紫陽花の話(後編)

「あれは切らないのですか」

 穏やかな声で訊ねられ、男は花ばさみを扱う手を止めて顔を上げた。

 そうして、牧師姿の青い男の指す先に揺れる紫陽花を見て、うっすらと口元を綻ばせる。

「切らない。あれは特別な紫陽花だからね……」

「特別、ですか」

 色彩様々な庭にあって浮き立つように真っ白な紫陽花を指したまま、アウインは首を傾げる。

「あれの花芽は四月以降に作られるからね、今の時期に剪定する必要は無いんだよ」

「そうですか」

 あれはね。

 バツリと赤い紫陽花の茎を切り落として、彼は何かを懐かしむように目を細める。

「アナベルという名前なんだよ」

「アナベル」

「僕の妻の名前と同じさ。彼女もあの紫陽花がいっとう好きでね、こうして窓から見える位置に植えたんだ」


 That a maiden there lived whom you may know

 By the name of ANNABEL LEE;

 And this maiden she lived with no other thought

 Than to love and be loved by me.


「あの子は本当に可愛い、大切な、僕の奥さんなんだ。僕らは愛しあっている。昔も、今も、変わらず、ずっと」


 And neither the angels in Heaven above

 Nor the demons down under the sea,

 Can ever dissever my soul from the soul

 Of the beautiful Annabel Lee


 詩の一節を口ずさんだ彼を、アウインは見る。

 男の白髪の多い頭を、落ちくぼんで隈のできた目を、青ざめた肌を。

 天使とは、悪魔とは、彼と彼のアナベルにとって一体誰だったのだろうか。


「……アウイン」

「何ですか」

「君は僕の別離の意思に惹かれてここへ来た、そう言ったね」

「そうです」

「それは、僕に、この「今」を良しとしない気持ちがあるから……と、言うことなのかな」

「そうです」

 一瞬の躊躇もなく、一寸の逡巡もなく、アウインは肯定した。

 それに男は深い溜息を吐き出し、軍手をはめた手で顔を覆った。

「……君は本当に冷淡だ。酷いことを言う。どうして僕にこんな仕打ちをするんだい」

「僕は何もしません。ただ、君に決別の意思があるなら、それを祝するだけです」

「本当に酷いな……君は」

 顔を覆ったまま笑った男の声はくぐもって、まるで泣くのを堪えているかのようだった。

「ああ、そうだ、その通りだ。認めようじゃないか。僕はこの生活に疲れ始めている。幸せなのに。愛しているのに。僕が望んだことだったのに。可愛い僕のアナベルと二人きり、紫陽花に囲まれたこの館で暮らしてゆくこと、ただそれだけが僕の望みだというのに。永久の愛を誓ったその言葉に、今も嘘偽りは無いのに」

 それなのに。


 例えば僕とアナベルで火の消えた暖炉を眺めている時。

 紫陽花の葉に落ちる雨音に耳を傾けている時。

 アナベルの冷えた手を握っている時。


「ふっと、魔が差すんだ。本当にこのままで良いのか? と」

 匂いのしない紫陽花に囲まれて、ゆっくりと錆びてゆく館の中で二人きり。

「外に出たいと思い始めてしまった。他の誰かと話をしたり、冗談を言って笑ったり、腕を組んだり、ダンスをしたり、抱きしめられたりしたい……そう、僕は望み始めてしまった」


 けれど、そんなことが許されて良いのだろうか。

 あの子はここから出られないのに。

 彼女には僕しかいないのに。

 もう、どれ一つ、できない、のに。


「アナベル! ああ、アナベル! 僕の愛する、僕が愛する、僕の生命、僕の花嫁!」


 僕たちだけが年を取ってゆく。

 僕たちだけが変わってゆく。

 僕たちだけが忘れてゆく。

 愛する君はあの日、あの時に取り残されて、独りぼっちのままで。


「愛すると誓ったんだ。幸せにしようと約束したんだ。一緒に居ようと指切りしたんだ。だが、僕は変わってしまった……変わらずにいようと思っていたのに。これは、妻に対する裏切りだ――こんなことは許せない。許されない。許されるはずがない」

 ずるりと両手を下げて、男は虚ろな、恨むような、羨むような、怒っているような、自嘲のこもった目でアウインを睨む。

「君には分からないだろう」

「そうですね、分かりません」

 絞り出すような男の言葉。

 それを、ほんのわずかな躊躇もなく、表情一つ変えることなく、声音ひとつ震えることなく、アウインは首肯した。

 穏やかな、慈愛深さすら感じさせる鉄面皮を男は憎しみを込めて睨む。

「君は美しいが冷淡だ。残酷だ。非情だ。悪魔のような奴だ」

「僕はただの石ですよ」

「……。そうだな、その通りだ。八つ当たりだね、すまない」


 なあ、君。


 力なく落ちた手の下から現れたのは急激に老けたような、疲労の滲んだ、表情の抜け落ちた顔だった。

 泥のついた手が、アウインのまとう紺碧の長衣を縋るように掴む。


「どうか言ってくれないか。『お前は間違っている』と」


 穢れなき白の紫陽花、掛け替えない妻の名前を冠した紫陽花、アナベル。

 まるで幸福な花嫁のヴェールのようなそれを背景に微笑む、美しい青色の男――アウイナイトの化身にして別離を祝福するモノを前に、男の手はあまり弱弱しく、震えていた。

 さながら母親に縋りつく幼子のように。

 神に罰を求める罪人のごとく。

 水に溺れたもののように、喘ぐように懇願した男を見つめ、アウインは笑んだ。



「君は間違っています」



 頬を殴られたかのような顔をして、手を離し、よろめき、後ずさった男の踵がじゃりと泥を踏む。

 靴底で踏みにじられた紫陽花の葉が、ぶつりとちぎれた。

「……僕、は」

 脂汗のびっしりと滲む顔は紙のように白く、見開かれた瞳孔は痙攣している。

 卒倒していないのが不思議な程だった。

 そんな男の有様を変わらぬ微笑で眺めたまま、アウインは口を開く。


「死んだものが何かを許すことはできません。咎めることも同様です」


 はふっ。

 男の薄い唇から息がこぼれた。


「二点目。死んだ者を裏切ること、これもできません。死者は生者の干渉から既に分かたれていますから」

「三点目。僕は別離を促すために存在します。が、別離とは必ずしも現状を変えることではありません。現状を継続、維持する、その決断もまた拘泥からの脱却であり、決別であり、旅立ちです。よって僕の出現と君の現状の否定は等号で結ばれるものではありません」

「僕に把握できた君の間違いは以上です」

 淡々と、変わらぬ笑みを浮かべたまま告げ、アウインはところでと首を傾げる。

「君は一体何に拘泥しているのですか。僕には分かりません」

 いっそ無垢な青い瞳に見つめられ、呆然としていた男はまばらに髭の生えた口元を震わせる。

「……ハッ。ハハハハッ」

 緩んだ手から花バサミと袋が滑り落ち、詰め込まれていた紫陽花の花房がぼろぼろと地面に散らばった。

 それを目で追って首を傾げたアウインを後目に、男は泥の上に膝を着き、両手で顔を覆い、嗚咽を漏らし、産声のように声を上げ、ボロボロと、ただひたすら子供のように泣きじゃくった。

 アナベルの花だけがまるで本物のように優し気に、許すように揺れていた。

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