蜂蜜の話(後編)

 シャーロットが世紀の歌姫ともてはやされるようになったのは、あるオーディション番組に出演したことが切っ掛けだった。

 当時まだ9歳。しかし、彼女は自分の歌唱力には自信があったので、自らオーディションに参加を表明した。そして、彼女は賭に勝った。

 審査員たちと観客席の人々が見守る中、流行の歌を大人顔負けの歌唱力で堂々と歌いあげる少女に、皆が魅了された。そして無名の少女は一夜にして有名になった。

 そこからスカウトを経てプロの歌手としてデビュー。有名な作曲家から提供された楽曲は第1週目からオリコンチャートで1位を叩き出し、その順位は実に8週にわたって続いた。その彼女のデビュー物語を追ったドキュメント番組も高い視聴率を記録し、下町生まれの歌姫シャーロットの滑り出しは順調だった。

 しかし、シャーロットが期待の新星から押しも押されぬ一流歌手になるまでには、それなりの艱難辛苦があった。

 口を開いて喋れば下町なまりコックニーを馬鹿にされ、オペラ歌手などと同席した際は(所詮はティーンエイジャー向けのポップスしか歌えない小娘)と軽蔑の目差しと失笑をもって迎えられた。同業者だけでなく、スタッフによる陰湿なイジメをうけたこともある。

 だが、そんな周囲の冷笑をいつまでも黙って受け取る程シャーロットは大人しい性格をしていなかった。

 専門の教師をつけて、死にものぐるいで女王陛下の英語クィーンズイングリッシュを身につけた。

 オペラからミュージカル、アカペラからロックまで。ジャンルに囚われずに音楽と名がつくものは貪欲に取り込んで歌った。使えない歌手の悪あがきなんて言わせないくらい、どの分野でも全力を尽くして、完璧に歌ってやった。

 そうする内にシャーロットを軽んじるものは徐々に気まずい顔で口をつぐみ、振り返ってみればファンも増えていた。そんな彼女を指して、世間はこう呼んだ。

 世紀の歌姫、シャーロット。

 シャーロット21歳の時の話だった。


「お待たせしました、ダージリンですよ」

「待ってました」

 ぐりんと勢いを付けてベッドの上で起き上がり、シャーロットはマグカップを持って戻ってきたアウインに向かって「早くちょうだい」と両手を伸ばす。

 子供のような仕草を笑うことなく、アウイナイトの化身アウインはそっと彼女の手にカップを渡す。ふわりと優しい蜂蜜の匂いが彼女の鼻先をくすぐった。

「うーん、良い匂い。蜂蜜ちゃんとたくさん入れてくれたんだ」

「君のこだわりでしたね」

「そ。アタシはプロだから、こう見えて喉のケアは気を付けてるのよ」

「知ってますよ。君がとても歌を大事にしていることを見てきましたから」

 茶化したつもりが真面目に返され、シャーロットは思わず耳まで紅くなる。

「あー、もぅ……ずるいよなぁ……」

「何かずるいですか」

「分かんないなら気にしないで、放っといて」

 突っぱねるように語気を強めたシャーロットに、アウインは深追いすること無く「そうですか」と頷いてまた元の位置に戻った。

(何でもかんでもウンウンって聞いちゃうんだから……)

 そのことに腹立たしさとありがたさという相反する感情を覚えながら、シャーロットはマグの縁に口を付ける。

 相手は石の化身、妖精や精霊のようなものらしい。

 だから、こんな感情は抱く方が間違っているのだ。きっと、たぶん。

 そう思っているのに、

「何か、思う所がありそうですね」

「そう?」

「眉間に少し力が入っています」

(こうやって、ちょっとしたことでも気付いちゃうんだもんなぁ)

 柔らかな声と穏やかな微笑みには、シャーロットを身構えさせるようなものは何も無くて、普段人間相手ならば言わないような言葉もするりと出てしまう。

「ペットセラピーみたいなものか」

「僕がペットですか」

「そーよ」

 ふふんと笑って、シャーロットはマグを持ったまま、足先に引っかかっていたストッキングをぽいとアウインめがけて投げつけた。残念ながら、軽いそれはさほどの勢いも無く、相手に届く前に落ちた。

 それを拾うでもなくたたずんでいるアウインに、あのねとシャーロットはつぶやいた。

「アタシ、のどに悪性の腫瘍があるんだって」

 このままでは日常生活での発話も出来なくなります。死亡のリスクもあります。

 そんな医師の言葉が耳を滑り落ちてゆくようだった。

 日常の会話なんかよりも、もっと大事なことが彼女にはあった。

「治療のためには声帯切らないといけないんだって」

 それって、歌えなくなるってこと?

