第16話 雑音耐性

「川崎マキが援助交際をしている」

 不穏な噂が、塾に蔓延していた。

 最初にこの情報を仕入れてきたのは、渡辺啓介その人である。

 アルバイト終了後、深刻な表情で私の教務室に入ってくると、堰を切ったように、捲し立てのだった。

「最近新調したブルーのオーバーオールスカートとオレンジ色のスニーカーは、そのお小遣いで買ったモノ」という、やけに具体的なサイドストーリー付きで、流布しているという。

 続けて、「桜子たち下級生グループにも一緒にエンコーしようと声をかけたけど、当然のごとく、ことごとく断られ、そのせいで川崎マキは学校でも塾でもボッチでいる」という情報が、西くんから入った。

 さらに、「パトロンがドSで露出プレイ好き。川崎マキはエンコーオヤジに命令されて、学校でもどこででも、ノーパンでいる」という話を、木下先生が仕入てきた。

 決定打は、我が姪の一言である。

 講義休みの質問受付の時間、大事な塾生とのコミュニケーションの時間に、桜子は割り込んできた。

「タクちゃん。マキ先輩を売春してるって、本当?」

「んなわけ、あるか」

 常識で考えろ。

 塾でも家でも四六時中、一緒にいるくせに、その一番の身内を疑うとは。

「疑ってないって。根も葉もない噂だってことは、じゅうぶん知ってるけどさ。タクちゃん自身の耳に入ってるのかなって」

「対策に乗り出す」

「へー」

「てか桜子。ウソだと分かってんなら、友達に否定してまわってくれよ」

「それが対策?」

「他の人が言うより、説得力あるだろ」

 塾長が、そんな公序良俗に反しているなんて評判が立ったら、生徒さんは蜘蛛の子を散らすように、逃げていくだろう。塾存続の危機だ。

 そして、何より、大事な生徒さんの名誉を守らねばならない。

 私はスタッフたちを緊急招集した。職員室では会議がしにくいので、生徒が帰ったあとの教室を使う。仕事が一通り終われば深夜にかかるけれど、誰も、そのこと自体に文句は言わない。誰もが、援助交際の噂を知っていた。渡辺啓介も、西くんも、木下先生も、私の無実を固く信じてくれている。けれど、古参でないセンセイ方の中には、私を信じ切れていないひとがいるらしい。水道屋さんを定年退職してから「ボケ対策」としてアルバイトに来ている、元エンジニアの千葉先生。二人の子供を持つシングルマザーで、アルバイト掛け持ち中の高橋先生。

 その高橋先生が、口火を切る。 

「塾長。川崎マキ本人には、面談したんですか」

「実は、ほぼ毎日、プライベートな用事で、会ってる」

「マキ先輩、昨日もウチに来ましたよ?」

 そう、教職員の会議のはずが、なぜかウチの姪も参加しているのだった。

「てか。もう遅いから帰れよ。子供は寝る時間だろ」

「なによお。タクちゃんの身の潔白、証明してあげようと、してるんじゃない」

 まさか、背面アプローチの修行のため、なんては言えない。ノーパンミニスカをはかせて、時折お尻を叩いているなんて、言えるわけがない。詳しい中身は省く。

「噂の出どころは、そんなところかもしれませんな。でも、二人っきりで会ってるわけじないんですな」。

 千葉先生が、桜子に確認する。

「塾長に、やましいところは、これっぽっちも、ないんですな」

「はい。大丈夫。たぶん」

「塾長。それで、川崎くん、本人の様子は、どうですかな」

「やけに落ち着いている。てか、悪い意味で」

 渡辺啓介に情報をもらった日、アプローチ練習休憩中、川崎マキに噂の話をした。

 彼女の反応はシンプルだった。

「庭野先生、それ、信じてます?」

「信じてるわけ、なかろう」

「じゃあ、いいじゃないですか」

 彼女、中学時代にはイジメられっ子……いや村八分っ子、だったのだ。直接なイヤがらせでない、この手の噂を流されたのも、一度や二度じゃない。私は気にしませんよ、と川崎マキは言っていた。自分のことをよく知ってる人は、誰も気にしないですよ、とも彼女は言った。その諦めきったような力のない目が、とにかく気になった。

