2枚目

 清々しい朝の空気を吸い込んで起き上がる。昨日の夜寝ぼけて閉めた窓が1cmほど空いている。最近少し暖かくなったと言ってもまだまだ外の風は冷たい。


 ピンポーンと軽快にインタホーンが鳴り、本日の来訪者を告げる。最近は冬月とよく部屋を行き来するようになった。今日も彼がきたのだろう。


「おはよ冬月くん。朝早いね。」

「おはよ。もう9時過ぎてるけどね。今起きたとこ?前髪跳ねてる。」

「わぁ〜直してくる。上がって。」


 吉野は朝が弱いので昼夜逆転することが多く、こういうことは割とざらにある。一方で冬月は一つも寝癖のない髪を光に反射させて、健康そのものである。


「ねぇ、吉野はなんで一人暮らしを始めたの?」

「え急になんで。まぁ大学に近いからだけど。‥‥‥本当はそれが自然なことだと思ったから、かな。」

「‥‥‥吉野は少し姉さんに似てるね。俺は姉さんを探しにここにきたんだ。」

「この前話してた連絡が取れなくなったお姉さんのこと?」

「そう、今どこで何をしているのかもわからない。」

「どうして誰にも言わずに消えちゃたのかな。」

「俺には想像しかできないけど、姉さんにとって家とか家族っていうのは鎖みたいなものなんだと思う。どこにも行けないようにつないでおく。でも結局姉さんは僕ら家族から姿を消した。」


 淹れたての珈琲をコトリと自分と冬月の前に置く。薄く蒸気が立ち上り、芳香な珈琲の香りが部屋に充満する。吉野は黒い水面に視線を落としながらその中に言葉を探すようにこたえる。


「籠の鳥が自分から外に飛んでいくのと似てるね。飼い主は偶然扉を閉め忘れたのかもしれない。でも、外に出て飛んでいくことを決めたのはその鳥。外にどんな危険があるのかも知らずに自由を求めて飛んでいく。」

「……それでも俺はその鳥を追いかけずにはいられないんだ。」


 冬月は苦笑すると窓の外を眺めた。窓の外から差し込む光が右目尻のホクロに影を落とす。その横顔を眺めながら吉野は思案するように首をかしげる。


「手伝おうか、そのお姉さん探し。もしかしたら知ってる人かもしれない。」


 振り抜き様に冬月の色素の薄い茶髪がさらりと揺れる。


「なんで、え、本当に?」

「だからちょっと確かめさせて。」

「は、--。」


 その瞬間冬月の思考は停止した。吉野が冬月の体を抱きしめている。いや、抱きしめているというのには少し語弊がある。正確には冬月の匂いを嗅ぐために体をつかんでいるだけである。

 

「やっぱり同じ匂いがする‥‥‥。甘い桜みたいな匂い。」

「‥‥‥。」

「ねぇ冬月くんのこの匂いって香水か柔軟剤?」

「‥‥‥。」


 吉野の赤みがかった目が怪訝の色を込めて冬月を見上げる。それでやっと冬月は意識を戻し、脱力する。


「はぁ、‥‥‥吉野ってたまに本当に遠慮ないよね。そういうことなら一言言ってよ。」

「ごめんごめん、そんなびっくりさせるつもりはなかったんだけど。」

「全然悪かったって思ってないだろ。………香水だよ。あと、柔軟剤も似たような香りのやつ使ってる。」


 冬月はそっぽを向きぶっきらぼうにそう告げる。その耳が赤くなっていることに吉野は気づかない。


「ごめんて、ほらプリンやるから機嫌直しな?」

「子供じゃないんですけど。」

「可愛げないなぁ。」

「可愛くなくて結構です。」

「あのね、さっき確かめたかったのは私が去年あった人が冬月くんとすごくよく似た香りをしてたからなの。あんまり嗅いだことない匂いだし、他の人でこういう香りの人に会ったことなかったから、なんだか関係ないとは思えなくてね。」

「確かにあんまりこの香水を使ってる人にあったことないな。」


 冬月は吉野に向き直る。


「やっとこっち見たわね‥‥‥。」

「でもよくそんな一年前の人のこと覚えてたな。」

「うん私も、いつもだったら覚えてないと思う。でも、本人は覚えてないだろうけどあの人のおかげで私は自分の名前を嫌いにならずに済んだから。」

「?そういえば吉野の下の名前って聞いてないな。」

「桜っていうの。吉野桜。あの人に会うまで自分の名前も桜の花も好きじゃなかったの。」


——これは孤独を愛した女性と一人では生きられない人たちの物語。


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春を待つ人 九重工 @8686

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