの、やめなさい」

「バスタオル、巻いてるよ。それにどうせ、二人っきりじゃない」

「そんなんだから、いつまでたっても、彼氏、できないんだよ」

「できないんじゃなくて、作らないの」

「ずいぶん強気の発言だ」

「実際、昨日、デートしたじゃない。私、本当はモテるんだから」

 言いながら、さらに体重をかけてくる。

「あ。タクちゃん。もしかして、コーフンしてる」

「するわけないだろ」

「じゃあ、ペッタンコ胸だって、内心バカにしてるんでしょ」

「してない、してない」

「じゃあ、一体、何考えてたのよ」

「なんだか、いつの間にか、ずいぶん大きくなったなあって、さ」

 初めて桜子をおぶったのは、祖父母の葬式のときだった。

 事故当時おたふく風邪で寝ていた桜子は、祖父母の死に目にも立ち会えなかった。葬儀の最中は、手漉きの伯母に面倒を見てもらっていた。けれど、田舎の葬儀というのは、親族女性が忙しく立ち働かねばならないものだ。台所にたびたび呼ばれる伯母の代わり、桜子を見舞ったのは私だった。昔話に花を咲かせる弔問客の相手に、うんざりしていたこともある。受付で正座し、弔問客に頭を下げるのに、疲れていたこともある。

 当時の桜子は、既に「死」の意味を、よく分かっていた。

 ちょっとだけでいいから、お別れにおじいちゃん、おばあちゃんの顔が見たい、ともせがんだ。私は、他の大人同様、首を横に振った。風邪が治ってないから……というのが建前だった。けれど、死者の顔に事故の跡がくっきり残っているのが原因だった。死化粧でもごまかせないくらい、桜子の祖母の額は窪んでいた。祖父の首筋から頬にかけては、タイヤのパターンがうっすら浮かんでいた。線香をつけては悪寒の窓を開ける客たちも、長く見つめてはいなかった。

 夫婦一緒に天国に行くなんて、ある意味幸せじゃない、と言ったのは、そのころ二度目の結婚を果たしたばかりの、私の姉である。親族一同から、不謹慎なとたしなめられていた。私も肩身の狭い思いで、やり取りを聴いていた。けれど、今、こうして時折恋愛相談なんぞをしてみると、姉の考えのいったんも、理解できるような気がする。

 後日、おたふく風邪が治ってから、桜子を墓参りに連れていった。

 庭野家の菩提寺は女川だったので、車での送迎だ。駐車場からお墓まで、五十メートルほどだったろうか。勇んで上っていった桜子は、途中、足をくじいた。

 それでも泣き言ひとつ言わず、花を上げ、線香を上げ、おじいちゃんおばあちゃんにお別れの言葉を告げた。駐車場まで降りる途中、桜子は足の痛みを言い出した。

 私は、姪に背中を貸した。

 ゆっくり、衝撃をくわえないように、降りたつもりだったけれど、桜子は途中、シクシク泣き出した。私は立ち止まって、桜子をあやした。そんなに痛かったのかと聞くと、桜子は私の首に小さな腕をぎゅっと巻きつけ、違うのとつぶやいた。おじいちゃん、おばあちゃんと何度も繰り返した。

