天使の話(5)

 男は教会の扉を開けた。

 以前は礼拝の時間に訪れていたが、今は誰も居ないこの夜の時間が彼にとっての礼拝の時間だった。

 一歩中に踏み込むと、ほこりっぽい絨毯じゅうたんに足音が吸い込まれる。照明の消えた室内は、海底のような深い青に満たされていた。

 暗闇に慣らした目で木製のベンチにぶつからないように進み――そこで男は最前列のベンチに誰かが座っていることに気がついた。相手も彼に気付いたらしく、もそりと体の向きを変えて彼の名前を呼んだ。

「こんばんは、ダン」

「……やぁ、リサ。こんばんは」

 それはついこの前まで毎日交わしていた挨拶。彼は学校の警備員で、彼女はその学校の生徒だった。

「こんな遅い時間にこんな所でどうしたんだい?」

「考え事をしていたの。ダンはどうしたの? お祈りに来たの?」

「ああ……そうだよ。少し、考えたいことがあってね……」

 暗がりをすり足気味に歩いて少女の座るベンチの、通路を挟んで向かいに腰を下ろして男は力なく微笑んだ。

「祈ったり、考えたり……ここは静かで良い場所だからね」

「何を考えるの?」

「……。私の死んだ息子、ジョナサンのことを」

「……」

「私のことを軽蔑したかい?」

「ううん。違うの。ちょっとビックリしただけ。ねえダン、私の弟の名前もジョナサンっていうの。私もここでジョナサンのことを考えてた」

「ああ、知っているよ。君の弟は……私の息子が殺してしまった。本当に、本当に申し訳ない。何度謝っても許されるものでは無いが……」

「ダンの息子も警官隊に撃たれて死んじゃったんだよね。ニュースで見た」

「ああ、そうだね。そう、そうなんだ……」

 考えるのだ。何度も、何度も、あの日から何度も考える。

 どうして息子は殺したのか。どうして息子は殺されたのか。自分は息子に何をすべきだったのか。自分は息子に何をしたのか。何をできなかったのか。

「私のお母さんも同じ」

 ふと聞こえた声に顔を上げれば、幼い少女の丸い目が男を見ていた。

「ジョナサンが死んじゃった。ダンも、お母さんも同じなの。あの事件でジョナサンが死んだ。それが苦しいんだ」

「私は……」

「苦しいから、どうして苦しいのか考えて……お母さんはダンを悪者だって思うことで自分は悪くないって思おうとしてる。ダンを裁判で訴えるって」

「ああ」

「でも私、ダンとお母さんに裁判して欲しくない。同じ苦しみを知ってるなら、一緒に話すこともできると思うんだ。ジョナサンが居なくて寂しい、悲しいって」

「リサ……君はすごいね。私たちよりずっとたくさんのことを知ってるみたいだ」

「石の人に教えてもらった。彼は魔法が使えたの」

「そいつは素敵だ」

「もう一つ教えて貰ったことがあるんだよ」

「聞いても良いかい?」

「悪い子でも、苦しいと思って良いんだって」

 少女の幼さの残る言葉に、男は胸を突かれた。

「私の苦しみは、私の息子の苦しみは赦されると思うかい……?」

 囁くように訊ねた男に、少女は彼女のできる精一杯の厳粛さで頷いた。

「苦しんで良いよ。一緒に苦しんでいこ。私も、ダンも、お母さんも、みんな」

「ありがとう。……ありがとう、リサ」

 少女の小さな手を両手で包むように握り、男は二度感謝の言葉を繰り返した後、「さあ、そろそろ行こうか」と声の調子を変えた。

「もう夜も遅い。君のご両親も君のことを心配しているだろう。近くまで送ってゆくから家に帰りなさい」

「私、黙って出てきちゃったんだ……お母さん、怒ってるかな」

「心配していると思うよ」

「そうかな……」

「帰ったら聞いてごらん。『私を愛してる?』ってね」

「ダンはダンのジョナサンのことを愛してた?」

「ああ、愛しているよ」

 男の言葉に少女は「そっか」とつぶやき、ぽんと勢いを付けてベンチから降りた。


「行こうか」

「うん」


 教会の扉が開いて、閉じる。

 ステンドグラスの三博士が、誰も居なくなったベンチを静かに見下ろしていた。

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