第14話 実践二回目
「舞台は塾の自習室。四十八手の二番目『抱卵』でいくことにする」
塾の入っている建物は、元々、他の塾の持ち物だった。
三十年ほど前、スパルタ教育を売りに、ずいぶん繁盛した塾だ。二十年ほど前、やはりスパルタ教育が原因で廃業した。傷害罪だか監禁罪だかで保護者から訴えられ、経営者が逮捕されたのだ。
十年間、引取手のないまま、建物は放っておかれた。
当たり前だけど、塾経営に必要な設備は、一通り揃っている。
事情が事情だけに、値段も破格。
それで買い求めたのだけれど……今でも、ヘンな道具が残っている。
ローンが残っていて、内装にカネをかけられないという事情もある。
不動産屋に最初に案内してもらったとき、私は思わず漏らしたものだ。これは、新興宗教の教会か、それとも秘密のSMクラブでもあったのか、と。不動産屋は頬を引きつらせながら、言ったものだ。
皆様、そうおっしゃられますけど、ごく普通の塾でした……と。
どこが普通だ、というツッコミはナシにしてください……とやはり引きつった声で、不動産屋は続けた。
それで、私は黙って買い求めた。
商談の最中、ブラックなボケ・ツッコミをかます根性が気に入って、だ。
それで……。
懺悔室、反省室などと名前がついた教室群も、そんなヘンな「備品」のひとつ。
なぜか教室のドアが鉄格子になっていたり、三角木馬がおいてあったりした。
大半は物置にあてている。けれど、比較的「マシ」なのは、自習室にしているのだ。
「自習者は、川崎くんに、桜子。前回のことがあるから、桜子の役目は純粋エキストラ、とする」
成績、最近芳しくないし、本当に勉強してなさい。
「ミラー役兼仕掛け人には、木下冬実先生を抜擢」
桜子の質問に答えるふりをしながら、さりげなく、川崎くんに合図だ。
「川崎くん。君も何くれとなく、木下先生に、質問する。渡辺啓介に直接話しかけるのは、ムリでも、木下先生になら、大丈夫だろ。木下先生は、質問されても意味がよく分からないふりをして、渡辺先生に相談。そして渡辺啓介が、後ろから川崎くんのテキストを覗き込むように、しむける」
今回のため、川崎くんには髪型をかえることを命ずる。耳元や横顔がきれいに見えるように、結わえるるなりなんなりしてくれ。
姪がすかさず、言う。
「それならいつも、みつあみオサゲ、してるじゃない」
「こほん。イモっぽさを少しでも払拭するため、他の髪型にすることを、命ずる」
そういえば、イモ娘の洗脳、しとらんかったな。
「あ。あと。あんまり重要じゃないんだけど。タクちゃん、科目、何にするの?」
言うまでもなく、渡辺啓介の専門は理数。そして、木下先生のほうは英語だ。
「不自然、じゃない?」
「ううん。じゃあ、桜子が英語。川崎くんが数学、としておくか」
この安易な決定が、あとで失敗の原因となるのだが……。
入り口ドアと奥の窓を結ぶ直線上に、長机を二つ、配す。
桜子とマキちゃんが、向かい合って、席に着く。
渡辺啓介と木下先生は、随時、好きな場所で待機、だ。
私は隣室にいた。壁にはハーフミラーがはめ込んである。桜子たちの挙動が、一目瞭然だ。
しかし……前の塾長、よほど趣味が悪かったんだろうな。
前回の成行きがあるので、西君が助手をしてくれることになった。木下先生にさりげなくメッセージを伝えたり、渡辺啓介を牽制したりする役目、だ。
自習が始まるとともに、早速このメッセンジャーが必要になった。
「西くん。木下先生に、メッセージを頼む」
「はい。なんてッスか?」
「お尻をぷりぷり、振ってあるくな」
「正気ですか? そんなこと、言えるわけないっス」
「でも、言わなきゃ、まずい」
