第5話 令和弐年の二月二十二日は『ヤジロベエ』で青春。

羽田線国際ロビーで飛行機を待つ二時間。正規留学の承認を経て、ついに旅立つ日であった。

お昼ご飯は少し贅沢に和食を食べた。お味噌汁に塩鮭のとてもいい奴だった。普段食べていた塩鮭からはかなり離れていたけれど、これぞ和食と言った塩加減にふっくらとしたお米を頬張って、お味噌汁の豆腐をあつあつと口の中で堪能しながら食事を終えた。

行き先はイタリアだった。イタリアが好きと言う訳ではないが、食事が美味しいこと、美術に造詣の深いこと。人の気風として適当さをよく耳にしたことが決定打になっていた。まあ、両親からはもっと慎重に選べとか、色々な資料を見比べてアメリカのあっちはどうだ~とかイギリスのこっちはどうだ~などと言われたが、自分で全てお金を出すのだから、文句をつけられる筋合いはない。なにより、友人たちからは『お前らしいよ』と、皆して苦笑いと共に背中を押されたのだ。休学届は一年間出してある。


荷物を預けて、手持ち無沙汰になっていた。手元には貴重品程度しかない。友人たちから見送りの連絡が時折届くが、今の時代向こうに行ってからも連絡が取れるし、何をしているかSNSで分かってしまう。距離を感じるのは、友人たちが集まって遊んでいる姿だったり、都内でのイベントで一緒に盛り上がっている時くらいだろう。それだって、同じように盛り上がるくらいはできる。存在を隣に預ける方法なんて、いくらでも考えられるようになっているのだから。

スマートフォンをしまう。するとカバンの中で何かが手にひっかかり、それは床に落ちた。恩師が渡してくれたヤジロベエだった。

「しまった。」

慌てて手を伸ばす。腕が折れてないか、顔が曲がっていないか確認した。そして、普段は奥の方にしまっていることで、恩師の顔がちらついた。


大学の恩師は、SNSをやらない人だった。

機械音痴ではないのだが、時間の使い方を非常に大事にする先生だった。

「君たちは間違いなく困窮しているし、困窮していく。時間を浪費する時代にいるからね。」

大学の選択教養科目で、最初に必ず言う台詞からもうかがえる。その物言いは断定的で、ありていに言えば格好よさがあった。内容が突飛なだけに、単位が欲しいだけの学生は敬遠しがちだったが、少なくない学生がその姿に惹かれて授業を取った。そして、そんな風に惹かれる学生を見ては「困窮しているから、私の授業なんかで夢を見るのだ。正確に近代史を考えなさい」と一刀両断して、半数にまで振り落とすのが先生の得意技だった。実際、試験は非常に難しいものだった。

「そうだな、先生がどうしているかは分からないんだよな」

かなり寂しいような気がした。


突き放す先生だったが、学ぶ気力のある学生には優しく、飲み会に誘えば30分は顔を出してくれる人だった。何より、節度を持った飲み方も教えてくれた。ヤジロベエはその時にもらったのだ。

「高山くん。君は留学をするつもりなのだってね。大変良いと思うよ。」

その声は授業の時と同様に凛々しかったが、伸びた背筋とは裏腹に、柔らかく持ったウイスキーのグラスを味わうように、甘美で優しい声音も混ざっていたと思う。

「私見ではあるが、”人生とは自身を解決すること”こそが人生の鍵だと私は思っているんだ。人は自身の歪みから、自分の住む世界と衝突し、時に怒り、時に悲しみ、時に喪失する。例えば、儒学において”中庸”が大事だと言われるが、それは自身に歪みを持たないと言う視点の一つだし、歪みがないかとチェックするための指標にもなる。その為に、これをあげよう。」

そういって、その場にあったつまようじと、先生がなぜか持っていた粘土で作ってくれたのだ。おそらく、先生も酔っていたのだろう。

けれども、酔っていたからこそしてくれた話でもあったと思う。その人の素の部分が見えてくると言うし。


そして先生はヤジロベエをくれながら、こう付け加えた。

「イタリアに行こうが、アメリカに行こうが、イギリスに行こうが、どこに行った所で変わらないさ。君が何者で、何をするかが問題なのだから。教育者として忠告をすれば、君が好きなことをすれば良いなどと言うのであればもう一度考えを促す所であろう。けれど分かっているね、君がイタリアですること、それ自体が大事なのだ。良いね。」

と。

私も酔っていたが、その日の出来事は鮮明に覚えた。脳に刻み込んだと言っても過言ではない。そして、人生の折に触れては思い出すことだろう。そんな確信があった。


留学はもちろん不安と期待が入り混じっていたが、一年経って終わってから、先生に報告できるように――その不安と期待の方が、上回っているような気分があった。

「何をするか、だ。」

私は口の中で呟き立ち上がる。一時間あるがスマートフォンの電源も落として立ち上がる。私はヤジロベエを指の腹に乗せ、バランスを取った。JALはもう間もなく、搭乗の合図を出すだろう。

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