崖の話
崖の話(1)
何がいけなかったのかは分からない。強いてあげるならば運が悪かったのだろう。
ここ
放り出された衝撃で発動したエアバックに体を挟まれながらシートベルトを外し、なんとかどこかに転がったスマートフォンを取って助けを呼ぼうとしていたその時、彼は頭上のそれに気付いたのだった。
それは、青色をしていた。
年齢は二十代後半から三十代前半ぐらいだろうか。
紺青の服装は牧師のそれで、片手に旅行用の杖を携えていることからすると巡回説教者なのかもしれなかった。髪は太陽の光を背後から受けて露を置いたように青く光って見える。崩落した道路の端に立ってこちらを見下ろす目は穏やかで、黒く見えるほどに深い青をしているようだった。
「おい! そこの君! 助けてくれ!」
窓をどんどんと拳で叩き、何とか注意を惹こうと男は怒鳴った。
ぱちり、と男の青い目がまたたいた。
「聞こえているんだろう!」
「はい、聞こえています」
返ってきた声はまろく穏やかだった。
場に似つかぬ落ち着いた声に男は微かな違和感を感じたが、それよりも安堵が勝って、強ばっていた顔の筋肉を緩めた。
「人が居てくれて良かった。なあ君、助けてくれ。俺を引っ張り上げてくれ」
「それは無理です」
「何ぃ?!」
あっさりと。まるで「今日のメニューはBランチにしよう」と選ぶかのように気軽に下された判断に男は目を剥く。
二の句が継げない彼を気に掛ける様子も無く、頭上の青は穏やかな声音のまま続ける。
「君を助けることはできません。それは変えられません。僕は君のこの別離を祝福するために来ました」
「何を言ってるんだ! い、いや……そうだな、素人の君に俺を助けるのは無理があった。すまない。だが、分かるだろう? 焦ってるんだ。このままじゃ、いつ下の川に落ちるか分からない。俺は死にたくないんだ」
助手席側の窓から見える景色を横目で見て、男はゾッと身震いする。
度重なる雨で水量を増した川は濁流と呼ぶに相応しく、茶色く濁って荒れ狂っている。あそこに車諸共落ちたらまず助からないだろう。
「君に救助の心得が無いのは分かった。ならばせめて消防に連絡して、助けを呼んでくれないか! 俺のスマホはどこかへ転がってしまったようなんだ!」
あまり強く叩きすぎては、車体が傾くかもしれない。外でぎしぎしと鳴っているのは、この車を支えている木が軋む音だろう。負担を描けないように、じりじりと体の位置を調整する。少しでも助かる可能性を上げなければ――
しかし、そんな彼の努力を嘲笑うように、頭上の青はゆっくりと首を横に振った。
「僕に君を助ける力はありません。僕にできるのは、君の別離を看取ることです」
「何を言っているんだ? 意味が分からない。お前はいったい何なんだ」
「僕はアウイン。石です」
「石ぃ?」
コイツ、狂ってるのか。
どこから見ても石にはみえない青年の言葉に、車中の男は絶望を覚えた。
生命の危機に現われたのが石を名乗る頭のオカシイ野郎だなんて、とんだ滑稽話があったものだ。
だが、すがれるものはこの相手しかないのだ。
「石でも何でも良い! 助けを呼んでくれ!」
「それが君のしたいことですか」
「そうだ!」
「助けを呼んだとして、君は助かりませんよ。それでも呼ぶのですか?」
「ああ、呼べ。今すぐ呼んでくれ」
「分かりました」
青い青年は言って、懐からスマートフォンらしき物を取り出し、何やらしばらく話すと「こちらへ向かうそうです」と静かな声で告げた。
「そうか、良かった……助かったよ」
「いいえ、助かりませんよ」
ほぅと一息吐いた途端に神経を逆撫でするような言葉を向けられ、男はさすがに苛立ちを堪えきれずに怒鳴る。
「さっきから何なんだ! 石だとか、助からないとか、俺に嫌がらせがしたいのか! いい加減、その言い方を止めろ」
「言い方とは」
「俺が死ぬことを前提としているような言い方だ」
「前提ではありません。君は助からないと言うことを僕は知っているだけです」
「宗教勧誘か? 実に不愉快だ。こちらがお前を殴れない位置にいるからって良い気になるなよ」
「……僕は別離を根源とするアウイナイトの化身、アウインと言います」
「そうかい」
なかばヤケっぱっちになりながら相づちを打った男をよそに、アウインは「僕の持つ魔力は二種類あります」と自己紹介らしきものを続ける。
「一つは、わかれを促す力。編まれたセーターを
「へえへえ、そりゃスゴイね」
「もう一つは、わかれの場面を見るヴィジョンです」
投げやりな男の態度を気に掛ける風も無く、アウインはかすかに愁いを帯びた青い目を伏せて言葉を続ける。
「それは旅立ちであったり、離縁であったり、死であったり、わかれの場面であること以外に統一性はありません。ですが、一つだけ決まり事があります」
一度見た結末は如何なる手段をもってしても
「君は死にます。助かりません」
「いい加減にしろっ! 人が苦しんで困っているのを見るのがそんなに楽しいか!」
「僕にできるのは、君がしぬまでの残った時間でやり残したことや伝えたいことを聞くこと。この不本意な別れをなるべく君にとって満足なものにするよう、心残りを少なくするように問いかけることだけです」
「黙れ
「何か残しておきたいことは無いのですか」
「その口を閉じろ! 悪魔め!」
バンとハンドルを叩いた手が誤ってクラクションを叩き、けたたましい音が響く。
途端。
ずるん、と。
斜面に生えていた、彼の車を支えていた樹木の根が抜けて、
「あ」
と、その一言を残して彼の車は荒れ狂う濁流の中に吸い込まれるように落ちて、とぷんと音一つを残して消えていった。あとはどうどうと流れる川と、赤茶けたひっかき傷のようなを断面を見せる斜面があるばかり。
それらを見下ろし、アウインは少しだけ何かの色を青い目に乗せると、くるりと
遠く、救助用のヘリコプターの立てる騒音が近づきつつあった。
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