最初に注意しておくのを、忘れた。彼女は、何か特別な使命があると、左右高さの違うハイヒールをはいてくるのだ。
「正確に言えば、はき古したハイヒールと、新品なんだが。左右で、新旧違うのをはくのだ」
由来がある。フォードの偉人伝を読んで、感銘を受けたせいだ。
西くんが、頓狂な声で繰り返す。
「フォードっスか? あの、アメリカの自動車の?」
現メーカーを作った初代フォードは、今風に言うとアメリカンドリームの体現者だ。裸一貫から身を起こして、世界一の大富豪になった。大衆消費社会の礎を作った人物でもある。この手の偉人にありがちな、様々なエピソードの持ち主でもある。
左右、違う靴、というのもその逸話のひとつ。
新聞記者の質問を受けた彼は、こう答えたそうだ。
私は今は大富豪だが、昔は貧しかった。いつか、もしかしたら、再び貧しい時代に逆戻りするかもしれない。そうならないように、戒めの意味を込めて、毎年正月には片方だけ新しい靴を履き、片方は古い靴を履くのだ、と。
「初心忘れるべからず。勝って兜の緒を締めよってとこだな」
「いい話じゃ、ないっスか」
「木下先生も、そう思ったんだろうな。だから、真似した」
「それの、どこがいけないんスか?」
「唐突に話題は代わるが、マリリン・モンローについて、どれくらい知ってる?」
「ええっと……地下鉄の通風孔の上で、スカートが風でまくりあがって、いやーんっていうシーンすかね」
マリリン・モンローはアメリカの初代セックスシンボルといってもいい存在だ。
寝巻きに何を着ていると聞かれてシャネルの五番と答えたり、プレイボーイ創刊号のヌードモデルをしたり、様々な逸話の持ち主である。
その逸話のひとつに、モンローウォークというのがある。
「お尻を左右に色っぽく振りながら歩くっていう、アレだ」
マリリン・モンローは元々見事なヒップの持ち主だけれど、それだけで、あんなわざとらしい歩き方には、ならない。
実は彼女、映画でそのシーンの撮影があるときには、左右で高さの違う靴を履いていた、というのだ。
「五ミリだか一センチだか、それくらい違う形の靴、だったと思う」
「へえ」
「足を踏み出すステップの位置がずれることで、お尻が自然に振られる、という理屈らしい」
「へえ……塾長、何でもよく知ってるっスね」
「で、三段論法の結論だ」
木下先生が、クソマジメにフォードの真似をすると、和製マリリンモンローができあがる。
「ある意味、悲劇っスよね」
「そう。でも、心躍る悲劇なんだ」
「そんなにエッチ臭いんスか?」
「彼女が試験監督をすると、男子と女子とで平均点が思いっきり違ってくる」
もちろん、男子のほうが思いっきり下がる。
あのお尻のせいだ。
「ウソ、でしょ」
「本当だ。でも、なぜか苦情を言う男子生徒はいない。西くん、君なら理由、分かるな?」
「まあ……お金を払ってでも、見たくなるようなシーンっすしね」
「わざとやっているならともかく、動機そのものがマジメなわけだから」注意できない。
「うーん」
「見よ。渡辺君の鼻の下を。グーンと伸びてるだろ」
マントヒヒなみだ。
色男と言ったって、所詮あの程度。セックスアピール300パーセントの女性の前では、汲み取り便所の中に潜むデバガメと大差ない。
「川崎くんが見たら、百年の恋も興ざめっスよね」
彼女のほうは、机とにらめっこしっぱなしだ。
「そうだろ。そうだろ。イケメンと見たら、騒ぐ女の子たちに、教えてやりたいよ。メタボがなんだっ。髪が薄いのがなんだっ。西くんも、そう思うだろ?」
「いや……あの……塾長ほど、思ってないっス」
「なんだとおお」
「自分、実は彼女いるっスよ。二つ年上の大学の先輩で、マッチョ好きっす。顔が多少不細工でも、アピールできる何やらがあると、やっぱ、違うっスよ」
