経緯の話(6)
ヘレンは如雨露を片手に庭の鉢植えに水をやっていた。
冬を迎えて縮こまり、茶色く変色した葉の上に水滴がパラパラと落ちてゆく。
それを定まらない視点で眺めながら、ヘレンは昨夜の夫の言葉を思い出していた。
『つまらない女だな、お前は』
きっかけは何だったのかもう思い出せない。
ただ、テーブルの向こう、手つかずのまま冷め切った夕食に目もくれず、コートを脱ぎながら至極面倒くさそうに、うんざりした様子で、どうでも良さそうに言い放った夫の横顔だけが、ヘレンの瞼に焼き付いていた。
(何時からだろう。あの人と顔を合わせて話すことが無くなったのは)
ヘレンは物思う。
最初は確かに愛し合っていたはずだ。愛し合って、求め合って結婚したはずだった。
けれども、いつからか夫は変わってしまった。
言葉を交わす回数が減り、その視線からは熱が消え、会話は事務的になり、気づけばあの優しかった夫は変わってしまっていた。
けれどもヘレンは良き妻として夫を支え続けようとした。
女たるもの、常に良き妻であれと教えられて育ち、神の御前で永遠の貞淑を誓った彼女にとって、それは当然の選択であった。
他所の女の元へ通いだしたことを井戸端会議で近所の婦人に教えられた時も、その気持ちは変わらなかった。
正しく、貞淑に、あるべきように生きていけば良い。
必ず神様は私たちの行いをご覧になってらっしゃる。お導き下さる。
正しく生きていれば、夫もいつしか目を覚まし、最後には私の元へ帰ってくる。
そう信じて彼女は毎日夫に尽くし、家の事を適う限り完璧にやりとげ、礼拝には欠かさず参加し、妻として人としてあるべくようにあり続けた。
それが正しいことだと、なすべきことだと、彼女は信じて疑わなかった。
昨日までは。
(つまらない女……)
夫のあの言葉を聞いた瞬間、彼女の中に残っていた最後の愛情、最後の誇り。そういった奇麗なものが、音を立ててパキリと崩れるのを聞いた。
残ったのは「つまらない女」というレッテルだけ。
(私の十八年間は、なんだったのだろう……)
自分の信じて来たものは一体なんだったのだろう。もう、分からない。
覗いた鏡には髪をひっつめにして、暗く疲れ切った顔をした地味な女が映っているだけだった。
(そう言えば、最後に笑ったのは何時だったかしら)
心は擦り切れて、信仰は擦り潰れ、もう涙を流すだけの気力も彼女の中には残っていなかった。
(私、つまらない女と言われたまま、ずっこのまま生きて、老いて、死んでゆくのかしら)
「あ……!」
鉢植えの縁を超えた水が爪先にかかり、その冷たさに彼女ははっとして足元を見る。
そこには、石が一つ落ちていた。
水で濡れたそれが冬の日差しの中でキラリと光ったような気がして、彼女はしゃがみ込んでそっとその石を拾い上げる。
「こんなの、昨日まであったかしら……」
『今囚われている現状に不満がありますか。もし、その拘泥からの旅立ちを望むならば、僕はその思いを祝福しましょう』
「傷だらけで、汚れてて……私みたい」
土と泥と手垢で汚れ、擦り傷で白く濁った石を日に透かすと、ぽつりと中に一点青い色が見えた。
その色に、彼女はふと教会で毎朝顔を合わせる青年を思い浮かべる。
牛乳配達の仕事の後、ミサに参加している彼の実直そうな顔。安物で草臥れているけれども清潔な上着。そして、讃美歌の途中でそっとヘレンを盗み見る、熱のこもった青い瞳を。
その視線の意味を知らぬほどヘレンは世間知らずでは無かったけれども、聖書の教えに従って、母の教えを守って、貞淑な妻として、正しい人としての生き方に準じて、ヘレンはその目に気づかないふりをしてきた。
けれど。
(もし、もしも、彼が私の夫だったら、私を愛してくれたのなら、私はつまらない女にはならなかったのかしら)
こんなに惨めで、虚ろな気持ちにならずに済んだのだろうか。
(愛されることって、愛を求めることって……本当にいけないことかしら……)
如雨露を提げたまま立ち尽くす彼女の手の中で、石は静かに光っていた。
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