第26話

「よう。思ってたよりお早いご到着だったな」


 屋敷に時任がナナノを連れて上がり込んだ。ナナノは俯いて元気がなさそうだ。


「というか、あなたはどうやって祭壇から逃げていたんですか。地面に沈むとか軽くホラーでしたよ」


 それより黒山羊の方がずっとホラーだったのだが。


「んな“もん”決まってるだろ。門だよ門。あ、いまのダジャレな。石のミステリーサークルと虹敬泉のお前らが泊まってた部屋の窓が、ゲート的なあれで繋げられてんだよ。

 ……おいおい、繋いだのは俺じゃなくて土累奴教団だっての。そんなに睨むなって!」


「はあ。まあいいでしょう。ナナノちゃんが無事だったんですから」


「俺も無事だったぜ!」


 こいつは無視しよう。私とキリは思考を共有した。


「とにかく、ナナノちゃんが無事で本当によかったです。安心しました」


「お嬢ちゃんは二人に云いたいことがあるんだとよ。ほれ」


 時任の後ろで気まずそうにしていたナナノは、背中を押されて意を決したように顔をあげた。


「ナナノは、いいえ。七の巫女は記憶を取り戻しました。あの、わたしは……わたくしは……あたしは……自分は……」


「違和感があるなら今まで通り『ナナノ』が一人称でいいよ。記憶が戻ったんだね。よかった」


「ありがとうございます。ナナノはこれから役目を果たすため、海へ飛び込み渦潮に呑まれ生まれかわります。察しのいいキリさんたちは、もう状況を理解しているとは思うのですが」


「まあそうですね。ナナノちゃんが捧げられない場合、祝福された人──6本指の人は収穫されてしまうんですよね」


「俺とキツネちゃんは指5本でセーフだぜ!」


「ほんと黙ってください」


 私は時任にバツマークを書き込んだマスクを着用させた。今後こいつが喋ることは決してない。


 ナナノは畳に残された黒い染みを物憂げに見つめる。


「その通りです。ナナノを育ててくれた方々はもう祝福されてしまいました。差し出がましい願いだとは分かっているのですが、どうかナナノの役目を見送ってはいただけないでしょうか」


「役目を果たして人生を終える。ナナノちゃんはそれでいいんですか」


「ナナノはそのために育てられてきました。今更です」


 そうですか、とキリは嘆息した。


「ところで、ナナノちゃんはこの金庫のこと知ってましたか?」


 ナナノはぱちくりと掛け軸の裏に隠されていた金庫を見つめた。


「は、はい。でも中身は知りません。暗証番号も教えてもらったことはありません。数字の表示もなんだか変ですし」


 キリはカチカチとダイヤルを回した。おさらいだが、ダイヤルは零・壱・弐・参・肆・伍・陸・漆・捌・玖・拾・逸の12種類だ。


「お屋敷を調べたとき、この中身だけが分からなくてモヤモヤしていたんです。最初は66666とか77777だと思ったんですよね。開かなかったですけど。ナナノちゃんは最後の『逸』って何かわかります?」


「11です。古い字ですよね」


「やっぱり。この漢字にずっと違和感があったんですよ。きっと灰冠島独自の用い方です。これは私の想像ですが、灰冠島ではかつて12進法が使われていたんです。島民の方々は指が12本あるんですからそれが自然ですよね。

