紫陽花の話

紫陽花の話(前編)

「紫陽花の花言葉を知っているかな」


 その屋敷は紫陽花屋敷と呼ばれていた。

 1エーカーもある広大な庭には世界各国、遠くは極東の島国から取り寄せた種々様々な紫陽花が植えられ、葉脈のくっきりとした淡緑色の葉の上に赤、青、紫、白などの花房を丸く咲かせていた。


 色鮮やかな――しかし、香りのない花々の隙間を縫うようにして伸びるのは煉瓦を敷き詰めた舗道。昨夜の雨をたっぷりと吸い込み、湿った土と苔の臭いがするテラコッタの上にしゃがみ込み、男は無骨な剪定ばさみで紫陽花の太い茎を切断する。

 ぼとりと重たげに舗道の上に落ちた紫陽花の花房は、沁み通るような青色をしていた。


「青色の紫陽花はね、「あなたは美しいが冷淡だ」と言うんだよ」


 君によく似合いの言葉だ。

 つば広の帽子の陰になった額の汗を拭って、男は落ちた花を軍手をつけた手で拾い上げ、一歩下がって後ろに控えていた相手――アウインに差し出した。

 それを受け取って、アウインは「ありがとうございます」と笑む。

 その表情をしばし見上げ、男はふっと笑った。


「怒らないんだね、君は」

「怒る理由がありませんからね」


 穏やかに微笑んだままのアウインに、男は「実に君らしい回答だね」と苦笑する。


「君は決別を寿ぐと言いながら、その実、僕らの抱える別れに無関心だ。無理解で、無感動だ」


 バチン、バチンと固い音を立ててハサミが鳴るたびに、男の足元には刈り取られた紫陽花の花が落ち、黒く湿った土はみるみる青色に塗りつぶされていく。


「僕がアナベルとここで暮らし始めてから、色んな人が色んなことを僕に言った。『お前がやっていることは可笑しい』とか、『世界に女は彼女だけじゃない』とか、『世の中にはもっと楽しいことがある』とか、『もっと現実を見ろ』だとか『神の道に背いている』とか……逆に『あなたの純愛に感激しました』なんて手紙も貰ったっけ」


 心配も、同情も、叱責も、称賛も。

 そのどれもが的外れで、そのどれもが煩わしかった。


 ただ自分は愛する妻アナベルと、彼女が愛する紫陽花に囲まれたこの屋敷で、二人一緒に暮らしているだけだ。ただそれだけだと言うのに、外は自分たちをそっとしておいてはくれず、善意で、悪意で、好奇心で、同情で、訳知り顔の物知り顔で好き勝手なことを言い散らす。


「だからね、君を最初に見た時、てっきりまたどこかのお節介な牧師が、僕とアナベルのことで説教しに来たのかと思ったんだよ。でも、君は違った」

 

『君も僕たちを咎めるのかい? それとも、哀れな男だと同情でもしてくれるのかな?』

『いいえ、それは無理です』

『無理? こんな狂気の沙汰など、理解できないっていうのかい?』

『いいえ。ただ、僕は君たちの言う感情や善悪というものが分からないだけです』

『……分からない?』

『理解できない……いえ、共感できないというべきですか。何故悲しむのか、何故苦しむのか、僕には君たちが分からない。僕に分かることはただ一つ。君が何らかの決別の意思を持っていること。そして、僕はそれを肯定し、促す役目を負っていること。それだけです』


 ですから、君が何を悩み迷い躊躇しているのかも、僕には全く分かりません。

 分からないものは、咎めも、同情も出来ないでしょう。


「あれを聞いてね、僕は少し救われた気分になったよ」


 男は隈の刻まれた目をハサミを握った手に落とす。


「僕の痛みは、僕の思いは、僕だけのものだ。誰に理解できるはずもない。理解されたくもない」


 バチン。

 紫陽花の花が落ち、くるくると回ってアウインの爪先に当たって止まった。


 それを何とはなしに拾い上げ、アウインはそっと顔を近づけてみる。

 今しがた切られたばかりの植物の青臭い香り。他の花のような香しい芳香は無い。

 固い四葩は花弁のように見えるが、花弁を支える台が発達した装飾花だ。本来の花は退化して、雌蕊と雄蕊だけが残っている。


(これでもまだ、人はこれを花と呼ぶのでしょうか)


「アウイン」


 ゆっくりと、膝をかばいながら立ち上がり、彼は振り返ってアウインを見る。


「僕はね、こう思うんだ。君のその性格は、僕らの心を解しない性質は、神の慈悲ではないか、ってね」

「慈悲、ですか」

「君は別離の石、そうだったね」

「ええ、そうです」

「君はこれまで、いくつもの別離に、失い別れる場面に立ち会ってきた」

「ええ、そうです」

「これからも、立ち会い続ける」

「ええ、そうです」

「それは、どれほど辛いことだろうね」

「辛い、ですか」

「アウイン、君は知らないのだろうけれど、別離というのは悲しいものなんだ。今まで持っていたものを失うというのは苦しくて、寂しくて、辛くて、孤独なものなんだ。息ができない、声が出せない。この心臓が動いているのか、今までどうやって生きて来たのかも分からなくなる。身が引き裂かれるように痛いものなんだ」

「……。僕には、それが理解できません」

「理解できなくていいんだよ。理解してはいけない」


 切り落とされた紫陽花を拾い集め、袋に入れて男は笑う。

 暗い、暗い、笑い方だった。


「理解すれば、共感すれば、君はきっと今までのように別離を祝福できなくなる。後押しできなくなる。別離に立ち会う度に苦しみ、傷つき、すり減り、やがて壊れてしまうだろう」


 別離の痛みに磨り潰されてしまうだろう。

 だから。


「君のその性質、鈍感とも思える不感症は、不干渉は、僕らの別離を看取り続ける君への神からの慈悲じゃないだろうか……僕には、そう、感じたんだよ」

「……」

「中年の戯言だよ。忘れてくれて良い」


 やつれた血色の悪い顔で笑み、男は左足を軽く引きずりながら舗道を歩きだす。

 アウインは三歩の距離を置いてその後ろに続く。


 紫陽花のみで構成された庭は、花盛りだというのに冷たい泥の臭いしかない。

 鋸状の丸い葉は道の際まで生い茂り、偽物の花弁がまるで花のような顔をして赤に、紅に、桃色に、水色に、青に、碧に、菫色に、紫に、白に、鮮やかに、褪せて、咲いている。咲いている。

 ただ一人。男の愛する人の為だけに、咲いている。


 なんて賑やかで、なんて孤独だろう。


 アウインは目を伏せる。


 喉を塞ぐような感触。

 アウインはやはりそれを理解することができなかった。

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