「ええいっ。さりげなく彼女自慢しとらんで、さっさと命令を遂行しろっ」
というわけで、西くんは命令を遂行しに行った。
ハーフミラー越しに観察する。西くんは入り口ドア付近にたたずんだまま、動かない。
じっと、動かない。
そのまま、十分ほどして、彼は戻ってきた。
「君、何をしに行ってきたの? ちゃんと、声、かけてきたかい?」
「いえ。かけなかったっス。けど、木下センセのお尻、直ってないっスか?」
「ホントだ。ぴたりと収まってるな。どんな魔法、使った?」
「使ってないっス。ただ、じーっとお尻見てたら、自然に止まったんスよ」
そういって、西くんはハーフミラーへ顔を向けた。
私は、西くんの鼻の下がぐーんと伸びていくのを見て、木下先生の自粛の理由が、よく分かった。
「その顔を見たら、確かに貞操の危機を感じるもんな」
「塾長ほどじゃ、ないっスよ」
「なにいっ。私の顔、そんなに崩れてるか?」
「少なくとも、ヨダレくらいは拭いたほうが、いいっスよ」
我々が隣室でバカ話をしている間も、背面アプローチは淡々と仕掛けられていく。
「抱卵」は文字通り、彼氏に後から抱え込むように、近づいてもらうための方策だ。
マキちゃんが、渡辺啓介に、質問する。
彼がマキちゃんの手元を覗き込む。
そのタイミングを見計らって、テキストを隠すように、動かす。
あるいは、テキストのあちこちを、指差す。
彼がマキちゃんの手管で、視線をあちこち動かすようになってくれたら、OK。
ついでに、身体まで動かすようになったら、成功。
質問のドサクサに紛れて、後ろから抱きしめてもらえたら、大成功。
さて。
どこまでいきますものやら。
ガラス越しに見ていると、打合せ通り、出だしはよかった。
川崎マキはしきりに木下先生を呼び寄せ、質問している。
木下先生は、渡辺啓介に相談する。
「しまった。ブラウスの前、ボタンを上まで留めておけって注意するの、忘れた」
「もう一回、いっとくっスか?」
「いや。もう、タイミングが悪い」
渡辺啓介の視線が、木下先生の胸を泳いでいる。
やばい。
どうにか、ならんか。
「あ。サクラちゃん、フォローに入ったみたいっスね」
姪に呼ばれ、木下先生はカップルの元を離れた。
自然、渡辺啓介が、マキちゃんのノートを覗き込む。
「よし、桜子、よくやった」
しかし、渡辺啓介の反応が、イマイチだ。
トイ面の女子二人が、どうも気になる様子。
こら、渡辺くん。
給料払ってんだぞ。
生徒指導に、専念しろっ。
私の声が届いたのか、ようやく背面アプローチ、再開だ。
ほら。
それ。
いけよ。
ケチケチすんな。
がばっと、襲ってやれええっ。
「川崎君、全然、顔、上げないっスね」
「ヘタレ娘だからなあ」
そして、大方の予想通り、彼女は立派なヘタレっぷりを発揮したのだ。
「川崎君、なんか、泣いてるみたいっスよ?」
「うん?」
西くんの指摘は、本当だった。
「嬉し泣き……じゃ、ないよな」
「渡辺さん、なんか怒ってるみたいっス」
川崎君が、トイ面の二人に助けを求めているようだ。
木下先生が、まあまあと、とりなしている。
渡辺啓介のイライラが、しかし、どうにも収まらない様子。
どっかり、パイプ椅子に腰を下ろすと、今度は貧乏ゆすりときた。
「もしかして、緊急事態、発生か?」
「もしかしなくとも、そうみたいっス」
西くんが慌てて、監視室を飛び出した。と、同時に、渡辺啓介が、ふらりと自習室を出るのも、見えた。
少しばかりドアを開けて盗み聞きすると、渡辺啓介の湿った声が、聞こえた。
「なあ、西。オレ、あの女の子に嫌われてるのかな?」
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