 つまりこの暗証番号は12進法表記なんです。77777を12進法表記に変換すると39015となります」


 ダイヤルを回して参・玖・零・壱・伍に数字を揃えると、カチリと快音がした。


「……空ですね」


「あ、中身は私が回収してたんだった」


 荷物をゴソゴソと漁って古ぼけた分厚い本と紐でまとめられた紙束を取り出した。本の表紙には『屍龒經敟』。紙束の表紙には『豐穣咒書』と書かれている。


屍龒經敟しりゅうけいてんは漢文で書かれていたので流石に読めませんでしたが、幸い豐穣咒書ほうじょうまじないのしょは日本語だったので内容を理解できました」


 字体が古すぎて、私は豐穣咒書すら読むことはできなかった。古文によく親しんでいる人や、キリのように数百年生きている人物でもなければ解読は不可能だっただろう。


「重要な部分だけ抜き出すと、この紙束には3種類の呪文が書かれていたんです。

 一つ目は『森の奥への入り口』。祝福の証があれば、神の僕である森の黒山羊の召喚と従属ができるようです。どうでもいいですね。

 二つ目は『交合の聖なる儀式』。豊穣の神を迎え入れるための契約の儀式で、招いた後は恵みへの感謝のしるしとして贄を捧げなければならないようです。これもいりません。

 三つ目は『森の黒山羊との離縁』。


 キリは大きく一歩踏み出した。


「もう一度聞きます。役目を果たして人生を終える。ナナノちゃんはそれでいいんですか?」


 目を見開いたナナノへ、優しく手を差し伸べた。


「ここで終わらせましょう。長く続いてきた歪な契約を」


 ──長い沈黙があった。


「……確かに呪文を唱えた場合、ナナノが役目をまっとうする必要はなくなるかもしれません。しかし灰冠島はどうなりますか。まず温泉が枯れます。川だって無くなります。作物だって採れなくなるかも。何より、これまで役目を果たして代々島を守ってきた、七の巫女の尽力はどうなるんですか。ナナノだけが助かっていいわけがありません」


 この責任感はとても7歳の女の子だとは思えない。きっと七の巫女として英才教育を受けてきたのだろう。

 だからこそ、子供に先のような発言をさせてしまう環境が憎かった。


「実はね、歴代の七の巫女に会ったんだ。そして助けてもらった。七の巫女が生まれ変わるとゴブリンみたいな外見になっちゃうんだけど、心はそのままだった。彼女たちは灰冠島の人と豊かさは人生の結晶って云ってた」


「その通りです。だからナナノは先輩方の意思を継がなくては──」


「でもやりたいこともたくさんあったみたい。学校へ行くとか島の外を見るとか恋をするとか。そして自らを魔法の生贄にしてまで、私たちを助けてくれた。私の押し付けなのかもしれないけど、ナナノが継ぐべきは七の巫女がやりたかったことだよ」


「その道はナナノちゃんには重責だとは思いますが一理ありますね。これからの人生、ナナノちゃんにはまず日本中を見て回ってもらいましょうか。落ち着いたら学校に通い友達を作って、無事大人に。さらに恋をして結婚。子供を育てて最終的には幸せに死んでもらいます。何百人分の願いを背負っているかわかりませんから、達成するのは非常に困難。並大抵のことではないでしょう」


「灰冠島については異常が通常に戻るだけだから、まあねえ。仕方ないよ」


「……ナナノはそんなに幸せになってもいいんでしょうか」


 いまにも泣き出しそうな、ただの少女の頭をワシャワシャとかき回した。


「もちろん。まだ7歳なんだからもっと夢を見ろ。憧れを抱け。未来は明るいよ!」


「もちろん人生が続けば、経験するのは楽しいことだけではないでしょう。悲しいこと、辛いこと、悔しいこと。いくらでもあります。でも裏を返せば全て他の七の巫女が体験しなかったことで、それらを乗り越えて幸せをつかむというのはとっても大変なことです。ナナノちゃんは今までの七の巫女の分まで幸せを得るため、がんばれますか?」



 消え入りそうな声で、はいと少女は答えた。零れる涙を隠すように、キリの尾に顔を埋めた。



 その満月の夜、私たちは一緒に呪文を唱えた。6本目、7本目の指がぼとりと落ちたお陰で、止血にあたふたすることになったけど、それだけで全ては終わった。

 火山から噴き出した虹色の雲が、月明かりに照らされて空へ、宇宙へ吸い込まれていった。



母なる神よ 契りを終え 星へ還りたまえ

 

くえ くえ しゅぶ=にぐらす 

千匹の仔を連れた森の黒山羊よ


いあーる むなーる へぐ めゆえ りをそいほ 

星辰を乱せ

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