 疲れが出たのか、高橋先生が、ウツラウツラ、し始める。

「あの……帰っても、いいですよ」

「大丈夫です、塾長」

「ねえ、タクちゃん。一言、いい?」

「なんだよ、桜子」

「不思議なことに、高校では、その、援助交際どーのこーのっていう噂、全然、流行ってないんだよね」

「と、いうと」

 イモ娘のひととなりを知っているひとは、一笑に付して終わり。あるいは、彼女の名誉のために怒ってくれるひともいる、という。

「ふーん。本人の自己申告とは別に、意外と愛されてるキャラ?」

「そもそも一学年上の先輩だから、塾で、ほど詳しくはないんだけど」

 高校では、出たそばから、噂は立ち消えになっているらしいのだ。しつこく、いつまでも、やたらリアルな尾ひれがついて止まないのは、この塾の中で、だけだという。

 渡辺啓介が言う。

「立ち消えにならないように、噂を維持しようとしている誰かが、この塾の中にいるってことに、なりませんか」

「うん。その可能性は、少なくからず、ありそうだ」

「必ずしも、川崎くんに悪意を持っている者とは、限りません。むしろ、塾限定ってことは、塾長がターゲットという可能性もあります。川崎くんは、塾長と仲がよくて、いわばアリバイ作りが簡単だから、利用された」

「それも、ありうるね」

「桜子くん、塾長に恨みとかもってそうな人、心あたり、ない?」

 つーか、なんでそこで、桜子に話を振るんだよ。

「女の人がらみでないのは、確かだと思うな。タクちゃん、年齢イコール恋人いない歴だし」

「なるほど」

「そこ。納得しない」

 千葉先生が、渡辺啓介の推理を引き継いで、言う。

「石巻地区の同業者のイヤがらせという線も、ありますな。塾長の評判を落として、廃塾を狙うヤカラが、いるかもしれない」

 高橋先生が、軽く反論する。

「たとえそういう人がいるとして、わざわざこんな手の込んだことをするでしょうか。サクラちゃんの証言じゃないけど、塾長ほど、女性がらみのスキャンダルに縁遠いひと、いないと思いますけど」

 余計なお世話というものだよ、高橋くん。

 渡辺啓介の、再反論。

「たとえ外部の人間のしわざだとして、こんな噂を維持し続けるのは、むつかしいと思います。必ず、内部にスパイがいる」

 西くんが、ちょこんと挙手する。

「そろそろ仙石線の終電にかかっちゃうんで。結論、言いッスか? とにかく、塾関係者を調べる。誰が狙われてるか、調べる。つまり、犯人がいるとして、その真犯人と、動機と、本当のターゲットは誰かを調べる。これでイイっスかね」

 私はうなずいた。

「完璧だと思う。で、誰が探偵役をやる?」

「ハイ。私、私」

「桜子が?」

「姪で探偵だから、メイ探偵」

「ダジャレかよ」

「ふっふっふ。ワトソン君。すぐに私の名推理で驚かせてみせよう」

「やる前から迷宮入りしそうな予感がして、怖いよ。てか、ワトソン君てなんだ、ワトソン君って」


 犯人が割れたのは、それから三日後のこと。

 もちろん、名探偵……もとい、迷探偵桜子が、華麗なる推理を披露して解決、ではない。

 地道な聞き込み捜査をした……川崎マキ、その人のお陰だ。

 そして、いかにも川崎マキらしく、犯人の目星がついても、「逮捕」「告発」「大団円」というわけにはいかなかった。

 ハンバーグが食いたい、という姪のしつこい要求……もとい、リクエストに答えて、日曜午後一時、一同を蛇田イオンのレストランに連れていく。渡辺啓介、西くんという仙台在住組は、ゼミの実習があるとかで、残念ながら今回不参加だ。

 ピーク時を外したはずなのに、それでもお店は超込みだった。麦茶で喉を潤したあと、川崎マキの独演が始まる。

「結論から、行きましょう。犯人、ヨコヤリ君のお母さんでした」

 恋愛適齢期の男子がいない場では、イモ歴女もハキハキしゃべれる。

「ヨコヤリ君?」

 ヨコヤリ君のフルネームは、横山リオで、渡辺啓介受持ちクラスの生徒さんだ。クラス一の痩せぎすで、クラス一背の低い男子生徒。川崎マキの男性バージョン、といったら、そのキャラクターがつかみやすいただろうか。理系男子、特に工学部志望の男の子は、地味な感じの人が多いけれど、その中でも、一等地味な感じの生徒である。いや、地味というより無気力な感じで、無口とでも言ったら、いいだろうか。友達もどうやらいなさそうだ……というか、少なくとも、塾で彼がクラスメイトと話しているのを、見たことがない。匿名掲示板「3ちゃんねる」等に、あることないこと書き込むのが趣味。レスバトルをすれば、相手が根負けするまで粘着する困ったちゃん、だとも言う。典型的なネット弁慶の陰気キャラ……いや、本人曰く「ねらー」らしい。