 そうか。お別れにきたんだもんな。

 これからは、私がおじいちゃん、おばあちゃんの代わりになったげるから。

 桜子は、私の背中で、こっくりうなづいた。

 車に戻るまでには、小さな寝息を立てていた。

 あの墓参りがなかったら、たぶん、この二世帯住宅には、入ってなかったろう。

 固定資産税もバカにならないし、いっそ二世帯住宅を解体しようか……という話に「おじいちゃんおばあちゃんの家だから」と強引に反対して取りやめさせたのは、桜子だった。

 そして、親族一同の反対を押し切って、この空き家に私を引っ張ってきたのも、また桜子だったのだ。

「……あのときの、小さな桜子を思い出した。なんだか、ちょっとしんみりしちゃったよ」

「タクちゃん、ズルいよ」

「何がだよ」

「何がって……自分だけ、感傷に浸っちゃってさ」

「桜子も遠慮なく、浸ればいいだろ」

「そういう気分に浸りたくて、きたんじゃないもん」

 まあ、そうか。バスタオル一枚で、子どものころの悲しい記憶を呼び起こすひとは、いない。

「浴衣でも、着てくればよかったのに」

「だから、そういう気分じゃないってば」

「桜子。浴衣とか、嫌いか?」

「嫌いじゃないよ。浴衣とか、作務衣とか、着物の匂いは好き。墨とか紙とか、この部屋の匂いも、大好き」

 言いながら、私の作務衣に鼻を押しつけてくる。

 そう言えば、子どものころから、そうだったな。

 あの、最初におんぶしてやったときから。

「でもね……マキ先輩の嬉しそうな顔を見たあとは、もっと違う気分に浸りたい」

 川崎さんがヨコヤリ夫婦を成敗しそうになった件は、当のヨコヤリ・ママからその日のうちに道場主に密告があった。マキちゃん自身は、逃げも隠れも言い逃れもせず、お祖母ちゃんの沙汰を待った。師範代たるお母さんは、娘に正式に破門を言い渡した。剃髪させられそうになっているマキちゃんを、二人の坊主頭が救った。

 一人は彼女のお父さん、ご住職だ。

 もう一人は、渡辺啓介、その人だ。

 彼氏は彼女の薙刀が正当防衛だったことを訴えた。ゴルフのドライバーで襲われそうになった女性を救い、狂気に満ちた女性に襲われそうになった渡辺啓介自身を救ってくれたことを、訴えた。

 そして。

 あの場でマキちゃんに薙刀を使わせてしまったのは、自分の不甲斐なさのせいだから……と自らバリカンをとり、彼女の代わりに頭を丸めたのだ。

 お祖母ちゃんは、孫娘と彼氏を一瞥したあと、一言も言わず、奥座敷に下がったそうな。

 渡辺君の丸坊主は、塾でも一大センセーションになった。

 桜子は、川崎さんから、いきさつの一部始終を聞いた。

 かっこ悪いんだけど、かっこいいね。

 桜子が感想を漏らすと、川崎マキも同意した。

 うん。かっこいい。なった理由も、なる前も、なった後も。

 イモ歴女は、いま、史書を漁って、著名な美坊主のコレクションを始めたそうな。


「渡辺君を振ったこと、今ごろになって、後悔してるとか」

「そんなこと、絶対、全くないから。ねえ、きっぱり、ゴメンナサイって言ったときの話、知りたい?」

「知りたくない。というか、誰に聞かれても、黙ってるべきだと思うな」

「私は今、しゃべりたいんだけど」

「渡辺くんの気持ちになってみろよ」

「それを言うなら、私の気持ちになってよ」

 ゆっくり、桜子の腕をほどくようにして、私は後ろを振り向く。

 いたずらっ娘が、くすぐったいような笑みを浮かべている。

「ねえ、タクちゃん。女の子が背中を空けておく背面アプローチがあるなら、こうやって、男のひとの背中にダイブするアプローチもあるんでしょ。前面アプローチ? それとも、オッパイぎゅっアプローチって、言うべきかな?」

「そっちのほうは、使う場面が根本的に違う」

 背面アプローチは、全く片思いの相手に使う、アプローチ。桜子の言う、前面アプローチのほうは、友達とか、知人とか、腐れ縁とか、恋人未満からなかなか進展しない場合に使う、アプローチなのだ。

 マンガなんかでは強調されるけど、本来、おっぱいの大小は関係ない。

「ふーん。ちょっと、教えてよ」

「無理。本気でやりだしたら、本一冊書けるくらいの分量になるし」

「そんなこと言って。私が誰か、男の人に使うのが、心配なんでしょ」

「……」

「私がある日突然、彼氏とか連れてきたら、びっくりする?」

「びっくりはしないけど、少し寂しくなるかもな」

「わ。それって、本音の本音?」

「愛娘を嫁に出す、父親の気分かな」

「それだけ?」

「うむ。妹の幸せを思う、兄の気持ちかな」

「もひとつ、いっちょう」

「これ以上、何もないよ」

「もっとちゃんと、胸に手を当てて、考えてみてよ」

「うむむ。恋のライバル出現に焦る男の気持ち。これで、いいのか?」

「よろしいっ」

 くしょん、くしょん。

 ぶるるるるっ。

「……ちょっと、何か着てくるね」

「そうしなされ」

 やれやれ。

 私は小走りに立ち去る桜子を見送ったあと、青田石に戻った。

 桜子の祖父母も、草葉の陰で苦笑しているに違いない。

 まだまだ、子どもだ。

 けれど、いつまでも子どもじゃないかもしれない、というところか。

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