 震えを堪えきれずに漏れ出た問いに、医師は「安心して下さい。切除した場合の快復率は――」とかどうでも良い話をしていた。

「アタシ、歌えなくなるくらいなら死んだって良いんだ」

 歌えないアタシはアタシじゃ無い。歌えないなんて、生きてる意味が無い。

 シャーロットは言う。

 歌って歌って、歌うことで生きてきた、のし上がってきた。歌は彼女の全てだ。

 泳ぐのを止めれば死んでしまう魚のように、歌うことを止めれば、シャーロットという人間は死んでしまうのだ。

「でもね、切除しなくても今のままじゃ居られないんだって」

 声が出にくかったり、掠れたりしませんか? 医師の問いかけに思い当たる節はあった。

 放っておけば腫瘍は大きくなり、声のトラブルも増してゆくでしょう。切除か、投薬か、いずれにしろ何も対処しなければ命に関わります。なるべく早く決めることをおすすめします。医師の判断は冷酷だった。

「アタシ、怖い」

 ぎゅ、とマグを握る手に力を込め、シャーロットは言う。

 歌えなくなる。それを想像すると彼女は全身の血が冷たい水銀になってしまったような心地になる。歌っている最中に突然声を失う悪夢に飛び起きる夜もある。

「上演中に声を失ったカルロッタもこんな気持ちだったのかな」

「オペラ座の怪人ですか」

「うん、そう」

 アタシの上にもシャンデリアが降ってくれば良いのに。

 アウインに光を投げかけるランプを睨んで、シャーロットはつぶやく。


 黙っていても、今この瞬間にもアタシの声は、アタシの歌は、失われてゆく。

 昨日の自分が今日の自分の背中を指さしてあざわらう。

 アンタは、もうアタシみたいには歌えない!


「切るか、薬か、放置か。どれを選んだって今までみたいに歌えないなんて」

 言ったきり黙り込んだシャーロットに、アウインが小さく首を傾げる。

 深い深い、アウイナイトのような青い目が瞬いた。

「君はどうして欲しいのですか」

「どうして欲しいって……今まで通り歌いたいに決まってるでしょ! でも、それができないから悩んでるんじゃ無い! なんで分かってくれないの!」

「僕は石ですから、君の気持ちは分かりません」

「そうね、そうだったわね!」

 尖るシャーロットの言葉に臆した様子も見せず、アウインは「それで」と続ける。

「君は、シャーロットという歌手にどうして欲しいのですか」

「……は?」

「君はシャーロット言う名前の歌手であると同時に、彼女の一番のファンでしょう」

 淡々と。石を名乗る男は彼女に言う。

「彼女のファンである君は、彼女にどうして欲しいのですか。声の質を落してでも治療して歌い続けて欲しいのか、手術を受けて声を失っても生きて欲しいのか、治療せずに短い生を歌って欲しいのか。どんな形が彼女に似合うと思うのですか」

「アタシは……」

 マグの中の水面に映る顔を見つめ、シャーロットは問われた言葉を考える。

(歌手シャーロットにどうあって欲しいか……それは……)

 考え込んで、どれほど時間が経ったのだろう。

 やがて一つの答えに辿り着き、彼女は残った紅茶をぐいと飲み干した。

 既に淹れられてから時間が経った紅茶は冷めて、ほのかに蜂蜜の匂いがした。

「アタシ、決めた」

 マグを置き、決然と顔をあげてシャーロットは笑う。それはとても魅力的な笑みだった。

「今が最高の状態なら、その最高な歌を記憶に残してアタシは引退する。術後のトレーニングを受ければもう一度声が出るかも知れないけど、作詞とかで関わっていくことが出来るかも知れないけど、それはもうアタシじゃないもの」

「そうですか」

「ねえ、アウイン。アタシの決断、祝福してくれる?」

 そしたらアタシ、進める気がするの。

 そう言った歌姫に、アウイナイトの化身はふわりと優しく微笑んだ。


「ええ、もちろん。僕は決別の石、アウイン。君の別離を言祝ぎましょう」


 

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