第5話 方法論の紹介

 これは、男の「ナンパマニュアル」の逆なのだ。

 世の女の子たちが、好きな男をゲットするのに四苦八苦しているように、男のほうも、みんなそれなりに苦労している。

 書店の男性誌コーナーで、ちと立ち読みしてみたまえ。

 馬に食わせるほど、ナンパ術の解説書が立ちならんでいることに、気づくだろう。

 私がこれから伝授する術は、その応用、というか逆の技、なのだ。

「要するに、肉食系女子とか、そういうふうになれっていう、マニュアル?」

「違うよ」

 いくらマスコミが騒いでも、積極的に打って出るのが苦手という女子は、いつの世にも存在する。

 そう、この川崎マキくんのように。

 それで、受身タイプの女の子が、受身のまま、異性にアプローチする方法を編み出したのだ。

「それが今から伝授する、背面アプローチ」

「背面アプローチ?」

 高校生にはちと難しいかもしれないけれど、どこかの書店で、心理学の入門書をぱらぱらめくってみたまえ。

 基本的には、実験心理と臨床心理と、二系統ある。このうち、実験心理学のほうのテキストを色々、漁ってみるのだ。

「それで?」

 実験心理学というのは、エッシャーの騙し絵みたいな錯覚に関することから、交通標識への応用まで、広い範囲に渡っている。そのうちのひとつに、「パーソナルスペース」という単語が出てくるはずだ。

「ぱーそなる、すぺーす?」

 私の下手な説明より、グーグルあたりで検索してもらったほうが、理解がはやいんだろうけれど……絵解きじゃないと、直感的に分かりにくいか……ええっと、だな。

 普通の社交生活をしている人間っていうのは、赤の他人と交渉するとき、一定の距離をとる。その、つかず離れず、相手を避けようとする無意識の空間を、パーソナルスペースと呼ぶのだ。

「前面一メートルちょい、左右と後方、三十センチちょい、の空間だったかな」

 これは、男性と女性とで微妙に違う。

 場所にも左右される。満員電車の中とかでは、当然のことながら、スゴク圧縮される。

「マンガなんかで、見たことあるかも」

 桜子の言葉に、マキちゃんもうなずく。

「うむ。了解しているのなら、話は早い。この心理学上の発見、最初は経営・ビジネスの分野でよく利用されたのだ。具体的に言うと、訪問販売セールスマンの、交渉術」

 布団だの百科事典だの化粧品だの壷だの御札だのハンコだの……とにかく、一昔前には、玄関口まで出かけていって、モノを売るセールスマンがいた。

 呼び鈴を鳴らして、いかにドアを開けさせるか……とか、財布の口を緩める方法だとか、この心理学を応用したマニュアルが、結構出回った。

「簡単に言ってしまえば、奥さん方のパーソナルスペースになんとか入り込んで、心をとろかしなさいって、そういう術だ」

「なんだか、言い方がいやらしい」

「でも、実際そうなんだから、仕方がない」

 で、そのうちに、このノウハウを応用して、ナンパ術に用立てる輩が現れた。

「要するに、モノを買わせるのも、彼女を引っ掛けるのも、一緒なんだな。キモは、相手のパーソナルスペースに、いかに入るか」

 実際には、心を許した相手に入らせてあげる……という空間なんだけれど、この場合は逆。

 どうにかこうにかパーソナルスペースに入り込み、信頼に足る相手、と錯覚を起こさせる、と言ったほうがいいかもしれない。

「なんか、しょーもないテクニック、な感じがする」

「いやいや。涙ぐましい努力の結果なんだよ」

 で、今回川崎くんに伝授するのは、さらにこの応用。

 好きな男子を、いかに自分のパーソナルスペースに入らせるか。

「簡単じゃない。相手の体にぶつかるくらい、近づけばいいって、だけでしょ」

「そりゃ、君みたいなデリカシーのない人間は、それでいいだろうけどさ」

 そんなことができれば、最初から苦労はしない。

 正面から近づくということは、必然、相手のパーソナルスペースに立入る、ということでもある。

「普通はどきっとしちゃうよ。口が悪いタイプなら、なんだこの女、ずうずうしい……なんて言いかねない」

「そうかなあ」

「もっと露骨に言おう。好みのタイプの美人なら、鼻の下を伸ばして歓迎するかもしれない。けれど、そうでないタイプなら……」

「ああ。分かった。分かったわよ」

 で。

 引っ込み思案、とまではいかないけれど、普通の受身の女の子なら、正面切ってお目当ての彼氏に近づくのは難しい。

「それで……お目当ての彼氏に、後ろから近づいていくための、アプローチ?」

「正確に言えば、彼氏に後ろから近づいてもらうための、アプローチだけどね」

 利点が、いくつかある。

 一つ目。パーソナルスペースが一番薄い部分なので、身体同士の接近が、容易。

「逆説的ではあるけれど、パーソナルスペースに入らせないでも、親近感が湧く距離に近づける。正面と違って、彼氏を入らせやすい部位でもある。女の子にとって、抵抗の少ない場所なんだ」

 二つ目。振られたときの痛手が、最小。

「何度か背面アプローチをしていれば、マキちゃんの気持ちも自然、ワタナベ先生に伝わると思う。それから、彼氏がどうするか、だよね。思し召しがあれば、何くれとなく話しかけたり触ったり、してくれるかもしれない。そうでない場合には、さりげなく逃げちゃうんじゃないかな、と思う。この逃げられたときのダメージが少ない。だって、彼氏は背後なんだから。最後まで、気づかないふりをすればいいのさ」

