第39話 天使も悪魔も眩しくて

 人っていうのは突然怖い思いをしてしまうと、体を丸めてしまうという話を聞いたことがある。


 ウォータースライダーの急激なカーブでバランスを崩しながら滑っている俺は、それでも体を丸めることはなかった。いや、ホント怖かったんだけど、体を丸めることもできないほど滅茶苦茶に揺さぶられていたと言ってもいい。


「うおわああああ」


「ひゃああ! あははは」


 背後で悲鳴を上げていた学園の天使は、どういうわけかちょっとずつ笑い声に変わってきている。何と呑気な。それともこのくらいのアトラクションには慣れっこなのか。そんなことを考えているうちに、猛烈な速度で俺達は出口に辿り着き、まるで何かが爆発したようにプールに飛び込むことになった。


「ごぶぶぶ!」


 マジで息が止まるんじゃないかと一瞬思ったが、数秒してからただプールの中に沈んでいるのと変わらないことに気がつきゆっくりと体を上昇させる。本当はこんな無様な終わり方じゃないんだろうけど、まあドジっ子効果というわけだ。


 水面から上がり浮き輪に肘を乗せると、向かい側から春華が水面から飛び出して、茶色くてサラサラな髪をなびかせた。まるで人魚みたいだ。まあ、人魚なんて一度だって見たことはないのだけど、きっと誰しも、このあどけなくて眩しい姿を見たらそう思うだろう。


「ぷはぁっ。あはは! 凄いことになっちゃったね!」


「誰のせいだよ! 誰の」


「ごめんね! 私ってばまたやっちゃった」


「別にいいけどさ。なんか変だったじゃん。さっきのお前」


 それは別に突っ込まなくてもいいことだったのかもしれない。しかし俺にとっては、まるで時間が経つほどに気になってしまう週刊漫画の続きみたいな感じだったのだ。


「ん。えーとね……少女漫画が好きな話を、急にしたくなっちゃっただけ」


「こんな時にかよ。肝が座っているというか、変わっているというか」


「秋次君だって変わってるよ。バイトのレア求人みたいに」


「嫌な例えだな。せめて正社員の広告って言ってくれよ」


「残業は月に百時間!」


「死ぬわ! 絶対死んじまうだろ。今じゃ罰せられるからなそんな会社」


「あはは! ねえ、秋次君」


 彼女はきっと死にそうになほど疲れている人間をみんな残らず癒してしまうような、まさに天使の微笑を浮かべつつこう言った。


「私はね、王子様が好きなの」


「……え?」


 きっと俺は間抜けな顔をしていたんだと思う。何の話をしているのか、全く理解ができなかったからだ。次の瞬間、天使はちょっと眉尻を下げつつ上目遣いになって、


「あの。少女漫画の話ね。さっきの」


「あ! ああー……そうかそうか」


 半分理解していなかったが、とりあえず俺は納得したような反応をしてしまった。だけど心の中には、やっぱりクエスチョンマークが溢れ出てくるのだ。そしてなぜだか、春華とただ黙って見つめ合ってしまう。


 それは全く不思議な経験だったと言える。何かが俺の中で鐘を鳴らしている。でもその鐘がどうして鳴っているのか、一体何を俺に気づかせようとしているのか解らない。ただ、胸の奥に杭を打ち込まれたような、唐突な衝撃と心臓の高鳴りだけははっきりと理解していた。


「なあ、春……」


 その時だった。ウォータースライダーから軽快な水拭きの音が聞こえ、猛烈な速度でやってくる麗音達が視界に入ったのは。


「おおいいい! お前ら、どけどけどけー!」


「ちょっとお!? 二人ともどきなさいよぉお!」


「「へ!?」」


 俺と春華はずっとウォータースライダーの着地点にいたままだった。嫌な予感、とか思ってる暇すらもない。


「わあああ!?」


「きゃあっ!?」


 今日一番の水しぶきは、きっとこの先も経験することはないだろうと断言できるほど激しく飛び散った。俺達は盛大に事故ってしまったのだ。




「いやー……疲れたああ」


 今は帰りの電車の中。ガラガラの電車内のロングシートに俺、春華、夏希、麗音という並びで座っている。


 麗音は天使と悪魔越しにしきりに話しかけてくるし、天使は今でも元気いっぱいな様子だ。夏希はちょっと疲れてしまったのか、どちらかというと静かに外の景色を楽しんでいる。


「じゃあ私ここだから。またね!」


 最寄駅に到着した学園の天使は、白いワンピースをひらりとなびかせて手を振りつつ電車から降りていく。最後にチラリとこっちを向いた気がしたけど、ちょっとばかり今日の俺は自意識過剰かもしれない。


