第8話
私たちは温泉施設を訪れていた。今回の旅行のメインイベントの一つだ。そういえば、キツネは入浴しても良いのだろうか。
「んじゃそろそろ引っ込めておきましょうか」
キリからぽふんと音を立てて煙が吹き出した。煙が晴れたその場に立っていたのは、ただの美女だった。耳と尻尾って自由に出し入れ可能なのか。キリから広がる萌えの可能性に私は畏敬の念を抱いた。モフモフが消えてしまい、ナナノはどこか残念そうに視線を下げた。
塩でベタつく体を手際良く洗い流して、いざ露天風呂へ。
格式ある高級温泉は檜風呂というのが定番だが、ここは火山の恵みを受ける灰冠島。浴槽は凝灰岩で作られている。凝灰岩は濡れると滑りにくくなるという特性があるので風呂場にはもってこいなのである。
露天風呂は板でぐるりと囲まれているが、海を一望できるよう配慮されている。内陸の温泉ではできないことだ。
「お湯が真っ白だね。入浴剤使ってるんじゃないかって疑いたくなるくらい」
「こら、失礼ですよ。ここは源泉掛け流しなんですから。でもどんな成分が含まれていたらこんな牛乳みたいな色になるんでしょうか」
「入口の温泉成分表には『酸性硫黄泉』と書いてありました。温泉共通の筋肉痛や疲労回復効果に加えて、慢性的な皮膚病や糖尿病に効果があるみたいです」
ナナノちゃん物知り〜! 云われてみれば若干臭いような気がする。糖尿病にはまだ縁がないけど、疲労回復は長旅で酷使した体にとっての希望の光。温泉で疲れをとって明日も島を満喫しよう。
爪先が水面に触れた途端、温泉が絡み付いた。音を立てぬよう、ゆっくりと肩まで湯船に沈めれば、包み込むような熱が体の芯まで行き渡る。私が自分が湯に溶けてしまったかのような錯覚を覚える。腐卵臭がツン、と鼻をついた。温泉は浴槽に絶え間なく注がれ、少しずつ溢れていく。
海原が太陽に染まってゆき、キラキラと光が乱反射する。昔の島民も、私と同じ温泉を満喫していたはず。時代は違えど入浴を愛する心は変わらず。感動的ではないか。湯が溢れていく様子に私はなんとも云えない贅沢さを感じた。ぶくぶくぶく……
「脱力しすぎですよ。沈まないでください」
気持ち良すぎて溺死するところだった。キリの声にはいつもの機敏さがない。温泉のパワーにはかの大妖狐も勝てぬか……
ナナノも非常にリラックスしているようで黒曜石みたいな目がチョコボールくらいに可愛らしくなっている。
私たちが腑抜けた表情で浸かっていると、知らないおばさんが、通るだの通らないだの歌い始めた。同時に脇に置いてある柄杓でポンポンと湯を叩いて、タオルを載せた頭に何度も湯をかけるという謎の行動をしている。指が6本なので島民だろう。
「あのう、それは何をしているんでしょうか」
好奇心に負けて、思いきって尋ねてみた。知らないおばさんはカラカラと笑って答えた。
「温泉に浸かる前の儀式みたいなものだよ。こうするとのぼせにくくなるのさ」
「そんなメリットがあるんですか。一緒に歌っているのは?」
「湯をかけるときの音頭だね。親が歌ってたからいつの間にやら移っちまったよ」
そう云って知らないおばさんも湯船に身を沈めた。その分お湯が浴槽から溢れて水しぶきが立つ。
「歌っていたのは『通りゃんせ』ではないですか?」
話を聞いていたキリが話題に入ってくる。
「らしいねえ。あたしらは名前も知らずに歌ってたから、曲名を知ったのは大人になった後さ」
「歌自体に意味があるわけではない、と?」
「そうだねえ。慣習的に歌っているだけ。例えば『かごめかごめ』だって、歌の意味を考えて歌っているわけじゃないだろう?」
それもそうですね、とキリは相槌を打った。『はないちもんめ』や『なべなべそこぬけ』もそれと似た括りにできるだろう。ああいう童謡というのはいかにして生まれ、後世に伝わるのだろうか。
やがて何気なく、ナナノが湯船から両手を出して顔を撫でた。その瞬間、私は違和感を抱いた。ナナノの指が5本だったように見えたのだ。ナナノの手は再び湯船に沈んでいる。
「ナナノちゃん、手を見せてもらっていいかな?」
ナナノは不思議そうに首を傾げた。私は周囲から覆い隠すようにその手を見つめる。柔らかなその手には、はたして温泉でふやけた7本の指が付いていた。どうやらのぼせたらしい。水風呂で一度体を冷やそう。
そうして、私たちはのぼせる寸前まで火山の恵みを堪能していた。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細通じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
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