 ヨコヤリ君が、今のヨコヤリ君になったのは、母親の影響大だ、ということで、彼を知っている人間の意見は一致している。

 とにかく、過保護なお母さんなのだ。

 西くんのご母堂のような、教育ママゴンという感じのタイプではない。

 二十歳でヨコヤリ君を産んでも三十半ばのはずなのに、二十代前半のルックスを保っている、美人さんだ。自分でもキレイなことをじゅうぶん自覚しているらしく、いい年して、我が姪のようなミニスカート姿も辞さないママさんなのである。人当たりよく、我が塾の女子生徒さんたちと、友達のような会話ができるお母さんである。そして、他人に対するフランクな態度とは裏腹に、息子には口答えひとつ許さないママさんでもある。かといって、スパルタタイプ、というのでも、ない。息子を、幼子扱いする……恋人扱いしちゃうようなタイプ、といったら、いいだろうか。

 我が庭野ゼミナールは、生徒さんの帰宅時間に合わせて、ある程度まで授業のスケジュールの融通をきかせはする。でも、あまりにも遅くなれば、保護者送迎を頼む。女子生徒の場合は特に、だ。

 まだ空が明るいうちでも、ヨコヤリ君のお母さんは息子を迎えにくる。まだ授業が終わってないうちに来るのはもちろん、息子同伴で塾に来たりすることもある。

 いったいどれだけヒマなんだ……と思うが、口が裂けても、本人の前で言ったことはない。塾の建前として、教育熱心な保護者は、大歓迎なのだ。

「で、川崎くん? ヨコヤリ・ママを犯人扱いする根拠は?」

「まず、どうやって犯人にたどりついたか、説明します」

 川崎マキ援助交際説の噂は、方々から、多々でているが、最初の最初、聞き及んできたのは、渡辺啓介だった。

「犯人は、犯行現場に戻るってヤツよね」

「全然違うと思う。てか、黙って聞きなさい、桜子」

「だって、ハンバーグがまだ来てないから」

 川崎マキは、木下先生に頼んで、渡辺啓介に詳細な聞き取りをしてもらった。

 その結果、彼に噂を吹き込んだのは、担当クラスの女子生徒たちであることが分かった。渡辺啓介は、私に注進に来たほか、理工系担当仲間の千葉先生に話した。

「ああ。あの子たち。理系ガールズ六人衆」

「千葉先生、担任じゃないのに、知ってる?」

「塾内では、有名でしょう。理系ガールズ。勉強熱心な子たちでね。理系文系のクラス分けは、二年になってからだっていうのに、入学早々、飛び級を申し出てきて。1年生にして、すでに2年の理系クラスにまじって、先取り学習中、ですな」

「へー」

 恥ずかしながら、知らなかった。

「桜子? 同学年だよな?」

「うん。頭のいい子たちよ。私は、ちょっと苦手」

 西くんの情報の出は、木下先生からだった。その木下先生は、女子トイレで、生徒たちの立ち話を図らずも盗み聞きしてしまっていた。そして、今思うと、その女子生徒というのが、渡辺啓介の生徒たちだった。

 これで、塾に噂蔓延の、あらかたのルートが説明できる。

「……なるほど。その女子生徒グループに、ヨコヤリ・ママが噂を吹き込んだ」

「女子生徒のグループに、同じ中学出身の子がいるので、帰りの石巻線の中で捕まえて、確認しました。ビンゴでした。ヨコヤリ・ママ、クッキーだのマカロンだの、お菓子作りが趣味なんだそうです。でも、息子さん、ヨコヤリ君自身は甘いものがあまり好きじゃなくて、食べてはくれないそうです。で、あまったお菓子を捨てるのももったいないからって、同じ渡辺先生クラスの女子たちにおすそ分けしていたとか。で、休憩時間のささやかなお茶会で、よく、私の話が出ていたそうです」

