経緯の話(7)
「お前のせいだ、俺を裏切ったお前が悪いんだ」
どす黒く腫れて、血で汚れた妻の死に顔を見下ろし、リヒャルトは呟いた。
間違いなく、今日はリヒャルトにとって、人生最悪の一日だった。
その日、リヒャルトは機嫌が悪かった。
愛人のマルタから子供が出来たと告げられ、その対応に頭を悩ませていたからだ。
そのせいで仕事もろくに手につかず、つまらないミスで上役から叱責され、彼は苛々とした気分を抱えたままバーのカウンター隅に陣取って、仕事終わりの一服を吹かしていた。
そこへ、折り合いの悪い同僚がエールで髭を濡らした赤ら顔で話しかけてきた。
面倒な相手に絡まれたものだと、嫌々あしらっていたところ、酔っ払いは次第に機嫌を悪くしていったが、唐突に何かを思いついたかのようにヤニで黄色く染まった歯を剥き出して笑った。
そして、いかにも馴れ馴れしくリヒャルトの肩を叩いて言ったのだ。
「お前のカミさん、牛乳屋のせがれとデキてるんだってな。皆知ってるぜ」
それは殴られたかのような衝撃だった。
そこから先の記憶は曖昧だ。
嘲笑に追い出されるようにしてバーを後にし、寒風の中よろめくような足取りで家へと帰り、そして、寝室の化粧台に腰かけている妻を見つけた。手にした小袋を大事そうに撫でて眺めている妻の横顔は美しく、まるで知らない女のようだった。
それを見た瞬間、リヒャルトの中で何かが弾けた。
何か叫んだかもしれない。売女とか、淫乱めとか、そんなことだったような気がする。
そうして気づけばリヒャルトはステッキを強く握りしめて肩で息をしており、床には死んだ妻の体が転がっていた――。
糸が切れた操り人形のように呆然と、自らが作り上げた光景を眺めていたリヒャルトの目に、ふと、握りしめられたままの妻の手が留まる。
一体アレは何だったのか。
血が飛び散ったカーペットに膝を着き、這いずって、リヒャルトは小袋を彼女の指の隙間から引っ張り出す。
恐る恐る開いてみた中身は、ただの白けた石だった。
『現状に何か不満をおもちですか? それから決別したいと君が望むならば、僕はその決別を祝福しましょう』
(なんだ、ただの石か……どうせ牛乳屋の小僧から貰ったか何かだろう……)
それよりも、この状況を何とかしなければ。
リヒャルトは石をポケットに突っ込み、パンと両手で頬を張る。
(しっかりしろ、リヒャルト。ここが正念場だぞ。こんな阿婆擦れのせいで、俺の人生を台無しにされてたまるか……!)
クローゼットからトランクを引っ張り出し、そこへ着替えやら、金になりそうなものを目についた端から投げ込んでゆく。
これをもって遠くの街に逃げよう。そして、そこで一から新たな生活を始めるのだ。
「俺は、俺は逃げ延びてやるぞ。こんなことで、こんな女のせいで捕まるなんてご免だ。俺は悪く無い。何も悪く無いんだ。クソッ、あいつらが余計なことをしなければ……こいつが浮気なんかするから……」
膨らんだトランクを閉め、ステッキを拾い上げ、床に転がった死体を靴の先でどけ、リヒャルトは冬空の下へ出る。
肺の中まで凍り付くような冷気が支配する街は雪に反射した月光でほの明るく、彼の外に人影はない。皆、鎧戸を閉じ、カーテンを閉め、暖炉の脇に縮こまっているか、シーツに包まって眠っているのだろう。
一刻も早くこの町を離れようと、毎日通勤で歩きなれた道路を速足で渡り、郵便局の角を曲がり、教会通りに出たところで、リヒャルトはふと、ポケットに入れっぱなしだった石の存在を思い出す。
(アレは金になりそうもなかったな。わざわざ持っていくことも無いか)
ごそごそとポケットを探り、石を引っ張り出してリヒャルトは冷めた目でそれを見る。
「あばよ」
教会の裏庭の雑木林に石を放り捨て、リヒャルトが立ち止まることはもう無かった。
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