 三つ目。応用範囲が極めて広い。

「男のナンパ術のマニュアルとか、セールスマンの交渉術の本を見れば分かるんだけど……融通が利かない。パーソナルスペースはあくまで正面突破、セールストークと根性でごまかせ、みたいな。でも、背面アプローチは違う。たとえば、電車で横並びの席に座って、寝たふりをする、なんていうのも、この応用って言っていい。野郎のほうの手練手管って、意外とバリエーション少ないんだよね」

 桜子とマキちゃんは、しばし、私の言葉をかみ締めていた。

 二人、相談しあって、私の講義を理解しようとも、していた。

 やが、桜子が代表して、言った。

「百歩譲って、タクちゃんの言うとおりだと、するわよ。でもね。それとノーパン・ミニスカが、どう関係するわけ?」

「背中に目をつける、トレーニングだよ」

 私は胸のポケットから、魔法の道具を取り出した。

「近遠、両用メガネだ」

 ドラえもんなら、高らかなファンファーレがなってもいい場面だぜ。

 さあ、驚いてくれ。

「ジジくさっ」

「桜子は、どうしてこう、ひとをジジイ扱いするのが好きなんだ?」

「だって、実際ジジイくさいじゃない。遠近両用メガネって、お年寄りがよくかけてるヤツでしょ?」

「遠近、じゃない。近遠だ」

 遠近両用メガネは、近くも見えない、遠くも見えなくなったお年寄りが、近くの場所、遠くの場所を見るための補正レンズである。

「これはその逆。近くも見えなくなり、遠くも見えなくなるメガネ」

「タクちゃん、それって意味、ないじゃん」

「一定の距離だけ、しっかり見えるんだよ。ちょうど、視野三十センチの距離に、調整してある」

 いうまでもなく、後方のパーソナルスペースに該当する距離だ。

「これから川崎くんには、この本棚の掃除を手伝ってもらう。雑巾とバケツを持って、あちこち動いてもらう。私は川崎くんの補助をする。もちろん、後ろから近づいていくわけだ。で、たとえば後方三十センチの距離まで近づけば、当然川崎くんの真っ白なお尻が見える」

「なんか、ヤラシイ言い方」

「だって、実際ヤラシイもん……でもさ、後ろにしっかり『目』がついていれば、ガードだってできるだろ。やり方は、二つ。一つ目。私がこのメガネの焦点を合せる前に、スカートの裾を、しっかり抑える。要するに、パーソナルスペース内に、いれない。もう一つは……私を川崎くんの背中、三十センチ以内の距離に入れる。まあ、ぶつかるつもりで、逆に近づく。つまり、自分のパーソナルスペースのさらに中に、観察者たる私を入れる、ということ。何度かやって、完全にお尻をガードできるようになるころには、背面部分のパーソナルスペース位置を覚えるって寸法」

 つまり、後ろにもしっかり『目』がつく、ということなのだ。

「スカートは、真っ白いお尻と対照的になるように、紺、黒の二種類を用意した。これだと、光の加減でよく見えたり、見えなかったりする。川崎くんがパーソナルスペースの範囲を覚えた暁には、この光線の強弱で視線をかわす練習をしてもらう。応用だね。周囲の環境をじゅうぶん利用できるようになれば、一人前の背面アプローチ使い、認定だ」

「でもさ、タクちゃん。それなら、単なるミニスカで、いいんじゃない? あえてノーパンじゃなくとも、白いパンツはいてりゃ……」

「それじゃ、必死でガードする気に、なれないだろ」

「なるわよ」

「ここでの苦労が、あとで力になるんだよ。最初は一生懸命近づいていっても、彼氏に無視されるかもしれない。でも、ここでノーパンにまでなって修行したんだって思えば、つらく苦しい途中経過でも耐えられるようになるっ」

「そうかなあ」

「そういうもんなんだよ」

 川崎マキは、半分水のはいったコップをもてあそんでいる。

 やるかやらないか、決心がつかないといった風情だ。

 水は飽きたのか、桜子は冷蔵庫からウーロン茶を持ってくる。

 後輩の勧めを断って、マキちゃんは相変わらず、コップの水を眺めたままだ。

「最初は、床にカラーのガムテープを貼って、位置決めしようと思ったんだけどね。それだと動きがない。どんな場面にも対応できるようにって、苦労してこの方法を編み出したんだ」

「ふーん」

 彼女、まだ決心がつかないようだ。

「川崎くん」

「はいっ」

「やっぱり、やめとく?」

「えっ……」

「君の、ワタナベ先生への思いって、その程度だったの?」

「……」

「たとえば、たとえばだよ。この間は否定してたけど、桜子もワタナベ先生のこと、狙ってたとする。ウチの姪が君に差をつけたくて、パンツ脱ぎますって宣言しても、君はやらないわけ?」

「ちょっと、タクちゃん、それなによ。キョーハクじゃない」

「愛の鞭だ」

「やっぱり、キョーハクよ」

「……二人っきりだと貞操の危機、かもしんないけど、桜子っていうオブザーバーがいるわけだし。大丈夫、途中で発情して襲ったりもしないから」

 私は、ただ、生徒さんの幸福を願っているだけなんじゃあ……とさらに力説してみる。

 ダメ押しに、「逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ」と某アニメの名台詞を耳元でささやいてみた。

 川崎マキは、イモな外見に似合わず、ノリがよかった。

「私、やります。パンツ、脱ぎますっ」

 こうして、彼女は修行を開始したのだ。

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