「おう。じゃあなー」


「海原よ! 次も頼むぞ。今度こそモデルに、がふ!?」


「いい加減になさいよアンタ」


 悪魔の肘打ちが綺麗にヒットしたらしく、珍しくイケメンが痛そうな顔をした。


 そこからはぼーっと過ごすはずだったのだが、ホラー映画とか心霊動画みたいに、いつの間にか隣に忍び寄っている奴がいたわけで。スッと柔らかい肩が触れてくる。


「うおえっ!? な、何だよ。ビックリさせんなよ」


「あら? ごめんなさい。驚かせちゃった?」


 いつの間にかすぐ隣に夏希がいた。ちょっと澄ました顔で前を向き、流れる景色を鑑賞している様子だった。


「ぐごごごご! すぴー!」


 麗音はどうやら騒ぎすぎて疲れたらしく、豪快ないびきを響かせている。まあ、これなら距離を開けたくもなる。


「今日は楽しかったわね。ビーチボールは散々だったけど、他はなかなかだったわ。合格よ」


「お前が何度も顔面でサーブを受けていたのは驚きだった。やっぱ運動は苦手なのか」


「う、うるさいわね! あたしは体より頭を使うタイプなの。ねえ、海原さんと何かあったの?」


「え? い、いや……」


 何もない。別に何かがあったワケじゃないんだが。俺の心の中には、明確に今までとは違う衝動が潜伏しているようだった。でも、はっきりとは解らない。自分でも悩んでるし、これは夏希に言っても仕方のないことだろう。


「怪しいわ、今の反応。あたしに何か隠してない?」


「か、隠してねえよ!」


「あたしに隠し事なんてしたら許さないわよ」


「か、隠さないって。何も」


「じゃあ聞くわ。好きな食べ物と嫌いな食べ物を言ってみて」


「好きなのはカツカレーかな、けっこう辛いやつ。嫌いなのは甘すぎるものは大体」


「お誕生日はいつ?」


「六月二日」


「好きな異性のタイプは?」


「うーん……はっきり解らん」


「どうしてよ! そこが一番大切じゃないの」


 ちょっとばかり身を乗り出してきた悪魔に、俺は驚いて体をのけ反らせた。こういう時の彼女って本当によく解らない。


「うおわ! 何で一番大切なんだよ? じゃあお前は今聞いたこと答えられるのか?」


「当然でしょう。好きな食べ物は果物豆花よ。台湾のフルーツのことね! 嫌いな食べ物はオクラよ。あの独特のネバネバした感じってどうしても好きじゃないのよね。誕生日は八月二十日。いい? 八月二十日よ」


「じゃあもうすぐだな。何でそこを強調するんだよ……」


「好きな異性のタイプは、そうね」


 右足を組み、左手を顎につけながら考えこむ悪魔を見て、やっぱり好みのタイプなんて、はっきり解らない奴のほうが多いんじゃないかって気がした。麗音だったら明確に答えるだろうけど。そして電車が俺の最寄駅で停車する。散策やら水泳やらで疲れ切った重い体を何とか起こして、開かれた扉まで歩きながら手を振る。


「じゃあな。麗音の駅は二駅先だから、まだ寝てたら起こしてやってくれ」


「あ、ちょっと待ちなさい! 最後の答えを言ってないわ」


「また今度でいいよ」


「いいえ! 今言うわ。聞きなさい」


 どういうわけか意を決したように立ち上がる彼女。え? 何だよ急に。俺は扉から出て、ホームから彼女の言葉を待った。


「あたしはね。その……王子様が好きよ」


「へ?」


 間抜けな返事をしちまった時、丁度よく電車の扉が閉まった。なんて滑稽な反応をしちまったのかと恥ずかしくなりつつも、去っていく悪魔から目が離せない。そして悪魔もまた、俺から目を離そうとはしなかった。


 春華も夏希も、王子様が好きなのか。なんか子供っぽいじゃん。少年漫画好きな俺も人のことは言えないけど、なんて思いつつ改札を抜け、見慣れた街並みに溶け込んでいく。


 そんな時、ふと足が止まった。


「……王子様?」


 ずっと胸の奥でモヤついていた何か。これが答えじゃないのか? そんな直感じみた感覚で、疲れていた体と脳は一気に覚醒し、同時に強い困惑に包まれる。あの時、階段の踊り場で海原春華を抱き上げた時、彼女は確かに俺のことを、王子様と呼ばなかったか?


 もしかして彼女が好きなのって……俺?


 この推測はぼっちでコミュ障、彼女いない歴年齢の冴えない人間代表にとっては事件であり、しばらくその場から動けなくなるほどの破壊力を秘めていた。そんなわけねえよ、いやいや……でも。


 頭を鉄パイプで殴られたような衝撃を受けつつ、まるで不審者みたいに立ち止まっていた。

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