春を待つ人

九重工

1枚目

 桜吹雪が勢いよく吹き付けて、吉野桜は目を瞬かせた。坂の上、遥前方を歩く人の香水の香りが風に乗って鼻腔をくすぐる。甘い桜のような可憐な姿の中に儚い色気を感じさせる香り。それはひどく心をざわつかせて吉野の心に跡を残した。桜越しに感じたその人はいつまでも忘れられないほどに魅力的だった。



 吉野は電車に揺れながら窓の外を眺めていた。この時期はどこも桜が咲き誇っている。なぜ桜は花を咲かせるのだろう。桜は梅や胡桃とよく似た花を咲かせるけど実をつけることもなくただ儚く綺麗に散っていく。まるで誰かに見てもらいたいとでも言うように主張する。

 そのくせあっさりと散ってしまうから一週間と持たない。吉野の桜が見事だと言われるように、桜は多くの人を魅了する。私はその桜の名前にちなんでつけられた。だけど私は桜のように大勢の人に見物にされるつもりも、儚く散るつもりもない。だから同じ名前をもらっても桜を好きにはなれなかった。

 だけど去年の春、坂の上を行くあの人と桜吹雪の光景がまぶたに焼き付いてから、私は春を待ち続けている。ちょうど今ぐらいの時期だっただろうか。

 今年私は大学一年を迎える。その前に新しく借りた部屋に慣れなければとこうして一週間も前から準備をしている。荷物は全て移動させてあるので今日はアパートの周囲に何があるのか散策する予定である。

 眠気に負けて首がカクンと落ちる。それに合わせて肩には届かない長さの髪が顔にハラリとかかるのを鬱陶しげに払い、姿勢を正す。目的地はあと一駅分だ。


「んー、ずっと座ってたら体が強張っちゃったな。」


 駅は9時を過ぎていることもあり人がまばらだ。こんな日の高いうちから起きていることの少ない吉野にとっては新鮮な光景である。

 目を覚ますためコーヒーを買おうとコンビニに立ち寄る。ホットコーヒーを手に包み込むようにもち、その暖かさに癒されていると肩にドンッという衝撃が走り、手にホットコーヒーがかかった。


「--ッ、ぁつ。」

「大丈夫ですか!?」

「すみません!こら、舞こんなところで走っちゃダメじゃない!」

「大丈夫ですよ。ちょっとコーヒーが手にかかっちゃっただけです。」


 どうやら走ってきた少女が私の隣を歩いていた男性にぶつかり、その人がはずみで私にぶつかってしまったらしい。後から追いかけてきた少女の母親は私と男性に向かって深く頭を下げる。


「本当にすみません。私の不注意でお二人にご迷惑をおかけしました。」

「ご、ごめんなさい。お姉ちゃん、お兄ちゃん。」

「俺もぶつかっちゃってすみません。火傷してないですか?」


 本当に大したことがないのでなんだかこちらまで申し訳なくなってくる。


「いえ、私も店先で少しぼーっとしていたので、すみません。それに本当に大したことないので気になさらないでください。」


そういうと親子はホッとしたようだ。男性はそっとハンカチを差し出してくれた。


「よかったら使ってください。返さなくていいので。」


 このご時世にハンカチを持ち歩く男性に会うとは、稀なこともあるんだなぁと思いつつお礼を述べる。しかも彼と吉野はそう変わらない年齢のようだが、吉野はハンカチを持ち歩かない。これは女子力云々ではなくエチケットの問題であろうか。


「ありがとうございます。すごく助かります。」


そう言い、会釈を返して歩き出す。しかしなぜか男性も後を追うようについてくる。何度か角を曲がったがかれこれ10分はそうしている。流石に吉野も不審に感じて道を引き返すと勇気を振り絞って声をかける。先ほど話した感じでは危ない人という気はしなかったが勘違いだったのだろうか。人は見た目によらないという言葉が頭をよぎる。


「あの、どうしてずっと後をついてくるんですか?」

「すみません、俺も後をつけてるみたいになってしまって申し訳ないんですけど、家がこっちなんです。」


 男性は困ったように笑う。吉野の顔にサッと熱が集まるのがわかる。彼女は先ほどハンカチを差し出した相手に向かって浅はかにも疑いの気持ちを向けてしまったことを恥じていた。


「勘違いしてしまってすみません。」

「俺もまさかこんなに道が一緒だと思わなかったので、不審に思われるだろうから声をかけようかと思ったんだけどタイミングを逃してしまったんです。」

「こんなこともあるんですね。」

「すごい偶然ですよね。よかったら、途中まで一緒に行きませんか?その方がお互い気まずくないし。」

「そうですね。ずっと等間隔で後ろを歩かれると怖いので一緒に行きましょう。」


 吉野ははにかむと男性と肩を並べて歩き出した。しかし後ろを歩いていないと言っても無言も気まずいものである。その空気に耐えきれずについ口を開く。


「あの、私吉野って言います。名前聞いてもいいですか?」

「俺は冬月です。もしかして吉野さんって大学生ですか?」

「そうです。今年からこっちに引っ越してきました。冬月さんもですか?同じくらいの年に見えるので。」

「はい、俺も今年大学に入りました。ってことは同い年なんですね。じゃあ、敬語はやめましょうか?」


 実は吉野は短大を一度卒業している。そのため冬月と同い年ではないが今のタイミングを逃せばタメ口で話す機会をなくすような気がして誤解だと言えないまま、曖昧に笑ってごまかす。


「その方が話しやすいよね。えっと呼び方は冬月くんでいいかな?」

「好きに呼んでもらっていいけど、じゃあ吉野ちゃんって呼べばいい?」

「なんか久しぶりにちゃん付けされてくすぐったいから、吉野って呼び捨てがいいかな。」

「わかった。」


 なんだか少しぎこちない会話。それでもアパートに着く頃には二人の距離は少しだけ近付いていた。


「結局最後まで同じ道だったね。」

「吉野もこのアパートなの?」

「うん、今日からこのアパートの住人。よろしくね冬月くん。」

「こちらこそ。夕暮れ荘にようこそ。」


 そうして私たちは出会った。

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