「援助交際しているって?」

「いえ、その……私が、庭野先生に、えこひいきされてるっていう、噂です」

「なるほど」

 背面アプローチ一回目、東松島での焼肉パーティー。

 背面アプローチ二回目、教師二人、生徒二人だけの特別個別授業。

「サクラちゃんは身内だけど、なんで関係のないセンパイが? て、その同級生に逆に詰問されました」

「そうかあ。息子を特別扱いしてもらえないことに不満の、ヨコヤリ・ママの嫉妬が原因ってことか」

 逆恨みも、いいところだなあ。

「いいえ。正当な不満だと思いますよ、塾長」

 ボンゴレスパゲッティのアサリをつついていた高橋先生が、静かに言う。

「そもそも、なぜ、焼肉に連れて来たりしたんですか?」

 私は、恋愛用の特別指南、背面アプローチのことを、かいつまんで説明した。

「ドSパトロンがノーパンを強要してるっていう噂の元、たぶんそこですよね」

「ううむ。情報、漏れまくり」

「背面アプローチそのものが、その理系女子グループに漏れてるかどうかは知らないですけど……おそらく、そういうのも含めて、えこひいき全てが、女の子たちには面白くなかったのだと、思います」

「女の子、たち? どういうことです、高橋先生? ヨコヤリ・ママじゃなく、渡辺先生クラスの女の子たちが、その不埒な噂に加担していたと?」

 ヨコヤリ・ママのマカロンは、そんな買収に応じるくらい、うまかったということか?

「そうじゃなくて。ひょっとしたら、その理系女子グループの中にも、ひそかに渡辺先生を狙っていた女の子が、いたかもってことです。そうでなくとも、身近にいるイケメンが、全然知らない他クラスの女の子にツバつけられるのは、面白くない。相手がアイドル級のかわいい女の子だったり、モデル級の美人だったりすれば、まだ許せるし、諦めもつく。でも、塾の中でも一等地味なイモ娘で、しかも自分たちより特段優れたところがない……顔でも、ボディでも、頭のよさでも……女の子となると、我慢できない」

なんだか、ズケズケとモノを言うなあ。

 高橋先生が離婚した理由の一端を、かいま見た感じがする。

「……しかし、それでも、あることないこと噂するのは、名誉棄損だ」

 ようやくテーブルにきたハンバーグにガッツキながら、桜子が言う。

「タクちゃん。それを言うなら、ないこと、ないことでしょ」

 高橋先生が、改めて言う。

「彼女たちは、彼女たちなりの正論で動いてるんです。おそらく、それに共感する女の子だって、少なからずいると思います」

「でも、援助交際しているなんて、失礼千万なことを……」

「塾長、女の子って、怖い生き物なんですよ」

「うむむ」

「……その女の子たちを教務室に呼んで、こってり絞ろうと思ってたんだけど」

「ダメですよ、塾長」

「その心は? 高橋先生」

「その一。塾長は、この恋愛ゲームの中で、すでに中立じゃありませんから。女の子たちからしたら、川崎さんの味方が、権力をカサに着て、プレッシャーをかけてきた、卑怯だってことです」

「卑怯、か……」

「その二。噂を流したのが彼女たちだってことが知れわたれば、いずれしっぺいがえしがきます。放っておいても、痛い目を見ると思いますよ。そして、三つ目」

「まだあるの」

「最重要にして唯一の対策。川崎さんのツラの皮を厚くすることです」

「ずうずうしくなれ、ですかな」

「違います、千葉先生。雑音耐性を身につけなさいって、ことです」

 渡辺啓介は、たまたま誰もが認めるハンサムガイだったが、そこいらへんにいるごく普通の男の子だったとしても、この手の波風は立つものだ……というのが、高橋先生の見解である。

「ロビンソン・クルーソーの島で暮らしてるんじゃ、ないんだから。誰かが誰かを好きになるのに、外野で何も起こらないはず、ないじゃない。やましいことがないなら、強く生きなさい、川崎さん」

 長いセリフを一挙に言うと、高橋先生は、ミネストローネスープを一挙に飲み干した。

「恋愛の大家ですね、高橋先生」

「違いますよ、塾長。当たり前のことが、当たり前に分かってなかったから、私、離婚したんです」

 私はあなたの味方にならないから、という高橋先生の突き放した一言をしおに、この日の会議は終わった。

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